第11話
「あちぃな」
呟いたら、余計に気温が上がったような気がする。
未桑町西部、広い田畑の中に建つ立派な屋敷に足を運んでいた。表札に掲げられた佐内の二文字は、俺が昔から世話になっている少女の家がそこにあるのだと告げている。武家屋敷を彷彿とさせる門をくぐり抜けて、屋敷の玄関を跨ぐ。西洋風で和室もない邸宅には似合わないと思うのだが、先祖が守ってきたものだからと門だけは取り壊さずに残したらしい。
これも時代の流れという奴だろう。
しみじみ。
「みーくん、どうしたんですか」
ぼーっとしていたら、私服姿の佐内に手を引っ張られた。
今日の午前中に始業式を終えて、一か月半に及ぶ夏休みが始まったと聞いた。
学生っていいよなー、などと羨ましがってみた。本当にそういう気持ちになったわけじゃないけど、こんな場面ではどんな気持ちになるべきか、なんてことは常に考えながら生きていた方がいいような、悪いような。ハテ、俺は生徒達にはどうしろと教えていたっけな。
「ま、いっか」
佐内に案内されるまま、家の中を突き進む。別に誘導してくれなくてもいいのだけど、彼女としては俺に
佐内も、明日からは宿題をこなしつつ、隙を見て塾の方へ手伝いをしに来てくれることになっていた。社会見学をしつつ、お小遣いも貰える。しかも相手は佐内家の誰もが知る小野池弥勒だ、娘がトラブルに巻き込まれることもないだろうと彼女の両親は快く娘を送り出してくれている。まぁ、彼女の将来の夢を聞いた大人なら、少しでも彼女に現実社会というものを教えねばならないのだけれど。
希望は人間にとっての活力だが、堕落へ導く悪魔にもなる。
夢を追うというのは、想像しているよりずっと大変なことなのだ。
「みーくん?」
「おっと、すまん。考え事をしていた」
「料理中なんですから、余所見すると危ないですよ?」
「大丈夫だって。両手で包丁を握っているわけでもないし」
「それ、どういう意味ですか」
母親の料理を手伝おうとした佐内が包丁をどう握ったか、それを説明しただけである。やっぱり佐内に危ないことはさせられないからと、二人掛かりで彼女から包丁を取り上げて椅子に座り直してもらった。
今日は、佐内の誕生日だった。
「何歳になるんだっけ」
「十六です」
「あー、そっか。法律的には、もう結婚出来るんだよな」
目を向けた先に座っているのは、結婚という言葉からは程遠い場所で花を摘んでいそうな少女である。彼女を眺めていると、どうしても春日と比較してしまった。
それが悪いことだと知っても、俺は止められないんだろうな。
黒くて細い髪はやや短めに切り揃えられ、容姿と相まって幼い印象を受ける。やや狭い肩幅と仔猫みたいに小さな身体は、触れれば壊れてしまう繊細な芸術品を思わせた。それでも時折、仔犬のように無鉄砲な活発さを見せるのは彼女が若い証拠だろうか。顔立ちは幼い少女特有のあどけないものだが、身体の方も春日と比べれば女性的な主張が弱い。かといって、小学校時代の彼女を知っている自分としては、その成長ぶりに驚きを隠せないこともある。でもなぁ。手足も細いし、やっぱり、佐内は幼い子供として扱うのが適切なんだろうか。
いや、それはそれで、彼女から反発を受けそうだな。
子ども扱いするのも、対等の立場として振る舞うのも難しい。思春期ってのはこうも面倒なものだったかと、自分の頃を振り返って首を振った。俺の場合、青春とは深い井戸の底に溜まったヘドロみたいなものだ。それと比べれば、佐内のは向日葵畑を飛び回る蝶々のように可憐で美しいものである。
閑話休題。もっと、美しいものに目を向けよう。
佐内は、今日はいつもの制服姿と違って、青いワンピースに白い上着を羽織っていた。明るい室内で彼女の身体は微かに輝いて見え、その無垢な精神も含めぼんやりと光るダイヤの原石みたいだ。
端的にいって美少女である。こんな妹がいたら、彼女に近づこうとする男は片っ端から誅戮して回るだろうな。それが兄貴として当然の責務という奴である。勿論俺は兄貴などではないし、恋心を抱くことが罪になるわけもないので彼女に近づこうとする男子生徒がいたら嫌だなぁ、くらいにしか考えていない。
年の離れた幼馴染なんて、年下から見ればお兄ちゃんやお姉ちゃんとそう変わらないだろうからな。あまり親身になりすぎても身を滅ぼすのは自分なのだ。そう思うことにして、心の平穏を保つことにしていた。
佐内の家には、ケーキやら何やら、彼女を祝うための料理を作りに来ている。家の台所より数倍広く、隅々まで清掃の行き届いたキッチンでの久しぶりの作業だ。佐内の家はこの地域に古くからある伝承を実体験した先祖がいるほどの昔から農家をやっている大地主だから、これほど設備に金を掛けられるのだろうか。やっぱり家系って大事だよね。
というか、堤防で拾われた子供に家系もクソもあるか、って感じだけどな。
手際よく作業をしながら、今朝方のことを思い出す。目覚めたら半裸の春日がいて、その体温と意味不明な状況も相まって雰囲気に飲まれそうになった。自制心を保てたのは、今日が佐内の誕生日だったからに他ならない。春日の頬に触れようとした瞬間に、佐内の拗ねる顔が浮かんだのだ。
『彼女さんと遊ぶ方が、私のお祝いよりも大事だったんですね』
佐内なら、きっとそう言うだろう。未だに春日の存在を佐内に隠している辺り、徐々に罪悪感が募り始めていた。
っていうか彼女じゃねーよ。妄想の佐内、一体何を言っているんだ。
ぼけていたら、現実の佐内に話しかけられた。
「みーくん、クリームはいつもの奴でお願いします」
「お、おう。ココアは既に用意済みだ」
「ふへへ。用意がいいですね」
「だろ? もっと褒めてくれてもいいんだぜ」
何度か手伝うと申し出てくれた佐内は、何をするか分からないので座らせてある。先の包丁の件もあるし、怪我だけはさせたくないんだよな。手伝おうとするたびに頬を摺り寄せたり抱き締めたりして、「今日はお前の誕生日だから! 全身全霊で俺達からの愛を受け止めてくれ!」と説得したら椅子の上から動かなくなった。
普段からセクハラと揶揄されていた愛情表現を駆使して、日頃の感謝やら「お前が手伝うとケーキが別の物体になるからやめてくれ」という意志を伝えたかったのだが、どちらも伝わっていないように思う。
基本的にはジト目で、ずっと俺のことを監視していた。
笑顔になるのは、俺が作っているものが彼女の好物だと確信したときくらいだろう。
うーん、怖いなぁ。実に怖い。
背中を冷や汗が伝うってのは、こういう場面に使うんだろうな。
湧き上がる想いを根性でねじ伏せていると、妙にお腹がすいてくる。三大欲求はつながっていると言うし、俺の場合、一番解決しやすいのが食欲なんだろうな。空腹ついでにクリームを味見してみると、丁度いい甘さだった。
うん、上出来だ。
「良子さんも味見してくれませんか」
「いいわよ。――すごいわね、みろく君。ホントに上手だわ」
「婆ちゃんから教わっただけですよ」
「私だって和子さんの料理教室に通ってたのよ。それでも、なかなか上達しなくって」
「大丈夫です。料理は愛ですから」
にこやかに言葉を返すと、脛に鮮烈な痛みが走った。良子さんというのは、佐内の母親だ。彼女と喋っていただけなのに、佐内に蹴りを入れられたようだ。愛がすべてなら私にも手伝わせろ、という意志表示かもしれない。
しかし、彼女はバーベキューでも肉を炭にした人間である。積極的に参加させる理由はないし、そもそも今日の主賓は彼女なんだから、出来れば堂々と座って至れり尽くせりの環境を味わって欲しいのだ。
まぁ、何もさせずに気を遣わせるのもよろしくない。手の届かないところにあるものは、彼女に取ってきてもらおうじゃないか。誰もが「佐内」を名乗る家で佐内を識別すべく、俺は彼女を下の名前で呼んだ。
「みゆ、そこのイチゴとって」
「…………」
「あのー、みゆさん?」
ガン無視されて、凹みそうになった。
どうすればいいか分からず途方に暮れていると、良子さんが面白そうに笑っていた。
「うふふ、みゆは照れているのよ」
「照れている?」
「そうよ。だってみゆ、みろく君のことが好きなんだから」
「ちょっと、お母さん! 勝手に変なことねつ造しないでよ!」
怒りながら、佐内はいちごの入ったパックを投げつけてきた。それを鳩尾で受け止めながら、俺は首を傾げる。
普段は温厚なのに、たまーに怒るんだよな。頭撫でたときとか、手を繋いだ時とか。あと、今みたいに下の名前で呼んだときとか。やっぱり、そういうのもセクハラなのかな。早めにやめないと、いずれ彼女の両親に他のセクハラもバラされて両手が後ろに回るのかな。
気を付けておこう。
そうじゃないと、今後も佐内にセクハラが出来なくなるからな!
その後も調理をテキパキと進めて、色々なものを作っていく。早めの昼ご飯を食べてから始めた作業とはいえ、家族六人が掛けることの出来る大きな机に、ケーキやらなにやら、豪勢なご馳走が並ぶのに結構な時間が掛かってしまった。
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