第17話

「君達、塾の生徒だよね」

「そうです。今日は塾が開いてなくて、先生が昼寝してるのかなーって」

「そうしたらお姉さんがいて、超ビビった」

「あらー、ごめんね。私達仲良しだからさー」

 ほへー、と彼らの顔が私の下へと移る。彼らの方からは弥勒の姿が見えないだろうけれど、あんまり長居させてもいいことはないからなぁ。

 よし、早めにご退室願おう。それも、平和的な方法で。

「弥勒先生は私が連れて行くから、君達は塾の鍵を開けておいてくれる?」

「鍵の場所、知らないよ」

 それもそうか。首を傾げたよしき君の代わりに、私が弥勒へと質問を投げかける。すると彼は、特に抵抗することもなく答えてくれた。

「玄関左手にある靴箱の上だ」

「なるほど。よし君、かつ君! 玄関の左側に靴箱があるんだけど、鍵はその上に置いてあるらしいよ」

「ん。分かった! じゃ、後で」

「またね。お姉さん」

 手を振って、入って来た時同様に慌ただしく駆けて出て行った小学生たちを見送って。

 ふと、悪いことを思いついてしまった私は苦々しい顔で極力手を動かさずに引き抜こうと努力を続けている弥勒へと目をやった。あの子たちも、私との再会を望んでいるようだしー?

 これが好機だ。

「ねぇ。私にも先生やらせてよ」

「何をバカなことを」

「バカって何よ」

「これは真面目な仕事なんだぞ、遊び半分で勉強を教えるつもりなら――」

「私だって真剣にお願いしているのよ。大丈夫、仕事の邪魔はしないし、貴方が秘密にしていることも守ってあげるから」

「だけど」

「近所の人には、私のこと塾のお手伝いさんとして紹介しているんでしょう?」

 言い切って、弥勒に詰め寄った。少し動くたびに彼の指が私の身体を刺激する。

 へっへーん。弥勒の弱みを、ぐぐいと突き刺してやったぜ。

 痛いところを突かれた彼は何も言い返してくることなく、私と目を合わせようともしない。畳みかけるなら今しかない。このまま軟禁状態ではつまらないし。新しい世界を、刺激を手に入れるためには、ここで動くしかないのだ。

「それとも、この場でキスしてみせようか」

 耳元で囁くと、彼の指が微かに力を込めた。

 私がその気になれば、塾に乱入して弥勒へ過剰な愛情表現をすることだって可能だ。これまでそれをやってこなかったのは、小学生たちの発育に悪いからと私が遠慮してあげていただけである。流石に私だって、倫理観やその他一般的な社会通念を持ち合わせているのだ。

 なんだかんだと聡いところのある弥勒が、それを理解していないはずがない。

 出会ってから何度目かの、深くて重い溜息を吐いて彼は頷いた。

「先生、そろそろ塾の時間ですよ」

「分かっているよ」

「結婚も、そろそろかなー」

「は? それはあり得ないな」

「男は度胸っていうでしょうが。はやく覚悟を決めてよね」

「うるせぇ。千里眼で未来を覗き見たって言ってもな、そんなもの頑張れば」

「変えられないの。そういう未来だって、あるんだから」

 言ってやったぜと胸を張ろうとした瞬間、彼の手がムカデの脚のように素早く動いた。腰を中心として全身に痺れるほどの甘い感覚が走って、思わず身体をくの字に折ってしまう。唐突な刺激に体勢を崩した私を押しのけて、彼はずっと添い寝をしていたソファから脱出してしまった。

 な、なんて隠し技を持っているのだ。というか、どこで磨いたのかが気になるんだけど。

 部屋を出て行く直前、弥勒は舌を出していった。すごく子供っぽいけど、それも魅力の一部としてのみ受け止めてしまう。うーむ、私は完全に惚れているらしい。ぞわぞわとした気持ちよさが背中を伝って、お尻の方へと降りていく。彼の指の感触が胸に残っているし、このままだと夢にも出てしまいそうだ。

 下着をつけ直して、シャツの上にもう一枚上着を羽織った。

 呼吸を落ち着かせるために胸に手を当てると、心臓が早鐘のように脈打っていた。気を緩ませると、羞恥心で叫び出してしまいそうだ。緊張のあまり手のひらも湿っていたようで、タオルを取るために洗面所へと向かう。鏡面に映った私は耳まで真っ赤に染まっていて、とても邂逅初日に結婚を迫った女とは思えない。なんだお前、生娘かよ。いや、そうなんだけどさ。

「うわー、恥ずかしー。ちょっと待ってよ、もー。あんなの急にやるなんておかしいよー」

 じたばた悶えて、のぼせてしまった頭をクールダウンさせよう。

 二度ほどしゃがみ込んでようやく冷静になったから、うん、弥勒が三回くらい悶絶すれば私の勝ちという奴である。何が?

「でも、これはこれで、成功ってことだよね」

 鏡の向こう、向日葵がプリントアウトされたハンカチで手を拭い、ついでに汗をぬぐう私に対して問いかけてみる。うん、大丈夫だよと自分で頷きを返した。

 キスには失敗したけれど、人には絶対に言えない秘密を彼と共有できた。

 ある意味、大勝利である。

 生真面目な弥勒のことだ、この一件を理由に迫っていれば一週間もしないうちに篭絡できるに違いない。勝ったも同然、私は大手を振って自宅へとお婿さんを連れて帰ることが出来るだろう。

 これで春日家も安泰だ。

 パパにもママにも、そんなことを頼まれたわけじゃないんだけど。

 お手洗いを済ませてから塾へ向かうと、既に小学校低学年と思しき子供達がそれぞれの宿題を広げて勉強を始めていた。畳が全面に張られたバリバリの和室で、小学生達は正座や胡坐など、思い思いの方法で勉強に勤しんでいる。

「あの、ちょっといいかな。弥勒先生はどこに……」

「あっちだよ」

 声を掛けた少女が指す方へと顔を向けてみれば、よし君とかつ君が鉛筆で弥勒の背中をつついていた。なるほどなー。

 羞恥心で悶絶していたのは、私だけではなかったというわけだ。

「弥勒センセ、お手伝いに来ましたけど」

「……本当に来たのか」

 別にいいじゃないか。

 床に伸びた彼と、その態度のギャップをみて無性に腹が立ったから、彼の上へと座り込んだ。ヒキガエルを潰したような声で彼が呻いて、小学生達からは歓声に近いものが上がった。うーむ、彼はここで一番権力がありそうだからな。それよりも強い人が現れて、すげー! って感じか。かつ君の心を覗いてみたら、大体私が想像した通りのことを考えていて安心した。

 広い和室に、生徒は五人。これなら、もう少し遊んでいても大丈夫だろう。いいのか? 私を背中に乗せたまま動こうとしない彼を、仕事をサボっちゃいけないんだ、とからかってみる。弱みを握られている彼は反抗することもなく尻に敷かれたままだった。小学生からも好奇心の瞳で見られていて、うわぁ可哀そうだなぁと他人事みたいに心配する。

 それから時間を置いて数人の子供達が塾にやって来て、少しずつにぎやかになってきた。

 勉強を教えていると言うから、喋っている子を黙らせるのかと思って弥勒の仕事ぶりをみていたけれど、そんなことはなかった。自分が解説をしている最中に他の子が手を挙げて、それに対応しきれないときは私をその子のところへと派遣するけど、それ以外は生徒達が自習する姿を黙って見ているだけだ。

 それに、この教室で一番声が響いているのは弥勒だ。

 聞いていると安心する声だけど、集中の邪魔にならないのだろうか。

 首を傾げていると、私の心を読んだみたいに弥勒が話をしてくれた。

「勉強を教えるために喋るのは、変なことじゃないだろう?」

「だって、学校とかで自習っていうと沈黙を保つのが正義じゃない」

「学校ってのは逃げ道がなくて、誰も教室から出られないんだ。だったら、誰かさんの邪魔をしないように黙っていた方がいいだろ」

 そして彼は、上を指差した。

 そういえば、この前掃除をしたときに二階があったような気がする。

「本当に静かな環境で勉強したいなら、上の部屋を使えばいい」

「なるほどー」

「ここはまぁ、ある程度のお喋りとかは許容しているからな」

「ゲームしたら怒鳴られるけどね」

 弥勒の説明に、かつ君が笑いながら補足してくれた。ふむ、私が部屋で彼と何をしていたのか詮索してくることもないし、小学生っていいなぁ。無垢って感じだ。

 昔のことを思い出しているのかと思って、かつ君の心の中を覗いてみたら確かに弥勒が怒鳴っているシーンがあった。その記憶は蛍光色の赤に塗れ、小学生の心にかなりの恐怖を刻み込んでいることが分かる。

 私も普段の温厚なところしか知らないから、怒っている弥勒の姿には驚いて腰が抜けそうになってしまったけど。遊園地にあるような、生半可なお化け屋敷よりも精神に恐怖を与えてくる奴だったぜ。

 こわー。結婚した後、性格が変わらないことを祈っておこうっと。

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