第16話
幽霊を見たのは本当の話だ。
そして、怖くて布団から出られなかったのも、まぁ本当のことである。生前の姿を知っている人が、書斎のような場所で延々と紙芝居を音読していれば全身が総毛立つのも無理からぬことだろう。青白い肌に透けた身体、死に装束は黒く腐敗したような穴があって、朗読する声は死の底から響くように重く悲しげなものだった。
弥勒には聞かせられない汚い話になるけれど、直前にお手洗いを済ませていなければ間違いなく漏らしていたと思う。あのときだって腰が抜けて、幽霊になった和子さんに気取られてしまうんじゃないかと気が気じゃなかった。家から出られないことを確認しなおして卒倒しそうだったし、布団に潜り込むまでは生きた心地がしなかったし、全身をみのむしみたいに覆っても身体の震えは一向に止まらなかったのだ。
死んだ人が蘇るなんてことは枯れ果てた大地に作物を根付かせるのとはわけが違う。世の道理を捻じ曲げ、存在するはずのない法則を生み出すことは、魔法には不可能だ。魔法なんてものは、数百年先に科学が実証することを先駆けているに過ぎないのだから。
同じ理屈で、他人の心を術者の思うままに操る魔法も存在しない。簡単な催眠術なら魔法でも再現できるだろう。心の障壁とでもいうか、他人の言葉に対する耐性の弱い人間に対しての催眠術が掛けやすいのと理屈的には同じだ。相手の心をリラックスさせて、相手の言うことに対して素直に頷く環境を整えてやればいい。
だけど、本当の意味で相手の心を掌握することなんて出来ない。
……何が言いたいのかというと、あんまりにも怖くて自分に「あれは幽霊などではない、現実でもなく夢である」と思い込ませるための暗示を掛けようとしたのだが、まったく上手くいかなかった。草木も眠る丑三つ時はとうに過ぎていたと言うのに、家の中に和子さんが昔話を読み聞かせる声が響いているようで、全身が寒気に覆われていたのである。
浅い眠りについては和子さんの姿を思い出して、全身汗だくで目覚める。それを何度か繰り返して、朝日が昇った後は勇気を振り絞って布団から這い出して浴室へと向かった。汗臭い身体では、好きな男の子と向かい合いたくなかったからである。
静かにシャワーを浴びた後は、ただひたすらに弥勒を待ち続けた。
愛すべき同居人が帰ってきて抱き付いたとき、ようやく私は、死の底から這い上がったような気がした。生き返ったような気持ちというのは、こういうときに使うべき言葉なのだ。本当に死の淵から這い上がって、死者の国を覗き込んだような人間には用がないのである。
普段は突き放したような態度をとる癖に、本当に怖がっている時だけは受け入れてくれる弥勒が、いつもより格好良く見えたのは吊り橋効果という奴だろうか。卑怯者扱いしたいけど、恋愛というものに駆け引きも重要なのだ。未来を見通す力があるとはいえ、彼よりも優位に立って、恋愛における主導権を握り続ける努力だけは怠らないようにしておこう。そうじゃないと。
これ以上彼を好きになると、他のことが目に入らなくなっちゃいそうだ。
閑話休題。
実は、今日も夢を見た。
幽霊を見る、その数分前の話である。家に帰ってきた弥勒に抱き締められてソファの上で撫でられるまで忘れていたのだが、今回も予知夢を見ることに成功したのだ。その内容を思い出しつつ彼の腕に抱かれていると、ものすごい速さで心拍数が上がって心が元気になってしまった。
思い出してみれば、とても性的な夢だった。
なんと!
夢の中の私は、弥勒に胸を触られているのだ。キスも成功したことがないし、彼の方から積極的に抱きしめて貰ったこともない。なのに、どうしてそんなことをしているんだ! と額縁の中で弥勒にのしかかっている私に問い詰めたかったけれど、絵画の世界に言葉が届くはずもない。
期待よりも、不安と羞恥心の方がずっと大きかった。
本当、夢の中の私は何をしていたのだろう。
絵に描かれた私は、時折後ろを振り返って何かを喋っていた。しかし気になったのは、絵画の端で見切れていたカレンダーの方だ。そのカレンダーは今年の七月を掲げていて、つまりは今月起こる出来事だったという話なのだ。
あと半月以内に、私と弥勒が一線を越えてしまう? 嬉しいけど複雑だし、恥ずかしさで今から死んでしまいそうな気分だった。エスコートするのはどっちなんだ? 年上だから私なのか、それとも男だからという理由で弥勒なのか。私は経験がないし、弥勒だってないだろう、あって欲しくないし。
そんな感じのことを考えていたら、いやぁ、私の予知夢は完璧だ。
今日がきっと、その日になる。
「それが運命なのよ」
咄嗟の判断力が私よりも劣っている弥勒の手を引っ掴んで、私の胸元へと引き寄せる。薄いシャツ越しでもいいけど、気付けば服の下へと彼の手を誘導していた。あぁ、私はなんて大胆な女なんだろう。
これには、彼も驚いている。
ふふん。夢で見た通り、弥勒は動けないようだ。ただ、予想外のこともある。魔法を行使するために指を鳴らしたとき、腕を挙げた拍子に下着の留め具が外れてしまっていたらしい。最近また大きくなっていたし、サイズが合わなくなっていたのは知っていたけれど、まさかこのタイミングで外れるとは思わなかった。
彼の指が肌に吸い付くようで、全身から腰の方へと淡い痺れが走る。……恥ずかしくて流石に死にそうだけど、このくらいなら大丈夫だ。今度、新しい下着を買いに行く口実になると思えばいい。ついでに弥勒ともデートして、と。
よし、新しい楽しみが出来た。
あとはこの状況をどうするか、かな。
「弥勒、アンタは黙ってなさいよ。余分なことをしたら――このこと、子供にもバラすから」
小学生たちが噂を広めるスピードは本当に早い。そのことを塾で先生をしている彼が承知していないはずもなく、黙って頷いてくれた。ちょっと残念だ。ここで小学生たちを介して、弥勒に付き合っている女性がいる、しかも将来を誓い合っている仲らしいぞ! ということを街に広めたかったのに。今の私、ただのお手伝いさんだもんなー。
ただ一つ心配なのは、彼の瞳孔が半分くらい開いているってことかな。脳の処理速度が追いついていない、というか意図的に理解を放棄しているような顔だ。せっかく美人がその身体に触れることを許しているのだ、もう少し下賤な顔をしてくれなくちゃ怒るに怒れないし、自身の魅力について喜ぶことも出来そうにない。
窓ガラスに映った私の顔も、弥勒と似たようなものだった。違いは現状を楽しんでいるか否かという程度だろう。気を抜くと私もどうにかなってしまいそうだった。
「さてと」
小学生たちが家に入って来て、それを光魔法で攪乱したところまでは完璧だ。多分。小学生たちが桁外れな魔法の才能を持ち合わせていたら話は別だけど、そんな奇跡が都合よく起こるはずもない。私の身体に触れたことで弥勒の強靭な精神力も底をつき、思い通りに事を運ぶことが容易くなった。
小学生達に余計な刺激を与えないように、羽織っていた布団がまくれていないか確認する。いくらなんでも彼らには早すぎるし、弥勒だって何も感じないように現実から目を背けている辺りお子様である。でも、これは二人だけの秘密だ。外からは私達の秘密が見えないことを確認してから、もう一度光魔法を行使した。捻じ曲げた光の道筋を、折りたたんだ紙飛行機を一枚の紙切れに戻すようにほぐしていけばいい。ほどなくして、小学生達が部屋に入ってきた。
なるほど、予知夢で見た光景はこれだったのだ。
私は弥勒と添い寝をしたまま、玄関の方へと首を向けた。背の低い男の子が二人、戸口のところに立っている。
「なんだよ! 先生いるじゃん」
「あ、さっきの綺麗な人だ」
「すっげ、美人じゃん」
「えっとー。ふたりとも、そこを動かないように」
色々と、小学生には刺激が強すぎるからね。
弥勒は言葉を失って、目を白黒させている。少し体位を変えるだけで、胸に埋められた彼の指は私の心臓を早鐘のように脈打たせる。じっとしているようにと、彼の耳元で囁いた。ここまでは完全に夢見の通りだ。
「お姉さんは誰なの?」
「ふふーん、誰だと思う?」
「はい! みろく先生のお友達でしょ」
「ピンポーン。大正解だよ。えっと、君は」
波田かつやだよ、と大人しそうな青い服の子が手を挙げた。もう一人は渡辺よしきというらしい。なるほど、かつや君とよしき君だ。庭から私達のことを覗いていたふたりに間違いないだろう。
二人が何を考えているか、心を覗く魔法を行使してみた。指を弾くと彼らが不思議そうな顔をしたが、それには目もくれず心の底へと潜っていく。弥勒とは比べ物にならないほど奥までしっかりと覗き込むことが出来た。私のことを本心から美人だと思っているようだし、ついさっきまで弥勒が襲われている、と思い込んでいたのもすっかり忘れてしまっているようだ。
うん、魔法の才能ナシ。きっと、まっすぐな人生を歩んでいけることでしょう。
魔法を解くと、私は小学生たちに話しかけた。
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