第12話

 春日との毎日に戦々恐々としているせいで忘れがちだが、佐内との安らかで平穏な時間こそ、俺にとって至福のひと時なのである。だから両手が塞がって目の回るような作業の連続だって、まったく苦痛じゃなかった。

 月に一度くらい、佐内の家に呼ばれて飯を食べている。両親が参加しているのを見たことはないが、祖母は俺と一緒に何回も遊びに来ていた。母親が料理を、娘が勉強を教えて貰っていた佐内家とウチが、こうして親密になったのは何がきっかけだったのか。

 今となっては思い出せないが、友達というのは、そういうものなんだろう。家族ぐるみの付き合いをしている相手なんて佐内家くらいのものだし、他に頼る家族のいない俺は、この関係を大切にしていきたいと思う。だから、春日という爆弾は連れてこなかったのだ。

 準備をすべて終えて一息つくと、佐内の父親に話しかけられた。

「ありがとうね、弥勒君。君も仕事で忙しいだろうに」

「いえいえ。みゆにはいつも世話になっていますし、この前も野菜をいただいて」

「いいんだよ。あの子は、君と話をしている時が一番楽しそうだから」

「そうなんですか? 結構怒られるし、なんか意外だなぁ」

「ちょっと、男二人でこそこそ喋らないの。ほら、はやく席について」

 男同士でペコペコしていたら、佐内に怒られてしまった。いつも佐内と呼んでいるのに、今日だけ「みゆ」と呼ばれるのが気に食わないのだろうか。さっきから何度か視線がかち合っているし、その度に睨み付けられているような気がする。誕生日をお祝いする日なのに、俺は彼女を怒らせてばっかりだな。

 反省、しないと。

「でも、この家には佐内さんしかいないわけだし。区別するためにも、下の名前で呼びたいんだけどなー」

「何か言いましたか?」

「いいえ。何でもありません、マム!」

「まむって何ですか……」

 今日は佐内の両親だけではなく、乗用車でニ十分ほどの距離に住んでいる祖父母も席を囲む様だ。四月の入学式以来ということで、改めて進学祝いをプレゼントしに来たようだ。みゆに見せてもらうと、洒落た装飾の入った万年筆だった。すごいなぁ、と眺めていたら俺も旅行土産だと焼酎の小瓶やらが入った紙袋を渡されてしまった。覗くと、あんこの入った揚げ饅頭も入っている。おぉ、俺の好物ではないか。

 家に帰ったら、美味しく頂こうっと。

 佐内家と俺を含めた六人全員が席に着くと、賑やかな食事会が始まった。

 手の込んだ料理の中でも一際目を惹いた、夏野菜のグラタンに手を付ける。水分量の多い野菜がたっぷりと入っているはずなのに、味の薄さや水っぽさを感じない。有名な料理店で出てきそうな料理だった。

「うわ、これ美味いな……」

「ふふん、家内特製のグラタンだからね」

「すごいですよね。これで、数年前まで料理下手だったなんて信じられませんよ」

「努力の賜物って奴さ。魅力的だろう?」

 家内は誰にもあげないけどねと、妻に惚れた男性特有の言葉を口にして佐内の父親はグラスを傾けた。紀夫さんは愛妻家だからな、会う度に何かしら妻を自慢してくるのである。

 努力の才能なら、佐内も負けていないだろう。

 高校生になって物事のハードルが上がっても、それに臆することなく挑戦を続けている。勉強の質が上がって、社会で求められる責任の重さが変わるのがその最たる例のひとつだろう。塾では俺を手伝って小学生たちに算数を教えてくれるし、頼りになることこの上ない。

 半記憶喪失の、オカルトかぶれの男よりも社会に役立つ人材だろうな。

 お手製のブルスケッタをかじっていると肩を突かれた。顔をあげると、紀夫さんから心配そうな視線が向けられていた。

「そういえば、記憶は元通りになったかい?」

「あぁ、いや。まだなんですよね」

「そうか。でも、不思議な話だよねぇ。中一より前の記憶がまるっと抜け落ちるなんて」

 ワインを片手に、彼は遠い目をした。

 確かにその通りだと、俺も深く頷いた。

 小野池弥勒が、堤防で拾われた子供だったこと。

 他に貰い手が見つからず、祖母の和子が息子達の了承も得ずに引き取ったこと。

 それは、未桑町に住む人間なら誰もが知っている周知の事実という奴だった。小学校時代こそ記憶に残っていないが、そのせいで中学高校とクラスに馴染めなかったのは苦い思い出だった。

 小野池弥勒が堤防で拾われたことは、誰もが知っている。

 小学生時代の俺がどんな子供だったのかも、みんな知っている。

 だけど、俺だけが覚えていないのだった。

 俺が覚えているのは、中学校の入学式から後のことだけだった。持ち上がりで入学したはずなのに、誰一人見覚えのないクラスメイト。たった一人、噛みあわない記憶と会話が、あの頃の俺にどれほどの苦痛を与えていたのだろう。引き籠りがちだった俺が塾の経営者として社会復帰できたのは、馬鹿みたいに笑い続けていた祖母と、塾に通っていたことで仲良くなり、毎日のように会いに来てくれたみゆのおかげだった。そして、起き上がろうともがいた俺を認めてくれた地域住民の優しさに救われたのだ。

 俺は、いろんな人に助けられて生きてきた。

 それを返すために、こうして、今を生きている。

「お前、いい男になったよなぁ」

 突然、佐内の祖父に褒められてびっくりした。だけど、悪い気はしない。

「そうですか? ありがとうございます」

「和子が突然塾を開いて、独り立ちした日のことを思い出すよ」

 傾けたコップが空になると、佐内の祖父が追加のビールを注いでくれた。

 彼が祖母と同級生だったことを思い出して、その話をした。

 親しい人間の死を乗り越える。それは重いけれど、とても大切な人生のテーマだ。半分以上の人間が酒を飲んだ席で真面目な話はするものじゃないけれど、気付けば俺達は笑っていた。明日何があっても、少なくとも今日だけは楽しかったと思えるように。

 そんな、後ろ向きなのに明るい想いを抱いて、コップを打ち鳴らし続けていた。

 畑で採れた野菜を届けに行ったら、偶然捕まえた風呂場盗撮魔の話。

 野良猫を虐めていたことがバレて、警察に補導された中学生の話。

 多種多様な雑談を繰り広げながら、そこから得られる教訓を探す。

 近くに住む小学生が、読書感想文のコンクールで優秀賞をとった話。

 遠くからやって来た男性が、跡継ぎのいなくなった職人の跡を継いだ話。

 何気ない日々の中に、人生の輝きは買切れているような気がしていた。

 読書が趣味だという佐内家の男性陣から、新しい農作についての論述を受けたりもした。新しく作られた有機化合物や、その値段平均での田畑に与える影響が話題になった辺りでついていけなくなって、女性陣が繰り広げる他愛ない話へと飛び込んでみる。彼女たちは彼女達で数個の話題を並列に喋っているらしく、二転三転する話についていけなくなって脱落した。

 深い知識を持ち合わせているものは少ないし、マルチタスクも苦手なのだ。我ながら、面白みの少ない人間になってしまったなぁと思う。しかし人間は適材適所だ。自分が持てる力を発揮できる場所で各々が輝けばいいし、必要以上に踏ん張って大切な心や身体を壊してはいけない。それこそ、人間という存在をないがしろにしている。

 一足先に晩飯を食べ終えて、デザートのケーキを眺めている佐内に近づいていった。酔いに任せて後ろから抱き付いてみたが、文句を言われることもない。それどころか、彼女の方からもたれ掛かって来た。

 どんな心境の変化かと考えてみるが、分からない。「だいぶん酔っていますね」という彼女の発言で素直に頷いてしまったところから想像するに、考える力が弱まっているのかもしれないな。

 立っていることにも疲れて、誰もいない部屋へと場所を移した。ソファの上に置かれた座布団を枕に横の姿勢をとろうかとも考えたが、佐内が久しぶりに甘えてくれているのだ。それをふいにする必要もないだろう。俺がソファに座ると、佐内はその膝に腰を下ろした。相変わらず軽い女の子だ。羽根のように飛んで行ってしまうのじゃないかと、こちらが心配になってしまうくらいに。

 佐内のうなじにキスをするような姿勢のまま、静かな時間が過ぎていく。アルコールを多量に含んで重くなった血液が、心拍数を穏やかに上昇させていた。

「みーくんは今でも怖い夢を見ますか」

「……そうだな。色んな奴を見るぞ」

「私も、昨日変な夢を見たんです。それが――」

 口籠った佐内の頬を撫でる。言葉に詰まった彼女は、甘えるように身体を摺り寄せてきた。仔猫の腹に触れているようで、心の裏側をくすぐられたみたいな気分だ。俺なんか、ほら。ここまでモチモチした頬だったのは中学一年の春までだったから、触っているだけで特別な気分に浸れるのだ。

「話してくれよ。話すと、ちょっとは楽になるかもしれないぞ」

 促して、もう一度強く抱き締める。やっぱり、抵抗はされなかった。

 ビールの瓶を何本か空にして、酔いが深まっているのだ。「酔っ払いだし、このくらいは許してやろう」と佐内は内心で考えているのかもしれない。そうだったとしても、罰は当たらないだろう。

 つかえながらも佐内が話したのは、だいたいこんな内容だった。

 佐内の知らない若い女性と、俺が手を組んで歩いている。親し気な雰囲気だったことは別としても、見たこともないほど見目麗しい女性だったのが気になったそうだ。ふたりは正装と呼べる恰好で、仲睦まじく見えた。

 楽しそうな二人を眺めながら、佐内は蚊帳の外にいた。寂しくなって話しかけてみても反応はなく、いつの間にか二人が舞台の上に立っていて、彼女はそれを眺めるだけ。そして――。

 佐内は口を閉じると手の平を狐の形に組み合わせ、ちょんちょんとぶつけあった。狐は互いの口に噛みつきあって、うーむ、彼女は何を伝えたいのだろう。

「そいつと俺が、口喧嘩をしたのか?」

「……似たようなものです。それでなんだか、敗北感を味わいました」

「ふーん。難しい話だなぁ」

 喧嘩するほど仲がいいと言うし。何より、夢の中で疎外感を味わうほど、目覚めた後も恐ろしいものはないからな。

 佐内には親しい友人が多いし、家族がいる。だけど俺は、頼る相手がいないのだ。昔話に出てくるような村で八分にされる夢を見ていた時期もあったが、最近はそこまで酷くない。目覚めるたび戻しそうになっていたのも、数年前の話である。

 しかし、佐内が夢で見るとはなぁ。実は俺のことが好きなのでは? とからかってみたら、ぽこすかと頭を叩かれてしまった。やっぱり、そういう類の感情は持ち合わせていないみたいだ。

 佐内が好きになる相手はどんな奴なんだろうと想像して、不穏な気持ちになる。

 佐内が恋をしたとき、素直な気持ちで応援できるだろうか。もはや家族と呼べる存在が身辺にいない俺にとって、佐内は本物の妹以上に大切な少女である。彼女の未来を案じるあまり、目を曇らせないようにする必要があるな。

 それからしばらく、俺が最近になってからみた夢の話をした。

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