第18話

 午後三時を過ぎて、教室に集まってきた生徒が十五人を超えたあたりで弥勒からの指示が飛んでこなくなった。私だって二十を超えた大人だ、ある程度のことは自分で考えてやればいいということだろう。そのご厚意に甘えさせて貰おうかな、弥勒と結婚したら一緒に先生をやる可能性も高いわけだし。

 ふんす。腕まくりをして、やる気も十分。

 私は、将来を見据えて動く女なのだ。

 筆が止まっている生徒の傍へ見回りをするように歩き、質問をしようか迷っている生徒に対して声を掛ける。弥勒先生なら声を掛けられるけれど、初めて見る女の人だから緊張する――なんてことを考えている女の子に話しかけたらとても喜ばれた。それを態度として示すことや言葉で表現するようなことこそないが、心は私に筒抜けなのだ。これで塾生からの評判が悪くなるようなことがあれば、それは他人の心を解釈する力が足りていないと言うことだもんね。

 春日宮姫、そのようなヘマは決していたしませんもの。

 勉強を教えている最中に早熟な男の子から熱い視線を貰ったけれど、それ、弥勒もやってくれないかなー。彼が時折私に向けて走らせる視線は、どう考えても関心ではなく監視の類、新しい先生が小学生相手に変なことを教えないか見張っているのだという目だった。くっそー、小学生がもっと少なければなぁ。彼らにバレないよう弥勒にセクハラをしても良かったのだけど、流石にそんなことをすれば絶交されてしまいそうだ。

「こんちは。わ、新しい先生?」

「そうだよ。よろしくね」

 塾にやって来た二十人目の生徒は小学校四年生の女子児童だった。彼女は学校から帰って直接塾の方へ寄ったらしくて、背中にはランドセルを背負っている。服装だって、私が小さい頃に来ていたようなワンピースだった。ほんの数年前のことなのに、こうも懐かしいなんて。

 弥勒は、どんな子供だったのかな。

 ふと彼女が手にしている砂時計に目が向いて、教室にいる生徒達の手元を確認してみる。不思議なことに、彼らはみんなひとつかふたつの砂時計を持っていた。およよ、今まで気が付かなかったぞ。

 砂時計のサイズは勉強の邪魔にならない、紙コップ程度の大きさだ。砂が落ちる速度はゆっくりで、完全に上が空になるには結構な時間が掛かるみたいだった。カップ麺を作るわけでもないだろうに、どうして小学生達はこれを使っているのだろう。

「ねぇ、聞いていいかな」

 私が教室に入ってきたとき、最初に声を掛けた女の子にもう一度声を掛ける。

 その子の砂時計は砂が落ちきっていて、広げていた勉強道具も片付け始めていた。

「どうして砂時計を持っているの」

「先生がそうしろって」

「どうしてそう言われたのか、覚えているかしら」

「んー。ハンコのため?」

 えっ、まるで意味が分からないんだけど。

 首を傾げつつも答えてくれた彼女は鞄を持ってテコテコと弥勒のところまで歩いていき、生徒にとくとくと語り続ける彼の肩を叩いた。叩かれた彼は懐からハンコを取り出すと、少女が差し出した紙に何やら押印とサインをしているようだった。

 うーん、一体なんだ? 私の質問が悪かったのかな。心を覗こうかとも思ったけれど、あまり詮索し過ぎると可哀そうだ。唸りつつ、彼女が机の上に置いていった砂時計を手に取ってみる。一見すると市販されているものと同じようだが、変わった装飾が施されていた。

「天面は赤いし、反対側は青いし……なんで?」

 普通の砂時計じゃないのか。何か特別な仕掛けでもあるのかと、探りを入れてみる。砂の入った容器部分はプラスチックで、子供が落としても割れないようになっているのか。枠組みの部分は木材だし、手のひらサイズと言こともあって重くないし。うーん、特別奇妙なところはないよなぁ。

 指を弾いて何かの魔法をかけてみようか。でも、一体、どんな魔法を?

 何度かひっくり返しているうちに、隣に座っていた子から肩を突かれた。

「おねーちゃん、知らないの? 先生なのに?」

「うん、今日来たばっかりだし。教えて」

 三年生の、のんちゃんという子は自分の砂時計を手に取った。

 この塾で生徒は自学自習をする。それをサポートして時に厳しく、時に優しく彼らが自力で乗り越えられない壁を上る手助けをするのが仕事なのだと弥勒は言っていた。のんちゃんも、似たようなことを説明してくれる。ここでのルールとして、飲食は定められたスペースでとることの他、公共の場所だということを自覚した理解ある行動の範疇なら基本的には何をしてもいいらしい。ただし、月に二十時間以上、塾で勉強すること。それが最低限求められている勉強量だそうだ。

「二十時間も? 多くないの」

「一日二時間で、週に二回は塾に来ますから」

「ってことは、案外簡単に達成しちゃうのか……」

 丁度のんちゃんの砂時計も砂が落ちきったところで、塾の講義形式などをより詳しく説明してくれた。

 生徒毎に都合のいい曜日で、週に二日から三日。学校の宿題でもいいし自習でもいい、他の塾の教材を持ち込んでも構わない。とにかく一日に二時間以上は勉強して、月に二十時間は弥勒が面倒を見る。それが、この塾での学習方法らしい。砂時計にはそれぞれ三十分、一時間、二時間で砂が落ちるものがあって、その日によって「このくらいなら集中できるだろう」というもの生徒が各自で選んで持っていくらしい。私は気が付かなかったのだが、玄関から教室に入る前に通過する待合室みたいなところに砂時計の保管場所があるそうだ。

 勉強が済んだら時間を延長していくか、それとも弥勒のところへ砂時計を持って行って勉強の証を受け取るかを選ぶらしい。さっきの少女が砂時計を持って行かなくてもハンコを押して貰えたのは、彼女がいつも一時間の砂時計を使って勉強していて、砂時計を持っていくのを忘れる常習犯だから、ということみたいだ。ハンコの上に彼が日付を書いているらしく、勉強時間が二十時間を超えたところで新しい紙がもらえるらしい。

「なんか、スタンプカードみたいね」

「そうです! スタンプが貯まると、オマケが貰えるんですよ」

「どんなオマケなのかな」

「玩具みたいな消しゴムとか、鉛筆とか。色々です」

「はー、なるほど」

 子供が喜びそうなものを選んでいるみたいだ。これまでに貰ったオマケについて喋るのんちゃんは、なんだか楽しそうだった。

 丁度スタンプが貯まるというので、彼女がカードを持っていくのについていく。流石の弥勒も、生徒の前で私に対する不信感をあらわにするようなことはなかった。ふふ、小学生を盾に弥勒に近づくというのも、作戦としてはアリかもしれない。

「はい、好きな奴を選んで」

「チューリップがいいです」

「おっけー。また頑張ってくれ」

「はい! ところで、先生」

 呼ばれて別の生徒のところへ向かおうとした弥勒を、のんちゃんが引き留めた。

 小学生特有のあどけない瞳が、弥勒へとまっすぐ向けられる。

「頭撫でてください」

「いいよ」

 ノータイムで返事をすると、弥勒は彼女の頭を撫でた。「よく頑張りました」とごく平凡なほめ言葉がここまで憎く聞こえたのは小学校六年生の頃、大嫌いだった科学の教師から言われた時以来だ。

「なんか、すげーむかつくんですけど」

 のんびりした顔で少女を撫でる弥勒のほっぺを、思い切り抓った。彼は悲鳴と共に飛び退って、真っ赤に跡が付いた頬を擦っている。

「みたか? この宮姫先生って怖い人だからな、お前ら怒らせるなよ」

「えー、今のはみろく先生が悪いんだろー」

「そうだ! 宮姫先生というものがありながら!」

「お前等、いつの間に春日の味方になったんだよ……」

 男子生徒達のバッシングを受けて、弥勒はすごすごと引っ込んでいく。子供達からは満面の笑みを向けられた。弥勒に対して好意を抱いているわけじゃなくて、優しくしてくれる大人に飢えていたのだろう。心を覗く必要もなさそうだ。

 さて。

 私、やっぱり男の子からの人気は高いようね。美人だって自覚もあるし。

 よーし! もっと仲間を増やして、弥勒との関係を確実なものにしようっと。

 畳の上にちょこんと座って、生徒達が質問するのを待つ。空いた時間に弥勒へと視線を向けてみたが、彼はひっきりなしに誰かから呼び止められていた。一応、人気教師なのだろうか。隙を見せたところで突かれたり、脇腹をくすぐられたりしているところから考えても、小学生たちに遊ばれているようにも見えるけれど。

 ……まぁ、それで生徒達の成績を上げていると考えればたいしたものだ。弥勒はどんな教え方をしているのだろう。全然、特別なことをしているようには見えないのにな。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る