第8話

 耳元で囁く春日の声を無視して、天井の染みを数える。飴色の天井には、木目に沿って雨水が染み込んだ跡がある。改修工事で雨漏りこそしなくなったが、当時の模様を伝えるべく、紋様はそのままに残してあるのだ。一人が寂しくなるような夜は、染みが悪霊にみえて怖かった。

 暑さと包み込まれるような柔らかさのせいか、頭がぼーっとしてきた。もう一度、彼女の素肌を垣間見たとき、理性を保つ自信など持っていない。心が蕩かされて、穏やかな浮揚感に包まれていく。

「弥勒。結婚しよ?」

「ヤだね」

「チッ、まだ惚けてなかったのか」

「あのなぁ。変な努力は、やめた方がいいぞ」

 これも人付き合いをしてこなかった過去のせいか。

 親しかった女性といえば、佐内か、同級生に一人居たくらいのものだ。どちらも近しい存在だったし、女性として意識したことなどないように思う。子供を連れて塾へやって来る奥様方はそもそも対象外だし、同世代との出会いの場なんてものがあるわけでもない。高校も中退したから、恋愛経験に乏しいし。理性の限界が訪れる前に何か根本的な策を思いつく必要があるだろう。例えば、彼女を抑制してくれる存在を探し出すとか。

 何もせず、ただ添い寝をするだけの時間が続く。

 垂れ流していたテレビが十五時を告げて、暇を持て余した春日が話しかけてくる。

「ねー、今日こそ座談会しようよー。お食事会でもいいし」

「飯に薬を盛られそうだから辞退する」

「そんなことしないって」

「本当か?」

「これまでだってふっつーにご飯食べてたでしょうに」

 体を起こした彼女は腰に手を当てて、少し怒っているようだ。

「あのね、私が一度でもそんな危ない真似をした?」

「風呂場で変な薬を使ってただろ」

「あれは普通の入浴剤! 肌が綺麗になるんだぞ」

 それ以上の美人を目指してどうするつもりなのか。いや、美貌の維持が目的か? 何はともあれ、信頼できる相手じゃないことだけは確かだ。財産も地位もない男に近づいてくる奴は要注意だと、祖母から散々忠告されたし。

 何より、無償の愛情ってものが信じられないからな。代償を支払わなくちゃ、人は愛して貰えないものだから。

 あ、聞くべきことがあったんだった。

「話は変わるけどさ、アンタ、親にはこの家で泊まってること話したのかよ」

「ん? 婚約の報告に行きたいのね!」

「ポンコツかよ」

「冗談だって。いや、両親には報告済みだけどね」

「んー、そうか」

 ならいいのか、と思ったが全然そんなことはない。彼女の両親公認ということは、話がさらに厄介になったということである。一筋縄ではいかないようだし、本当に、彼女の両親に会いに行く必要があるのかもしれない。

 うーん、困ったなぁ。

 悩んだときは、甘いものに限る。ホットケーキでも作ろうかと身体を起こすと、春日も別段邪魔だてすることなく台所についてきた。小腹がすくと大人しくなる辺りも祖母を思い出してしまう。春日は居候をしているくせに、と言いたいが結構な額を宿泊中の飲食費だと無理矢理押し付けてきたので、まぁ、その金額分は美味しいものを食べて貰おうじゃないか。

 相手が誰であれ、手料理を振る舞うのは楽しいことだし。

 市販の粉に卵と牛乳を入れてかき混ぜていたら、裾を引っ張られた。

「ね、ひとつ聞いていいかな」

「なんだよ、別に構わないぞ」

「弥勒って、料理とかも全部、和子さんから教えて貰ったんだよね」

「そうだけど?」

「なるほどねー」

「……あのな、もし口に合わないようなら言ってくれればいいんだぜ。調整するから」

「そうじゃないよ。弥勒の料理はいつも美味しいし。ただ、他に家族はいないのかなって」

「いないわけないだろ、兄弟はいないし、爺さんは俺が生まれる前に亡くなったらしいけど、両親は長期出張中だ。……何年も前から、なんだけどな」

 出世とよりよい生活のために、両親が俺を置いて遠方へと旅立ったのは小学校六年生の時だと聞いている。中学校一年生以前の記憶が欠落してしまっている俺には、両親との思い出もなく、彼らの顔も思い浮かべることが出来ない。

「婆さんが写真嫌いだったらしくて、幼少期の写真とか、家族での記念写真も残ってないんだよ」

「じゃ、もしお父さん達が帰って来ても、顔も分からないの?」

「そういうことになるな。いやぁ、とんでもない親だぜ」

「それ、笑い事じゃないでしょ」

 がははと肩を揺すっていたら、春日にたしなめられた。

 珍しく、本気で俺のことを案じているようだ。でも、心配する必要はない。

 ホットケーキのタネを手際よく準備した後、コンロに火をつけて、フライパンの上にマーガリンを落とす。その手付きが狂うこともなく、極めて冷静だということが分かる。さて、過去と向き合ってみようか。

 そもそも俺は、のだ。

 堤防の近くで泣いていたのを、散歩していた祖母が偶然拾い上げたそうだ。そうじゃなかったら、今頃塾の講師なんてしていないだろう。名実ともに俺を育て上げたのは祖母であり、血の繋がっていない形式上の両親よりも彼女に懐いていたのは当たり前のことである。

 最近じゃ捨て子じゃなくて置き去りとか、他の言い方があるらしいが本質は変わらない。コインロッカーじゃなくて、水が轟々と流れる川のすぐ傍に捨てられていたというだけの話だ。祖母が見つけなけりゃ死んでいただろうな。

「記憶もないんでしょ。不安にならないの?」

「バカ言うなよ。怖いよ、当然のように」

「怖いのに、どうして笑えるのよ」

「だって、それで誰かに迷惑をかけているわけじゃないからな」

 気泡の弾けた生地をひっくり返しながら、なんてことのないように答えを返す。

 フライパンを返す動きが魔法を使う予備動作になっているかも、と脳内で浮遊の術式を組み上げてみる。が、まったくもって無駄だった。生地は微動だにしない。首を傾げていると、春日に頬をつままれた。何をするのかと憤ると、彼女は微かに笑っていた。

「弥勒には私がついているから、安心してもいいのよ」

「別に一人でも平気だよ」

「嘘ばっかり。記憶は私が取り戻してあげるから、ほら、おねーさんを信じなさい?」

 しばらく唸った後、素直に頷いた。調べても分からないものと向き合い続けるよりも、調査解析ができるものに時間を割く方が正しいのだろう。そこには、少しの間違いだってないはずだ。

 熱したフライパンに生地を流し込むと、食欲をそそるような音がする。

 まずは美味しいものを食べよう。考えるのは、それからでいいじゃないか。ご機嫌な春日は鼻歌混じりに台所を歩き回り、冷蔵庫から牛乳を取り出して飲み物の用意を始めた。

 楽しそうだなぁ、と俺も少し笑ってしまう。

 佐内の誕生日が、気付けば三日後に迫っていた。

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