第27話
それから何の話をしたかな。今日見た映画の話をしていたし、また見たいと言ったら今度こそ佐内も連れていくことになった。家で一人お留守番というのはやっぱり寂しい話だし、酒の効力あってか春日も簡単に説得することが出来た。
あの映画の原作は佐内も読了済みで、将来小説家を目指すものとしてあの作品の完成度について語ってくれたりもした。こういう話をしていると佐内が物語オタクだということが分かって来る。
幼く可愛いらしい見た目に反して、暇な時間にはハードカバーや文庫などを手当たり次第に読んでいるだけの大人しい性格からは考えられないほど、小説について喋っている時の彼女は瞳を輝かせている。しかも饒舌だ。分からないことを尋ねたり話を中断しても、それで怒ることがない。話していて、心地よくなってくる。
「それで、私が幼稚園くらいに読んだ漫画があるんですけど」
佐内の口にした漫画のタイトルが思い出せなくて首を傾げた。春日が何度も頷いているところから察するに、有名な漫画なのだろう。佐内が幼稚園というと、俺は小学生だろうか。成程、覚えていないのも道理である。
記憶が欠けていることをふとした拍子に思い出したせいか、徒歩三十分の距離にある十階建ての病院の屋上から飛び降りたくなった。
酒が足りなくなって、部屋を出る。二階へと続く階段下から冷えていないビールを持ってくると、春日が机に突っ伏していた。聞けば酔いが回り始めて眠くなってきたらしく、気分が悪いわけではないようだ。冷凍庫から氷を出してグラスに入れる。涼しげな音を立てたステンレスのそれを片手に春日の隣に座ると、彼女も体を起こした。
目が少し赤くなっている。酔っているのは本当なのだろう。
缶は一本と半分か。ちょっと弱いけれど、全く飲めないわけではない、という感じかな。
「そういえば、佐内は魔法を使えるようになったのか?」
「いいえ。練習もしていませんし」
「もったいないよー。魔法を使えれば、すごく楽しいことも多いんだから」
「でも、魔法を日常生活に役立てるのは難しいからな」
家で重い荷物を運ぶときとか、ゲーセンのクレーンゲームでインチキをするときはともかくとして。街中で荷物のたっぷり詰まった鞄を宙に浮かせながら歩いていたら、あっという間に有名人になってしまうじゃないか。魔法は秘匿するものという不文律に真っ向から対立するそれを、普通の魔法使いが認めるとは思えない。
誰もが使えるわけでもないし、その点でも平等じゃない。だから、隠しているべきなんだ。
「だけど私、魔法のおかげで学校に行けたんだし」
「ん? それはどういうことだ」
「初耳ですよ」
「そうだっけ。んー、二人には特別に見せてあげようかなー」
にこにこと笑いながら、ムギワラギクのように鮮やかな赤で頬を染める。
彼女が指を弾くと、髪全体から赤い粒子が吹き零れた。それは薔薇よりも赤く、芙蓉よりも淑やかな赤だった。
髪そのものも赤くなっていて、その神秘的で幻想的な光景を目の前に固まってしまう。佐内は小さく、すごい、と呟いた。
「私、この髪が原因で、小学校に入るまで家の外に出た記憶がないんだよね」
「えっ、それは本当ですか」
「うん。これをどうにかするために、お父さんが魔法を学んだの」
普通の染料では、ぼんやりと発光する春日の髪を隠すことが出来なかった。それを他人の目から誤魔化すために、彼女の父は光の魔法を学んだのだと言う。
「それにも、うちの婆さんが絡んでいるのか」
「ううん、違うよ。確かに和子さんにはお世話になったけど、魔法自体は他の人から教わったの」
「他にも魔法使いさんがいるんですか」
「そうよ。魔法使いには得意な魔法や研究分野というのがあってね」
春日の語る話を聞いていれば、その魔法を教えてくれた人は、この家から十五分ほどの距離にある寺院に住んでいるらしい。氾濫する恐れのある川から未桑町を守る堤防の、そのすぐそばに建っている寺院である。何度か町内会の行事として春の遠足に行ったこともあるから、俺も良く知っている。近くに咲いている桜の木が立派だったし、小学校低学年の子供達を連れて春の遠足を企画するには丁度良かったのだ。
「確か、千刈だよな。あの住職の名前」
「そう! あたり!」
当たりも何も、この地域に住んでいてあの住職を知らない人はいないだろう。特に小学生ならば彼の姿を年に一度は目にするはずだ。なぜなら、この地域に古くから伝わっていた洪水にまつわる紙芝居を描いたのは千刈住職で、彼は小学校から依頼を受けて地域の昔ばなしを読み聞かせる活動を行っているのだから。
ただまぁ、あの人も魔法使いだとは知らなかったがな。
公民館で紙芝居の読み聞かせをやるにあたって彼の元へ指導を受けに行ったが、なかなか素晴らしい声と技術の持ち主だった。一年生たちが彼の紙芝居を絶賛し、そのときの感動を胸にぼんやりと残せるのも納得という感じだな。
しかし、驚くべきは春日の髪だ。
思わず手を伸ばして触れてしまったが、彼女は嫌がる素振りを見せなかった。それどころか積極的に身体を摺り寄せて来る。普段ならそのまま突き返すところだけれども、今日ばかりはそういうわけにも行かない。
梳いた先から、光の粒子が空に零れ落ちていく。
美しいけれど、とても常人に受け止められるような現象ではない。
ひょっとすると、人生が狂っていたかもしれないような特徴だ。それを受け入れることができたのは家族の協力あってこそだし、魔法使いという人智を逸した存在が手を差し伸べたからでもあり、何よりも運命的な善意がそこに詰まっているような気がした。
触れていればご利益がありそうな、俺の記憶も戻ってきそうな、そんなことを考えた。
「それでー……んにゃ?」
立ち上がろうとした春日がよろめいて、それを受け止めると自然に抱き止める形になった。賑やかに騒いで喜ぶかと思ったが、俯いたまま頬を赤く染めている。いつもの乱暴な愛ではなく、一歩引いたような姿勢に頭がぐらつく。
が、佐内がじっとこちらを見ていることに気が付いて正気になった。
「もう春日は立てないみたいだし、部屋に連れて行くよ」
「お供します」
「すまんな。……よっ」
全身脱力した春日を背負ってみたが、結構な重量がある。体重的な重さというよりは、女性的な――これ以上はやめておこうかな、佐内の前だし。ただ、肩甲骨の辺りに春日の持つ爆弾があたって非常に困る。若干ながら春日という女性への警戒が弱くなっていることもあって、頬が薄らと赤くなっているのが自分でも分かる。春日を女性として意識し始めているのかもしれないな。だけど佐内から芋虫を睨むような目を向けられて、気も引き締まった。
春日の部屋へ向けて、一歩ずつ着実に近づいていく。一人では扉を開けることが出来なかったから佐内にも手伝って貰って、彼女を畳の上に敷いた布団へと寝かせることに成功した。ムニャムニャと何かを喋っていて、聞き取ろうとすると胸元に抱き留められた。
酒に溺れて全力が発揮できないでいるのか、いつもよりも柔らかい力だった。強引さがなくなっているのに、押して離れようとすると愚図り始めるのは普段通りかな。その様子を眺めながら、佐内がぽつりと呟いた。
「赤ん坊みたいですね」
「まー、暴れるよりはマシだし」
「……みーくん。その位置、気に入ったんですか?」
「ちょっとだけな」
冗談っぽく本音を呟いたら、脇腹を思い切り蹴飛ばして部屋を出て行った。
仕方ないだろ! 俺だって男なんだよ! 本能に嘘は吐けないだろ!
脇腹を抑えながら彼女の胸元で呻いていたら、春日がしずしずと泣き始めた。時折見せる嘘なきではなくて、本当に涙が流れている。迷った俺は後ろから手を回して、彼女の肩に手をのせた。
「大丈夫だよ。大丈夫」
春日がどうして泣いているのかは分からないのに、それを大丈夫と言ってのける。それは欺瞞以外の何物でもないけれど、彼女を落ち着かせることが出来るならそれでいい気がした。弾む愛情から顔を離して、彼女の頬へ自身の頬を寄せるために身体を上へと動かした。その過程で上下ではなく左右に、正しく添い寝の形になった。
頭を撫でていると、数分で彼女は落ち着きを取り戻した。先程とは逆に、俺の胸元に春日が顔を埋めている。陰陽玉のようにぴったりと触れ合っていることで安心したのか、しばらく立たない内に春日は寝てしまった。
熱を持った身体、微かに汗ばんだ肌、とけるような吐息。
触れればゆったりと指が沈み込み、愛を囁くには適切な距離だ。
春日と出会った直後の俺なら、遠慮なく彼女を突き放していたはずだ。だけど、今は出来ない。やらないんじゃなくて、出来ないんだ。
特にこれと言って、彼女との間に興味深いイベントがあったわけでもない。ただ一緒に、同じ屋根の下で過ごしただけだ。それなのに彼女への、好意にも近い感情を抱き始めている。女性との関係が少なかったから、と切り捨ててしまえば簡単だ。向けられた好意を鏡のように反射していると思えば、昔の俺は素直に頷いてくれるだろう。
だけど、これは違う。
何かを、あと少しで、思い出せそうな――。
その瞬間、部屋の扉が開いた。
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