第7話

 年上の超美人なお姉さんに求愛される。

 男なら誰しも、一度は妄想したシチュエーションだろう。俺の場合だと一日に三回くらいは妄想していたから、他の人も格段恥じるような行いではないと思う。だけど夢みたいな妄想が現実になるとクソ面倒なものだとは、数日目の俺は考えたこともなかったんだ。

 春日宮姫が家に来てから二週間近くが経った。

 あれから、日に日に苦悩が増えていく。溜め息の回数も増えて、毎日のように頭を抱えているものだから塾の生徒達からも心配される始末だ。嬉々として事態を受け入れられるほど、俺は寛容じゃなかったらしい。

 溜息を吐いて、指を鳴らす。真っ白な予定黒板へ宙に浮かんだペンが文字を書き込んでくれるところを妄想してみても、それを魔法として使うことは出来ない。思考と術式が脳内で密接に結びつかないとダメなのだろうか。

 やっぱりなぁ、と落胆した。

 中学生の頃から訓練しているのに、これまで一度だって魔法が使えたことはない。それで魔法使いになることを諦められれば良かったのだが、オカルティズムへの興味が尽きることもなく、努力を希望と言い換える日々が続いていた。中途半端な付き合いになっている自覚もあるし、いい機会だからと、もう一度基礎から学び直しているのだけど。

 資料は祖母が生前に使っていたものが残っているし、師匠は、癪なことだが春日という新しい魔法使いを見つけたし。勉強の代償に結婚を迫って来るのが嫌なところだが、それさえなければ、きっと。

 きっと、いい関係を築けると思う。

「ちょっと、ぼーっとし過ぎじゃない?」

「そうかな」

「魔法使いさん、集中力が足りてないぞ」

「いいじゃないか、別に」

 春日がパッチンパッチンと何度も指を鳴らすものだから、集中力が切れてしまうのだ。掃除くらい自分の手でやればいいものを、と適当すぎる雑巾がけをする春日に何度も忠告したのだが、聞く耳は持っていないらしい。

 魔法を使えない人間が魔法の行使それを咎めるのは、最新型の家電製品を持っていない人間が、持っている人間を僻んでいるような行いだと彼女は言った。そう言われてしまっては、ぐうの音も出ない。

 俺が魔法使いでないことは、祖母が彼女も尊敬する大魔法使いだったらしいことと併せて、すごく残念そうな目を向けられてしまった。結婚を口にしていたのも、祖母へのあこがれがあってこそのものだろう。「努力を続けられる人なんですね? 惚れ直しました!」と毎晩のように言われているが、もはやジョークにしか聞こえなくなっていた。

 それはさておき。

 今日は七月の第二日曜日だ。

 塾は休みだし、他団体からの利用申請もなかったから、大掃除を決行していた。

 眩しく照り付ける太陽は大地に根付く生物たちに英気と活力を与え、世界は刻一刻と明朗快活なものへ生まれ変わっている。晴れ晴れしい太陽の元、掃除用具を駆使して磨き上げた教室のなんと輝かしいことか。

 燦々と照り付ける太陽、清々しい風も相まって、部屋は清涼感に溢れている。埃やカビが部屋から抜け出して、ついでに邪気の類も消えることだろう。華美な装飾を施すつもりはないけれど、祖母から教室を受け継いだと言う誇りは大切にしていたいし。

 掃除っていうのは、すごく大切なことだよな。

「ねー、この机ってどこのだっけ」

 春日の声に振り向くと、脚を折り畳める机が二台放置されていた。一階の和室部分の机はすべて整えたはずだし、数も間違っていない。しかし、他ならぬ彼女が指をこすっているところをみて思い出した。

「春日が二階から運んできたんだろ。ほら、畳の敷いてない部屋から」

「あ、そうかも! じゃ、後はよろしくね」

「いや、自分で元に戻せよ。仕事は最後までやってくれ」

「弥勒は厳しいなぁ」

「誰かさんと違って、俺はポンポンと魔法が使えないの。で、一人じゃこの机は運べないの」

 本当は運ぶことも出来るのだが、教室の壁や階段などを傷付けないように気を張るため、想像しているよりも疲れる作業なのだ。それならば、魔法を使って余所見しながらでも作業の出来る春日に運んでもらった方がいい。

 二階に運んだあとの配置を覚えていないと言われ、彼女の後について階段をのぼっていく。春日は、曲がり角など主要な場所に机が差し掛かる度に指を弾く。机を壁にぶつけないよう、器用に調整しているようだ。その腕前に見惚れながら、彼女の引き締まった身体にも目が惹かれる。

 ぴったりしたジーンズを履いたお尻まわりが、特に魅力的だった。……多分、佐内に聞かれたら怒られるだろうな。幻滅されるか? 駅のホームで突き飛ばされるかもしれないな。死ぬやんけ。

 閑話休題。

 今日の格好は、どちらも掃除がしやすいようにと軽装だった。春日はいつもと同じように――というほど長い時間を一緒に過ごしたわけではないと思うのだが、見慣れてしまった――赤いシャツにジーンズ姿だ。今日のシャツにはアマリリスの刺繍が施されていた。俺も似たようなもので、背面に宇宙人という文字が大きく描かれた緑色のシャツを着ている。去年だったか、面白半分に購入した記憶がある。

 佐内見せたら微妙な表情をされたが、春日は特に何も言ってこなかった。……普段から明るい奴に気を遣われていると、妙に凹むよな。

 机の配置を元通りにして、中学生が自習の為に訪れても使いやすいように参考書の類を整頓する。これで掃除は終了だ。薄手の服とはいえ、夏場に長いこと作業していれば次第に汗ばんできて風呂に入りたい気分になる。

 あとは戸締りの確認をして、玄関を閉めてしまえば今日すべきことは終わり。

 明日、一番に教室を訪れた子供はその綺麗さに驚くことだろう。

「しかし、不思議な話だよな」

「なにが?」

「春日が、この教室に来れたことが」

「もー、それは前にも話したじゃん」

「確かにその通りだとも。何を今更って感じだよな」

 この地域の住民なら、みんな祖母のことを知っている。北の町にまで祖母の名前が轟いているとは思わなかったが、魔法使いがそれぞれ独自の仲間関係を持っているのだとしたら、彼女が祖母のことを知っているのも道理だ。

 祖母を知っていれば、俺の所在など地図で探すまでもない。小野池和子さんの家はどこですか、と尋ねて歩けばいつかたどり着くんだからな。それでも最近まで会いに来なかったのは、通っていた大学が遠方にあった為に帰省することが難しかったのだと言う。どこに通っていたのかは教えてくれなかったが、ま、別に知る必要はないし。

 落ち着いたら両親が経営する農家の後を継げばいいとかで、春日は将来の心配をしていないようだ。就職活動もしてこなかったらしい。来月の生活も不安になる俺とは、とんでもない違いだった。

「俺は、羨ましいよ」

「ん? 何が?」

「……なんでもない」

 青い空の下で伸びをすると、くしゃみが出た。

 優しい風に背中を擦られて、自然と姿勢を正して空を仰ぐ。

 雲一つない、真っ青な空が広がっていた。

「ねー、弥勒」

「なんだよ」

「お喋りしよー」

「いつもしてるやんけ」

 地元の方言でも特に乱雑なもので答えを返したら、萎びたスミレのように悲しげな視線が送られてきた。てこてこと自宅の方までついてきたのに、不思議と玄関を跨ごうとしない。まるで俺の許可を待っているかのようだ。

 卑怯だぞ、他人の良心につけこむなんて。

「はやく上がってくれ。大体、いつまで泊まり込む気だ」

「……弥勒が結婚してくれるまで?」

「終わらない気がするんだが」

「つまり、事実婚が一番はやいってことだね。でもー、子供には小野池の苗字が欲しいんだけどなぁ」

「末恐ろしい話をするんじゃない。認めないからな」

「酷っ、認知してくれないなんて」

「何もしてないだろ! してないよな? してないぞ」

 そんなぁ、と崩れた春日が腰回りにまとわりついてきた。薄い肌着越しに、佐内よりも随分と大人びた身体をすり寄せて来る。自分が素敵に蠱惑的な魅力を持った女性だと認識している証拠に、薄らと笑って俺の反応を楽しんでいた。

 悔しくなって突き放そうとしたら、よよよと泣き真似を始めるのも見慣れてしまった光景だ。こいつ、人の動揺を喜んでやがる……。なんちゃって悪女だが、質が悪いな。

 春日が泊まり込んでいることは、親しい人間にも秘密にしていた。外堀を埋められても困ってしまうからだ。

 仕事中は邪魔をしないように言ってあるし、ご近所さんに彼女のことを尋ねられても、部屋を貸しているだけなどと誤魔化しているほどだ。そろそろ限界が来るかもしれないと夜な夜な不安に苛まれているが、こればっかりはどうしようもない。

 大体、困った行動が多過ぎるのだ。

 毎晩のように布団へ這いよって来る春日から身を守るために、部屋の鍵の仕組みを複雑にしたが無駄だった。魔法使いを相手にした鍵など、細やかな装飾の施された鉄塊でしかないのだから。魔術的な細工が施せればいいのだが、生憎と魔法は使えないままだし、睡眠不足になりつつある。

 ちょっと遠くの地方へ旅行にでも行きたくなってきた。お盆の時期は生徒の為にも長期休暇を設けているし、その時期にどこかへ出掛けるのもありかもしれない。勿論、春日には秘密にしよう。

 家に戻ってきた後、昼寝をしようとソファに寝転んだら春日が飛び乗って来た。僅か十センチしか背丈の変わらない女性に飛び乗られて、悶絶しない男がいるだろうか。異性への魅力とか、そういう話じゃないぞ。

 スイカを投げつけられても、人はダメージを負うのだ。体格差のない人間に飛び乗られて、無事な人間などいるはずもない。

「あの、ごめん。大丈夫?」

「……に、見えるのか」

「あははー」

 ご、誤魔化しやがった。せめてものお詫びと口にして、全身を密着させて来る。何がお詫びなのか彼女の意図はまったく汲み取れやしないのだが、男を虜にする魔性の身体をしていることだけは理解できる。誘惑に負けた場合に佐内から向けられるだろう蔑みの視線を想像することで必死にこらえてはいるのが、これはこれで変な方向に目覚めてしまいそうだった。

 俺はもっと、背が低くて可愛い感じの女の子が好きなんだよ。言っとくけど、小学生や中学生みたいに幼過ぎるのは対象範囲外だからな。これでも、二十歳を超えた男なんだから。

「はー、しんどい。結婚して」

「嫌だよ」

「そういう依怙地なとこ好き。ふひひ」

 珍しく俺が暴れて抵抗しないから、無駄に感動しているようだった。語力が低下しているのがその証左だ。

 個人的な話をすると、抵抗するだけでも体力を消耗するし、妙なところを触って雰囲気を悪くしたくないから暴れないだけである。夏だから暑いし早く離れて欲しいのだけど、精々が頬を摺り寄せてくるくらいなら、この程度なら存分に甘えさせてあげようじゃないか。

 佐内に対しても似たようなことをやっているしな。

 そういえば。

 二週間ほど彼女と過ごして、分かったこともある。

 意外と清純派だったということだ。あれは、先週の夜だった。偶然、風呂場で彼女と遭遇してしまったことがあった。当然彼女は一糸まとわぬ姿だったし、俺だって入浴しようとしていたのだ、どういう姿で対面することになったのかは察して欲しい。

 あの時目にしたものを、どう表現しようか。白い肌は百合の様に美しく、赤く染まった頬はバラのようで、しなやかで肉付きの良い身体には牡丹にも負けない色気があった。

 網膜に刻み込まれた傑作映画のワンシーンみたいな光景は、指を弾いた彼女が浴室内の水をすべて浮かせて、膨大な水の固まりを俺に投げつけるまでの数秒間に見たものだった。

 あの日ばかりは夜這いもされなかったし、翌朝も、彼女は恥ずかしがっているようだった。頻繁に抱き付いてきて、場合によってはキスまでせがんでくる女性と同一人物だとは、到底思えないほどいじらしかった。……もしかして、あれも作戦の内なのかな? そんなことはないだろうけどさ。

 最初期の頃、夜這いの防衛に失敗していた時だって、彼女は俺の横で幸せそうに寝息を立てるだけだった。悪い人間じゃないし、先行した欲望の言い訳に愛を語るタイプでもないのだろう。

 だけど、俺の精神が耐えられるだろうか? 不安が募ってくる。昼間だからこそ、掃除でさっぱりした後だからこそ、妙な気分にはなりたくないのであった。

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