第19話
「いいか、この問題はな」
「もー、分かったって」
「ダメだ。お前、理解したフリをしてサボるからな」
「いいじゃんかよー」
小学校高学年だろうか、ちょっと背の高い男の子に、弥勒は説教をしていた。
「せっかく頭がいいんだから、使わなくちゃ勿体ないだろ」
「脳味噌と身体は死ぬまでしか使えない、だっけ」
「よく分かっているじゃないか」
「でも弥勒先生、この問題よりも僕はこっちの方が――」
……取り敢えず、慕われていることだけは確かだ。説教をしても、子供はちゃんと話を聞いてくれているようだし。褒めて伸ばすタイプ、なのかな。
過度で重い期待じゃなくて、子供が存分に羽を伸ばしたときの力を最大限と見積もって、そこに標準を合わせた勉強をさせているのかもしれない。マンツーマンのようにみえて、先生の身体は一つしかないし。ちょっと知恵のある子は、彼が他の子に構っている間に自分で考える癖というものが自然についてしまうのだろう。
よくできている塾だ。どうして回っているのかと聞かれたら、弥勒の人徳、としか答えようがないけれど。和子さんのときも、こんな感じだったのかなぁ。
この教室の、牧歌的な雰囲気がいいのかもしれない。
弥勒の仕事ぶりを眺めながら、彼への質問を躊躇っている奥手な子に声を掛ける。そうこうしているうちに時間はどんどん過ぎて行き、夜七時を過ぎた頃、小学生達も最後の三人になった。玄関先で待つと蚊に血を吸われるからと弥勒は彼らを待合室に集め、絵本の読み聞かせを行っている。小学校三年生の子は流石に興味が薄いようで、部屋の隅で児童向けの文学を読んでいた。
「雨は二日間振り続けました。川は氾濫して、田畑は飲み込まれてしまいました」
「んー、この話、つい最近……」
弥勒が披露していたのは、どこかで聞いたことのある昔話だった。
読み終えたところで機を見て尋ねると、この地域に伝わる昔話なのだと言う。自己犠牲の精神は美しいがこの主人公のようになってはならない、と弥勒は小学生たちに訓示を垂れ始め、それ以上質問することのなかった私は黙ってその様子を窺っていた。
他の絵本を読んで欲しいと小学生たちにせがまれて、彼が本棚を漁り始める。
私も時間を潰そうと、弥勒が塾で使っている砂時計を持ってきた。サラサラと流れ落ちる砂が、なんだか素敵に思えたからだ。
「……ん?」
不思議に思って、三十分を計れる砂時計と二時間のものとを横並べにして比較してみる。
二時間のものの方が、砂の落ちる速度そのものが遅かった。それは砂の量が絞られているとか、砂の量が多いとか、そんなチャチな理屈じゃなくて。
「時間そのものを、遅らせているのか」
ひえー、何が生命と魂の研究だ。和子さんは、時間を弄る方法まで見つけていたらしい。やっぱりあの人は天才だ、と憧れや恐怖が一気に高まっていく。
魔法とは物理現象だ。数年後の科学力を前借りしているに過ぎないと、和子さんや私の両親は口を酸っぱくして言っていた。耳にタコができるほど聞かされた言葉は私の魂にまで染みついていて、それが過度な魔法行使を控えさせている。
だけど、これもヤバい奴だ。
まず間違いなく、和子さんの魔法だろう。万物は流転せず、しかし流れというものは存在している。昔会ったとき、そんな感じのことを言っていたから、それを再現したものかもしれない。あれは、砂時計を逆流させる魔法――勿論、浮遊魔法で砂を動かすとかじゃなくて時間を直に巻き戻す魔法――は存在しないけれど、時間の流れそのものをゆっくりしたものに替える術式なら存在するということだろうか。
げぇ。それはつまり、人間の平均寿命を延ばせると言うことなのではないか? 冷静になってみればそんなことはないけどさ。時間の流れを他者と共有できないなら、それは狂人として処理されるだけだ。その恐怖に打ちかってまで魔法を使ってみても、失敗したらどうしようもないし。
うわぁ。これは、ヤバい術式だなぁ。……両親とか、他の魔法使いには黙っておこう。
子供達を迎えに来る親は順調に現れて、午後八時になる前に塾を閉めることが出来た。明日もお昼から塾を開けるらしくて、私も勿論参加する予定だ。そう告げたら、彼は嫌そうな顔をした。
「なによ、手伝ってあげているのに」
「落ち着かないんだよ。自分以外の先生がいると」
「お手伝いさんは不要って言いたいの?」
「そんなことはないよ。いつもは――」
何かを言いかけて、彼は口を閉ざした。
怪しい。絶対に何かを隠しているに違いない。
「弥勒。隠し事をすると、後々――」
「こんばんは」
可愛らしい声に振り返ると、背丈の低い女の子が私を見上げていた。
身長百八十を超えているだろう弥勒には劣るけれど、私だって高身長女子の端くれである。百五十センチになるかならないか、という少女は小さくて可愛らしいお人形さんみたいに見えて、ちょっとだけ嫉妬心が疼いた。
「弥勒、生徒さんが来たけど」
「生徒じゃないです」
「え。おや、おやおやぁ?」
もしかして、弥勒の知り合いだろうか。
妹、じゃないな。めっちゃ可愛いもん。ハムスターとか、リスを連想させる愛らしさだ。若干の狼っぽさがある弥勒とは、血縁があるようには思えない。
一体誰なのだろうと眺めていたら、キッと睨まれた。うん、訂正。
猫っぽくて可愛い子だった。
「なんですか。というか、貴方は誰ですか」
「私? 私は春日宮姫って言って……」
どこまで説明すればいいものか悩んで、弥勒に視線を送る。露骨に逸らされた。
状況を打破すべく、指をパチンと響かせる。彼女の心を覗けば私が取るべき行動は分かるはず、だったのだけど全く覗けなかった。白い靄どころか、一寸先も見えない暗闇である。弥勒よりも魔法使いの才能があるらしい。
ここに来て、強敵の登場という訳か。取り敢えず、握手を要求することにした。
「私は弥勒の、将来のお嫁さんなの。よろしくね」
「お、お嫁さん? どういうことですか、みーくん」
「嘘だからな、佐内。春日の言うことは話半分に聞いておけ」
「やぁん。昼間からあんなことしたのにぃ?」
「したっていうか、お前が……」
「みーくん! どういうことですか! 説明してもらいますからね」
ビシっと突き出された指は、まっすぐ彼の方を向いている。
しかし鋭い視線は、私を真っ直ぐに貫いていた。
これって、地味にピンチかも。弥勒に抱き付いて二人の仲の良さをアピールしながら、じっと私のことを睨み付けて来る女の子に冷や汗をかいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます