すいませんしたッ!

第14話

「本当にすいませんでした」

「ホントに分かってるの? 自分がしたこと」

「嘘を吐くつもりはなかったんだ。ただ、嘘になってしまっただけで」

「それ、言い訳としては最低クラスだと思うけど」

 手近なところに置いてあったグラスを手に取ると、彼女は中に入っていた水を男に向かってぶちまけた。傍若無人な彼女の行いを責めることもせず、男は黙って首を垂れる。謝ればことが済むと言外に語る彼の姿勢に我慢の限界を迎えたのか、彼女は手当たり次第にものを掴んで男に投げ始めた。やがて命の危険を感じ取った男が、傍にあった重たい灰皿を手にとって――。

 よくある昼ドラだった。倦怠感をサスペンスという膜で包み込んで、退屈な平日の正午を面白く演出してくれる類のものである。全国各地で小中学生の夏休みが始まる時期だろうから、これが最終回になるのだろうか。じゃないと、情操教育に悪そうだし。

 エンドロールが流れた後もしばらく眺めていたら、来週のこの時間は子供向けの野球アニメが始まるという告知が流れた。

 あのアニメの再放送、何回目だよ。俺が小学生の頃からやっているじゃないか。割と好きで放送するたびに見ちゃうんだけど、毎回同じシーズンしか放送しないから一向に話が進まないのである。なぜだろうな。

 険悪なドラマが繰り広げられたテレビの手前では、好意を全身にまとった春日に抱き付かれた哀れな男がソファに身体を沈めていた。俺だった。普段と代わり映えしない室内で、つい数日前と変わらないセクハラを一身に受けていた。

 朝から曇り空に覆われたせいか町は妙に肌寒く、例え春日に密着されていても薄い布団なしにはくしゃみが漏れる。結局のところ、あれだけ拒絶していた添い寝と似たような状況になってしまっているのは、なんだかんだと言いつつも春日に対して情が移りかけているからかもしれない。

 あぁ、なんて恐ろしいことなんだ。

 佐内が俺に甘えるのはいいけど、俺が春日に甘えたら一線を超えそうだよな。佐内に比べて色々と大きい春日はやっぱり重たいし、出来れば早く退いて頂きたいのだが。

 というか、それ以前の問題があるんだよなぁ。

「あの、そろそろ始業の時間なんですけど」

「やだー。まだくっついてたいのー」

「子供かよ。いいから離れてくれ」

「ヤダー! またどこかに泊まる気でしょ、私を置いていく気でしょ」

 そんなわけないだろ、と説明したところで納得してもらえる気がしない。この状況を春日が楽しんでいるなら、なおのこと難しいだろうな。溜息を吐いて全身から脱力する。柵に絡みつく蔦の様に、春日の手が俺の首元へと回された。

 それは朝のことだった。帰ってきてすぐ抱き付かれたのである。なんとなく想像していたよりも衝撃が強くて、倒れないよう、咄嗟に戸口へ掴まなくちゃいけないほどだった。泊まり込みになったことへの謝罪と、何事もなく留守番をしていたことへの感謝を述べると彼女は青ざめた顔でこんなことを言った。

「ユーレイが、出た」

 恐怖のあまり家からの脱出も試みたらしいが、それも叶わなかったらしい。家から出られないよう春日に魔法をかけたか、その類の術式を祖母が研究していたかどうか、それを何十回と質問された。余程恐ろしかったのか、今朝方の春日の震える身体は風邪を引いたように熱っぽくなっていた。

 しかし、信じられるか? 俺の祖母、小野池和子の幽霊をみた、というのである。それが本当なら、血縁者ではないにせよ家族である俺の前に姿を現さないのはどういう理屈なのだ。もっと単純に、それが和子ではなくとも誰かの幽霊だったとしよう。それでも二十年近くこの家に棲みついているはずの俺が見ていないのはおかしな話だし、そもそもここ二週間そんな話をしなかったじゃないか。

 魔法を信じて幽霊を信じないと言うのもおかしな話だが、死んだ人間が生き返ることのないように、肉体を離れた魂が現世に長くとどまり続けると言うのも不思議な話だと思うのだ。本当に死んだ人間の魂が残り続けるなら、優れた手腕の経営者や政治家は死んだあとも仕事をしてこそ初めて優秀な人類として歴史に名前を残すべきだろう。

 それはさておき。

 ひょっとすると泥棒かもしれないし、春日とふたりで家の中を捜索してみたが、特に際立って不審な点は見つからなかった。生前、祖母が良く入り浸っていた書庫で幽霊を見たと言うのだが、そんな安直な話でもあるまいに。

 春日に言われるまま埃だらけの部屋を覗いてみたが、二日前に部屋へと魔術の初歩的な知識が記された本を取りに行った時のままだ。昔懐かしいおとぎ話の本が部屋に散乱していて、魔法使いが拠点にしていた部屋だと説明しても信じる人の方が稀だろう。

 掃除が苦手な人の部屋と言えば、十中八九の確率で頷かれるだろうけど。

 祖母の死後、一時期は丁寧に清掃をしていたんだが、結局は散らかってしまった。それにしても、うむ、深く考えたことはなかったが不思議な話だ。

 誰も使っていない部屋で、荷物が自然に散らかるなんておかしいもんな。

「だって、和子さんは人間の魂とかを研究していた人だよ。自分の魂を自宅とか、思い入れのあるものに定着させる技術を身に着けていても不思議じゃないでしょ」

「それが不思議なんだよな。婆さんが魔法使いってのは知っていたけど、何かを研究していたなんて聞いたこともない」

「それは、弥勒の腕が未熟だったからでしょ」

「他の魔法使いを教えてくれなかったのは?」

「弥勒の腕が未熟だったからに決まっているじゃない」

 むう、技術的な進歩を引き合いに出されると、俺は弱いな。

 結局、それ以上の言葉を重ねて質問することは出来なかった。

 未だに初歩的な魔術も使えないし、その点では彼女の言葉に逆らうことなどできないのであった。嘘を吐かれたところで、それを完璧に見抜く自信もない。まぁ、怖いのは本当なのだろう。普段は頬を赤らめて抱き付いてくる春日も、ちょっとだけ顔色が悪かった。言動自体は変わらないけれど、それは染みついた癖のようなものだろうし。

 いやぁ、そろそろ塾を開放しなくちゃマズいんだけどなぁ。

 幽霊を目撃した時間を尋ねると、明朝四時頃のことだという。成程、普段の俺なら確実に眠っている頃合いだ。夢の世界を透明なクジラたちと泳いで、電子回路には表現不可能な幻想的風景を眼前にしているに違いない。その時間に起きているのは、締め切り間際の作家や深夜のアルバイトをしている人物くらいだろうな。生憎とその類の知り合いはいないし、春日の話を確かめるために四時まで起きているのはなぁ。

 聞けば一人きりで日本家屋に泊まるのは初めてだったらしく、漠然とした不安と寂寥感が彼女に幻覚を見せたのかもしれない。俺だって見知らぬ他人の家に一人泊まることになったら同じ思いをするだろうから、あまり笑ってもいけないんだけど。

 いっそ塾を休みにして、彼女がいうところの幽霊とやらを探してやろうか。そんなことをふと思い立ったが、すぐに打ち消した。社会人としての責任感が、自由奔放な行動を慎んだ行いに変えてくれる。それを束縛と取るか、自制と考えるかで話は変わりそうだ。

 ふぅ。幽霊の話は、後で考えることにしよう。今はそれ以上の問題があるじゃないか。青かった顔も次第に色味を取り戻し、今は元通りと言っても差し支えない状態になっている。だから離れてくれればいいのに、なんかもう、疲れてきたぞ。麗若き女性に絡まれて二時間弱か、自制心を保つのもそろそろ限界だ。

「弥勒」

「なんだよ春日。今日はやけにしつこいじゃないか」

「だって、弥勒と離れて寂しかったから。私――」

 ようやく身体を離してくれた彼女の瞳は、なぜか涙で潤んでいた。心臓を細い針で突かれたような痛みが走って、無意識のうちに視線を外してしまった。朝露に濡れた若葉みたいな瞳から視線をずらした先では、彼女の唇が視界に入る。瑞々しい果実を想起させる、色鮮やかな薄紅色だった。触れてみたい、一度でいいから――と瞬間的に妄想が膨らむ。惹かれた心や目を奪われたまま、咄嗟に彼女を突き飛ばそうとした。

 どうして春日の唇は、俺に近づいてくるのだ。

「ちょ、ちょっと待った」

「なんだか今、キスを求められたような気がして……いいよ、弥勒なら」

「えぇいやめろ、やめんか」

 思わず生徒相手の口調になりながら、春日の身体を押しのけようとした。出会ったその日に披露された類稀なる握力で手首をガッチリと掴まれて、むちゅむちゅと妙な擬音を口にしながら、春日が朝顔の蔦みたいに絡みついてくる。

 頬に吸い付くようなキスをされて、思考が白くほどけていく。

 流石にこれは、まずいかもしれん。

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