第29話
お盆休み前最後の教室を終えて、その翌日である。
春日と佐内が一緒に唸っていた。その視線の先にあるものは一冊の絵本だ。春日が見たと言う祖母の幽霊を、俺と佐内の双方も確認した。春日が推測するところでは、あれは祖母が生前に残した未練の類なのだと言う。絵本を解いてみると表紙になっていたページの裏には血で書かれたように黒ずんだ印があり、そこに思念や思いを封じ込めていたらしい。
ただ、具体的にどういった魔法を使ったのか、というところまでは解き明かせなかったようだ。何度か指を鳴らしていたが、何一つの成果も得られなかったようである。春日で無理ならば、魔法を使うことの出来ない俺にも解き明かせないだろう。
理論だけでは、魔法は使えない。魂を染める色にも似た、自身の本性を知る必要があるのだから。
「それにしても、この絵本は誰が描いたのかしら」
「内容に喜ぶかと思ったが、そうでもないんだな」
「当たり前じゃない。結婚するのは運命だけど、恋をするのは運命じゃないでしょ?」
「さいですか」
「それに、前世からの因縁なんてものは重すぎるし」
私の愛は重くないの、と春日は堂々嘯いた。未来が見えたの、だから私と結婚する運命は決まっているんだからねと、今日は婚姻届けまで持ってきていた。それを真っ二つに折り曲げながら、佐内にも意見を求めてみる。
「どう思う?」
「どうにも話が見えてきません。弥勒なんて名前、古臭すぎて偶然の一致には思えませんし」
「古臭いてお前」
俺のツッコミを無視した佐内はそっとページを捲って、もう一度絵本を読み返すつもりみたいだ。どうにも、内容に納得していないらしい。ふふ、俺も同じだぜ。
絵本は、俺たちが知っているものと違っていた。大本の筋書、少年が大洪水から少女を救うという点は変わっていない。しかしながら細部が、というか至るところが異なっている。設定も一部書き換えられていた。
順を追って、内容を見て行こう。
主人公は弥勒という十歳の少年だ。彼にはオスの狼と人間の娘との間に生まれた子供だという噂が立っていて、他に身寄りもない捨て子だった。村人からは雑用係として、時には言葉にするのも憚られるような虐げられ方をしていた。現代に伝わっている昔話とは、まるで設定が違っている。
彼を助けたのがミヤという少女だった。少年よりも幾分か幼い彼女は、村一番の豪農の娘である。背は低く華奢な身体付きをしていたが、愛らしさは生まれたばかりの猫にも勝り、村人は彼女の言うことなら何でも聞いていたそうだ。ある雨の日、村近くの山で遊んでいた彼女は斜面で足を滑らせた。脚を捻った彼女を家まで送り届けたことが縁でふたりは仲良くなったそうだ。それが運命の始まりで、不幸の始まりでもあったのだろう。
親の咎める声も無視して、彼女は弥勒と遊ぶようになった。それを快く思うような親ではなかったのだが、ミヤの我儘には素直に頷くしかなかった。彼女が機嫌を損ねると黒い髪は血に塗れたような赤に変わり、彼女が祈るように手を合わせれば摩訶不思議な出来事が村を襲うからだった。
ミヤは魔法使いだったらしい。
さて、仲良くしていた二人だが、あるときを境に雲行きが変わる。村が壊滅的な被害を受けるほどの大雨が、頻繁に降るようになったのだ。この頃は現代のような堤防が存在せず、田畑として多くの土地を耕していた村は、氾濫する川から自身を守る術を持っていなかった。大雨が降る度、村の被害は甚大なものになったようだ。
弥勒も、再興のために駆り出された。それは普段から田畑での仕事に従事している村人にとっても苦しいものだったが、弥勒はそこで、類稀な働きを見せる。彼を虐げていた町の人も、次第に彼を認めるようになっていった。鉄拳の代わりに握り飯を与え、暴言の代わりにこれまでの非礼を詫びて感謝を告げる。
彼を取り巻く環境は、村を襲った災害を機に急変したと言えるだろう。
しかも、彼にとって良い方向へ。
ミヤの両親は焦った。ミヤは家の政治的権力を増すために、他の村の商家へと嫁がせる予定だったのだ。しかしミヤは弥勒に惚れているし、弥勒もミヤに対して特に優しい表情を見せている。村の中では、彼らを夫婦然として扱う連中も出る始末だ。
これでは不味い。
早く、なんとかしないと。
頭を悩ませが彼らは、他の地域から流れてきた宗教に染まっていった。それは木々を本来の速度を超えて成長させ、太陽の恵みを作物に効率よく与えるような、実利的な奇跡を起こそうとする宗教だった。まず間違いなく魔法使いが教祖で、弟子を広く集めていたのだろう。そこで彼は、魂の性質を捻じ曲げ、人間の心を思い通りに操る悪意ある奇跡を願った。しかし都合の良い魔法を努力もせずに得られるはずがなく、一年後、弥勒とミヤが夫婦になるという話は村全体に広く浸透してしまった。
両親である、彼らの望みは叶えられそうもなかったのだ。
しかし、神様というものがいるのなら、それはミヤの両親の味方をしたらしい。再び酷い雨が村を襲い、昨年と同じような惨劇に見舞われた村人たちは嘆いた。これから自分はどうすればいいのか、このままでは家族を養っていけない、食っていけないじゃないかと。
それをみた親父殿は、あることを思いついた。
『人柱』だった。
雨を止ますためには、人柱が必要だ。川の氾濫を止めるためには、人柱が必要だ。そういう噂を広めて、村中を不安に陥れた。村人たちは家族を庇い、友人や知人を匿った。互いにかばい合うことで、親しい人が人柱にならないようにした。
しかし、弥勒には身寄りがいなかった。
彼の他にも身寄りのないものはいたが、傷病者や老人ばかりだった。そこで、ミヤの両親は畳みかけた。
「人柱として扱えるのは健康体の人間だけだ」
「神は、健康な人間しか人柱として認めないのだ」
「救うために、切り捨てるべき命もある」
かくして少年は、弥勒は、人柱になった。
彼を川に沈めてから二日後、嘘のように雨は止んだ。それを村人たちは嘆き悲しんだが、大事の前の小事、愛する者のために親しい友を犠牲にしたのだと言い訳を重ねた。それ以降、村は壊滅的な水害に苦しめられることもなくなったが、村人たちは彼のことを忘れないように地蔵をつくった。
それが過度に信仰されないよう、親父殿は村の神社の仏様と一緒に奉納することで、仏様へと信心が向かうように仕向けた。それはうまくいった。村人達の子供や孫たちに少しずつ違った昔話として語り継ぐことで、弥勒と言う名前を消し去ることにも成功した。ミヤを他の村の有力者に嫁がせることで権力の拡大にも成功した。
だが、ひとつだけ問題がある。
それは娘が、ミヤが、弥勒のことを愛していたこと。
愛を、忘れなかったことだった。
彼女は自身の複製となる人形を作った。現代に伝わることのない奇跡と呼ぶにふさわしい魔法を人形にねじ込んで、自分が死んだ後も動き続けるようにした。彼女の魂は心と分離して、再び弥勒と会いまみえる日を待ち望んでいるのだ。
ここで物語は終わっている。
以上、物語の解説はお終いである。
一緒に絵本を覗き込んでいた春日は、深い湖の底から浮かび上がってきたかのように長い息継ぎをした。俺も佐内も似たようなものだ。何度読んでもこの物語は受け入れがたく、これまでに知っている昔話との整合性がない。少年が死んで、少女が彼のことを慕う程度しか、現代には伝わっていないのだから。
「婆さんはどうしてこんなものを残したんだろう」
「そもそも、これを描いたのは誰なの?」
「千刈住職、だと思うんだけどなぁ」
なんだか自信がなくなってきた。
この絵本を作ったのがあの住職だとして、どうして俺の名前が載っているのだろう。もしかして、祖母と住職が深い関係にあったことがあるのだろうか。望んでも生むことの出来なかった子供の代わりに、拾い上げた俺に弥勒の名前を与えた、とか?
うわぁ、嫌だなぁ。
数十年前の男女関係について考えていたら、春日に肩を叩かれた。
「あなたのお婆さん、魂に関する魔法を研究していたのよね」
「詳しくは知らないんだよ。霊魂がどうのって言っていたのは覚えているけど」
「ということは、昔話の最後のところ。ミヤが使った魔法っていうのを研究していたとか」
「現代には残っていない、と書いてあるからなぁ。その可能性はあるかもしれないけど」
確証なんてものは、どこにもないのだ。
それでも、と繰り返すうちに嘘が本当になることを祈りながら、俺は
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