第26話 だからこそ届く

「とりあえず、座ってください」


 井口さんは右手で近くの椅子を指し示した。長い話になると思い、僕は座った。


「ラストストローを知っていますか?」


 聞いたことがあるので、僕は軽く頷く。


 それは、西洋の故事成語だ。


 砂漠を行くラクダは、タフだから、たくさんの荷物を運ぶことができる。軽い藁ならもちろん何千本と運ぶことができる。


 でも、いくら軽くても重さはある。


 いくらタフでも、限界はある。積み過ぎたら、動けなくなる。


 その動けなくなる最後の一本を、ラストストローと言うのだ。


 ことわざ風に意味をつけるならば、「我慢の限界を超える最後のトドメ」という意味だ。


「つまり井口さんは、あの寄せ書きがラストストローだと言いたいの?」


 井口さんは頷いて、話し始めた。


「ご存知の通り、私は学校でいじめられていました。中にはイジメに相当するものもあったかもしれません。でも、それをイジメと思えていなかったのです。どうしてだかわかりますか?」


 なんとなく、わかる気がする。


「諦めていたから、慣れてしまったから、そういうこと?」


 井口さんは頷いた。


「異常が日常になってしまった。変えることができないと、諦めていたから。だから私には、それに耐えることができた。諦めることで、その立場に甘んじていたの」


 不意に僕は気づいた。


 僕に似ていると。


 世界を諦めて、なんの希望も抱いていなかった僕に、よく似ている。


「全て諦めきっていたから、抱くような希望もなかったから、絶望もしなかった、そういうこと?」


 井口さんはコクリと頷いた。


 ああ、なら納得が行く。


 何故彼女が自殺未遂をしたのか、僕にはわかった。


「つまり、僕らが君に希望を与えたから、絶望できてしまったのか」


 井口さんはまた頷いた。


 絶望とは、「望」みを「絶」つと書く。


 逆に言えば絶たれるだけの望みが無ければ、絶望はない。諦めてしまえば、我慢が効くのだ。


 でも僕らは、彼女の手を取ることを選んだ。


 望みを与えてしまったのだ。


「浅井さんたちが来た日の少し後に、私はあの寄せ書きを見ました。最初はなんでもない、ただの寄せ書きだったんです。でも私は、それを自室の机に置きっ放しにした。だから私は、夜になってからあの仕掛けに気づいてしまったのです」


 思い出したくもないほど鮮やかな、侮蔑の文字が、僕の脳裏をよぎった。


「気づいたらもう訳が分からなくなっていました。あなたたち二人が嵌めたんだとか、私には味方はいないんだとか、もう色々。気づいた時には私は母の部屋をノックしていて、『もう嫌だ』って言っていました。母は、どこから取り出したのかカッターナイフを持っていて、ニコリと笑っていたんです。今から考えると恐ろしくて仕方ないですけど、あの時は、それが天使の微笑みに見えました。そのあと、私たちは手首を切りました」


 そこまで話して、井口さんは顔を伏せた。


「……そういえば、お母さんはどうしているの? 病室違うみたいだけど」


 井口さんはすこし言い淀んだけれど話してくれた。


「あの人は、私より先に目を覚ましていたみたいで、お医者さんと面談したんです。でも、すこし精神的な問題ができていたみたいで……」


 なんとなく、理解した。


 でも、この話を聞いて、何を星川に伝えればいいんだ?


 今までの話だけだと、原因が僕らととられてもおかしくない。


「あなたたちは潔癖すぎるんです」


「……どういうこと?」


 井川さんは綺麗に笑って話した。


「あなたたちは私を助けようとしただけ。そのことに関して、私は余計なお世話とか、そんなことは考えていません。結果私が傷ついたとしても、あなたたちのせいだと私は考えていません。むしろ私は、あなたたちに感謝しているのです。だから気に病まないでください」


 その言葉は、決して僕や、星川を慰めるものではなく、ただ井口さんの中にある言葉だと感じた。


 だからこそ、星川の救いになるかもしれないと、僕は思った。

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