第34話 純文学は小難しくない

 私が純文学にハマるキッカケになったのは

 長嶋有さんの『泣かない女はいない』でした。


 長嶋有さんは第126回の芥川賞を受賞されています。


 私が最初に出会った『泣かない女はいない』も芥川賞受賞作品である『猛スピードで母は』もユーモアセンスのいい読みやすい小説です。


 それまで私は純文学という分野を知りませんでした。

 ただ、身近にある本や目についた本、自分にとって難し過ぎない本を読んでいました。


 けれど長嶋有さんに出会って、純文学というものを知り、これは私のとても好きな分野なのでは無いかと気づきました。


 私がここで再三書いているように、純文学は芸術的作品でも、小難しい作品でもありません。



 先日、ユーチューブで羽田圭介さんが純文学は起承転結がはっきりしてないもの、という事を仰っていましたが、きっちりした起承転結ではない小説の中に作者の感受性が入ってるもの、それが純文学だと私は認識しています。


 羽田さんは純文学作家ですが、エンタメ系作家だと見られる事もたまにあります。


 それは『盗まれた顔』のようなミステリー小説も書かれているのと、比較的ストーリー展開があったり、分かりやすい作品が多いからだと思います。


 そうなんです、純文学でありながらミステリー小説のような作品や、分かりやすい(読みやすい)作品だってあるのです。


 こういう点から私は、ラノベであっても純文学を名乗る作品は書けると思っています。


 例えば、勇者が魔王を倒そうと思ったけど、魔王と何故か意気投合して仲良くなっちゃった話があるとします。

 その話が、ただストーリー展開だけに頼るエンターテイメント小説であるなら、一般のラノベかもしれません。


 ですがこの小説の中で、作者が今までの人生で体験した感情、出来事時の想いを登場人物に語らせたら純文学になる可能性があります。


 勇者が魔王と意気投合した理由が、親から愛されなかった者同士だった事が判明したからだとします。


 そしてこの小説の中で勇者なり魔王が、親に愛されなかった時の具体的なエピソード時の感情を文章として表されていたら純文学になってくる可能性が出てきます。


 ここの「表現」が大事です。


 読者の琴線に触れるような、具体的な感情が触れられそうな表現や、それを読者が想起出来そうな表現、それが大事です。


 私は「お嬢さま家政婦」という小説を昔書いたのですが、その中で主人公が同級生が話している会話に入るのが難しいというのを『大縄跳びに入る時みたいに一生懸命タイミングを見計らって』としないと会話に入るのが難しいと感じている主人公の気持ち表現で使いました。


 こういう事なのです。

 ただ、同級生の会話に入れない主人公。では無く、それはどういう感じに思っているから会話に入れないのか→大縄跳びに入る時みたいに一生懸命タイミングを見計らわなくてはいけない、とこういう感じに思っているというのを比喩的に書いて、より読者に主人公の感覚を伝えようとしました。


 これは作者である私が感じた事のある、体感した事のある状況であり感情です。


 作者の体感や感受性を文章として表現して作中で書いていく、これがあってこそ純文学だと思います。


 羽田さんはそれをとても使いこなされているので、エンターテイメント性の高い作品やミステリーでも純文学作品に出来るのです。


 小難しそうな小説であっても、作者の体感や感受性を作中で表現されていなければ、それはただの小難しい小説であり、純文学では無いと私は思っています。

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