第28話

「お皿洗い、終わりました。……まだくっ付いているんですか」

「いや、離れようにも、ほら」

 背中に回された春日の腕を、顎で示す。指をしっかりと絡めていて、無理矢理離れるのも難しそうだったからな。そうとも、このまま抱き付いていたいなんて考えていたわけじゃないのさ。……嘘っぽいな。これ以上追及する前に話題を変えよう。

「取り敢えず、春日の指を外してくれないか」

「本当にいいんですか? 春日さんとくっ付いているのが幸せなんじゃないですか?」

「あのなぁ」

 言い返す言葉が見つからなくて、矛先を変える努力をすることにした。

「あぁ、皿洗いしてくれてありがとうな」

「お二人が取り込み中だったので、仕方なくやっただけです」

「何もしていないぞ。このくらいは別に」

「普段からやっているということですか? ふーん」

 抱き付いていた春日の指を引き剥がしてくれたが、そのついでとばかりに背中を抓って来る。痛いけれど、文句を言うことも出来なかった。

 起き上がった俺は前屈みになったまま、佐内の持っているものに目をやった。晩御飯の前に部屋へ持ち込んで、そのままになっていた絵本だ。件の千刈住職が制作した絵本である。その認知度と、若干の歴史的教養が含まれていることからこの地域の書店にも置かれていることがあった。内容が若干重い昔話と言う点で『泣いた赤鬼』と似通った部分もあるのだろう、それらが一緒に並んでいるのを見たこともある。

「で、どうしたんだよ。読み聞かせて欲しいのか」

「そんなわけないじゃないですか。ここを見てください」

「ん? なんだよ」

 普通の絵本ならバーコードのあるところだった。だけど、佐内に指摘されてそこには何もないことを知った。表紙、裏表紙を含めてすべて絵で覆われている。

「偶にあるんだよ。バーコードがなくて限定版の――」

 自分で言っていて、嘘だと思った。この本だけやけに古いし、日本にバーコードが普及したのは四十年近くも前の話だ。千刈住職がこの絵本を描いた時期がいつだったかは知らないが、それよりも前に描いたものなんだろうか。

「同じ本が書斎にあったはずだ。取って来てくれないか」

「えっ、幽霊が出るんじゃ」

 苦い顔をすると、佐内は笑いながら舌を出した。

「嘘です。私は幽霊なんて信じませんから」

 悪戯が成功したことを喜ぶように、彼女は小躍りしながら部屋を出て行った。

 春日は安らかに眠っている。薄い肌着から覗く胸元に目が奪われそうになって、慌てて顔を逸らした。扇情的な色香と溺れる程の愛は毒に等しい。……佐内に知られたら、と春日に薄い布団を掛けた。

 しばらくして戸口に現れた佐内は、俺が望んだとおりの絵本を持って来てくれていた。

「ありましたよ」

「サンキュ。……んー、やっぱり違うな」

「どうしてなんでしょうね。原本とか?」

「それはないだろう。これを描いたの、うちの婆さんじゃないはずだし」

 佐内が持ってきてくれた絵本と、俺が書斎で見つけた絵本。見比べてみれば違いは明確だ。

 俺が見つけたものは印刷したものではなく、手書きの、恐らくは原本と呼べるほど古いものだろう。古い紙だと言うことは何となく分かるのに、保存状態が良かったのかボロボロというほどではない。

 内容を確認しようとページを捲ったところで、青い光の奔流が絵本から噴き出した。

 再び目を見開いたとき、そこには身体が一部欠損した祖母が宙に浮いていた。

 なるほどなぁ。

 春日がビビるのも道理だよ。

「嘘……」

 失神した佐内が倒れ込むのを抑え、身を庇うように後ろへと退く。ついでに春日と祖母との間に入り、彼女も背負う形になる。

「どうして婆さんがいるんだ。怖いっていうか、なんか」

 笑えてきたよ。あまりにも現実離れをした、幻想的な風景だ。

「みろ……は……」

「なんだよ、言いたいことがあるならはっきり言ってくれ」

「…………そうか」

 青白いホログラムのような祖母が、気付けば目の前にいた。虚空とはさもありなん、何も映っていないような瞳で見つめられ、ぞっとするほど冷たい腕が首に巻き付いた。いつの間に? どうして? 考える暇などなく、ただ一言「やめろ!」と叫んだ。

 大気に痺れるような振動が走り、魔法のように、彼女は動かなくなった。彼女の冷たく鋭い瞳が心を凍らせていく。久しぶりの再会に快哉を叫ぶことも叶わず、死してなお常世に留まり続ける祖母に対して疑念を向ける。

 祖母は、たった一言だけ口をきいた。

「生きたいか、死にたいか」

「なんだよ、禅問答みたいなことしやがって」

 選ぶのは当然、誰もが望むだろうこと。

「生きていたいに、決まっているじゃないか」

「……そうか……そうだよな……」

 途切れがちな言葉を発した祖母は、首を絞めたときと同様にその場から唐突に消え、俺が捲り上げた絵本の前に座っていた。春日も見ただろうこの光景を、呆然と見守るより他にすることはない。祖母が捲る昔話が解けバラバラのページになり、青い光が抜け落ちていく。彼女が絵本を持ち上げると、糸が解けるように光がもつれて、祖母の姿が見えなくなった。

「な、何だったんだ、今のは」

 春日はのんきに眠っているし、佐内は気を失っている。あまりに唐突な死人との邂逅に理解が追いつかず、バラバラになったページに触れてみる。まさか、元に戻すと祖母の幽霊が再びこの世に現れたりするのだろうか。近寄って確認するも、魔法の使えない俺には何の確証も得られない。

 くそ、おっかなびっくりの作業にはなるが、本の寿命が来る前に読み終えておくか。祖母が研究していたのは魂がどうこうという……なんだったかな。以前春日から聞いたことがあるような気もするが、あまり覚えてはいない。

 絵本を捲る内、ある疑惑が浮かんできた。佐内が持ってきてくれた本と見比べてみれば、その違いは明白だった。その本の内容が、一般に流通しているものとは違っているのだ。そして作品を読み進めていくうちに全身を恐怖が覆い、最後のページを読み終えたとき、思わず俺は、原本だろう絵本を壁に投げつけた。

 主人公の名前が弥勒。

 彼には記憶がなく、拾われた子供だった。

 ヒロインの少女の名前がミヤ。

 彼女は弥勒に恋をして、彼と親しくなった唯一の少女。

 そして、紅い髪の持ち主だった。

「ふざけているのか、これは!」

 ぞっとして上げた悲鳴は夜の闇に吸い込まれて、目を覚ました佐内に抱き付いた。みなしごの主人公が、紅い髪の少女を救うために命を投げ出した話。それ自体は、特別な物語じゃないだろう。だけど、春日が明かした秘密と、俺が抱えている問題とを照らし合わせて。

 そして、何よりも、それを和子が隠していたという事実を目の前にして。

「どうしたんです、みーくん」

「だって、だから、でも、俺は…………ごめん」

「大丈夫ですよ。私、ずっと傍に居るんですから」

「……そっか」

 唐突なことで何も理解していないだろう彼女は、それでもしっかりと受け止めてくれる。自分よりも小さな少女の胸の中で、俺は一晩中震えていた。

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