結婚したい(したくない)

第5話

 俺は魔法使いなんかじゃないので事態を秒で収集することは出来ないし、家に突然現れた不審者に妙な幻影を見せるとか、そういう摩訶不思議な方法で元の場所に帰ってもらうことも出来ないのである。

 そもそも魔法が使えたとして。

 たった一人で、世界のすべてを掌握出来るはずもないのだけれど。

 警察が家から退去して、一時間ほど経っただろうか。

 今日初めて会った人と、食卓で麻婆ナスを囲んでいた。数時間前まで佐内と一緒にクレープを食べていた場所で、俺は何をしているんだろうな。彼女には信用も信頼もないし、果たして友情を培える相手なのかも不明だ。

 そもそも、日本語は通じているんだろうか。

「味はどう?」

「美味しいけど。なに、変なもの入ってるの」

「いーや。お口に合えば幸いですよ」

 うん。

 言葉は通じているようだ。

 ナンテコッタイ。

 例えば、過去の自分に会ったとしよう。昨日の自分でもいい。

 この状況を、そいつに説明したところで理解してくれるだろうか。多分、納得してもらうことすら難しいだろう。明日の俺は頭がおかしくなってしまったのか、辛いことがあったんじゃないかと、哀しい気持ちになること間違いなしだ。

「しかし、なんだって俺のところに……」

「えー。さっき説明したじゃない」

「あれは説明になってないんだが」

「でも、結婚以外に目的はないし? うーん……なんて言えばいいのかな……」

 首をしきりに捻る美女は、きっと、どこかで頭を打ったのだろう。

 春日かすが宮姫みやび、二十三歳。

 畳敷の居間で座布団に座って幸せそうに飯を食べている彼女には、和装よりも洋装の方が似合いそうだなと思った。佐内は逆だ、だって胸が小さいし。

 さて、一時間ほど前の話である。

 彼女が俺に放った第一声は「結婚してくれ」などという傲岸不遜も甚だしく果たして意味を理解した上で言葉を喋っているのか不安になるほどだったが、その後の説明も要領を得ないものだった。俺と彼女の間に結婚をするなどという約定を取り付けた事実はないが、祖母の代に俺と彼女を婚約者として結び付けようとしていた、という話らしいのだ。

 が、それも嘘だろう。

 そんな話、祖母からは一度も聞いたことがない。

 そういうわけで彼女と俺の間に何も因縁がないことは確定的なのだが、どこからしらで縁が繋がっているのかもしれない。そもそも、ただ単に不審者と突き放せるような人物でもなかったのである。乗用車で一時間ほど北上した地域に大規模な柿畑を経営している農家があり、そこの一人娘らしい。割と裕福な家庭な上に知る人ぞ知る名家のようで、通報を受けてやってきた警察官も彼女の親のことを知っていた。

 そのせいもあってか、警察の面々は彼女ではなく俺の方を、結婚詐欺を企てる不審人物として取り調べ始めた。うーん、通報したのは俺なんだけどな。この無能が、と罵るといざというとき助けて貰えないので黙っておこう。

 ふぅ。

 社会的立場のしっかりした人は、その行いが元で通報されたところでほとんど問題にもならないようだ。俺なんか半年に一回は駅前で警官に声を掛けられるのに、世の中は不公平過ぎないか?

 小さな私塾の経営者として、現代社会の基盤を訝しむことにしよう。

 それはさておき。

 一応くだんの相談をしてみたら、このご時世に祖父母による婚約なんてものが存在するはずもないじゃないか、と恰幅のいい男性警官が笑い飛ばしてくれた。とても心強いし、ひょっとしたら本当に祖母が仕込んでいたのかもしれない罠に引っ掛からなかったのは嬉しくもあるのだけれど、問題は一切解決していない。

 当事者同士が婚姻の合意を持つのだ、後は君達で頑張ってくれよと放置されてしまったからだ。

 夕闇は葵と墨色にほどけ、夜の帳が街を覆っている。

 押しを断れず、結局はこの不審者を家にあげる破目になってしまった。

 ふふ。短時間で沢山の情報を詰め込まれて、失敗した肉詰めピーマンみたいになりそうだ。こう、ポンっと破裂しそうだぜ。

 怨みの籠った眼で対面に座る春日を見つめる。

 さして気にも留めていないようだ。

「ホント美味しいね、この麻婆ナス」

「そうか」

「弥勒君、すごい料理上手だよね。その手の教室も開けばいいのに」

「どうも」

「味付けは濃い目なのに、反応が薄いなぁ」

「まぁな」

「……むぅ」

 飯を食っている最中も、常に話しかけてくる。その上ずっと笑顔なものだから、義務感が生じて返事をしてしまう。彼女には「こんな奴とは結婚したくないぜ」と早めに我に返って貰って、お帰り頂きたいのだがどうにも上手くいっていない。

 出会いのない人間を対象にした結婚詐欺かとも疑っているし、初対面の相手と朗らかに喋る彼女に対して、羨望と嫉妬に嫌悪を織り交ぜた薄暗い気持ちを抱くことを止められない。前半部分に関しては、誰かに賛同してもらえるだろう。だけど、後半部分に関しては完全に独りよがりの主張でしかない。

 中学時代に友達はいなかったし、高校も中退したからな。楽しい青春を過ごした人に、少なからぬコンプレックスを抱いているのだろう。

 しみじみ。

 春巻きをかじっているだけなのに、にこやかに微笑みかけられる。

 果たして、どこかで知り合ったのだろうかとじっと考える。

 …………。

 ……。

 あ。

「葬式に来たことあるのか」

「ん? うん、和子さんのお葬式のことよね」

「ふぅん、そうなのか……」

 祖母の葬式で彼女の顔を見たことを思い出した。芋蔓式に記憶が復元されて、あぁ成程、あの時に少し言葉を交わしたような気もする。どうやら、完全な初対面ではないようだ。

 数年前に出会った彼女は、真っ暗な夜に浮かぶ満月のように物静かだったから、砂漠で照り付ける太陽みたいな性格をした女性だとは思わなかった。あの頃はきっと、悲しみに沈んでいたに違いない。血縁者以外の死にそこまで深い悲嘆を覚えてくれるなんて、俺の祖母とは余程仲が良かったのだろうか。

 思い出すほどに、彼女への疑問が増えていく。

 まずはひとつ、聞いてみるか。

「なぁ」

「なにかな?」

「婆さんの知り合いだったのか、アンタ」

「おーう、最初にそこを尋ねるとは。通だね」

 ぴっと箸を向けて、彼女は楽しそうに笑う。

 結婚の意志を尋ねたところで返ってくる答えは分かり切っているし、この方が妥当だろう?

「それじゃ、まずはこれを見て貰おうかな」

 春日が指を鳴らすと、空の茶碗と箸が浮いた。もう一度指を鳴らすと、宙に浮いた黒塗りの箸がカチカチと音を立てた。特に驚くこともなく、自慢げに腕を組む春日に視線を移した。

 なるほどな。

「オカルト仲間か」

「魔法使いって言ってよ。もっとこう、かっこよく!」

「知るか。魔法使いは嫌いなんだ」

「どうして?」

「秘密だよ。うん、黙秘権を行使したい」

 本当の話をすれば、主に、魔法使いだった祖母の影響である。冗談と嘘ばかりを口にする朗らかで憎めない人だったけれど、俺が魔法を使えないことを毎日のようにからかってきたのが悔しいのだ。

 理論を学びコツを掴めば、誰にだって魔法は使えるらしい。料理をおいしくする魔法とか、テストでいい点をとる魔法とか、そういう類のものは意識せずに使っている奴も多いし。科学進歩の妨げになるし迫害や恐怖の対象になるから、本気で研究する人が少ないだけなんだ。

 これは、本当の話だぞ。

 閑話休題。

 人間が眠らせている第六感を稼働させるには、本人特有の予備動作が必要になる。それは個人の性格や心の色を明確に反映させたものがほとんどだ、と祖母は言っていた。俺は魔法が使えないので予備動作も何もないが、思慮と知識を重んじた祖母は、鉤状に曲げた人差し指で自分の額を叩くことがトリガーになっていた。

 それに比べ、春日は指パッチンである。

 余程、自分に自信があるのだろう。

 いいなぁ。

 ものすごく羨ましいぜ。

「っていうか、もっと驚いてよ」

「婆さんに散々見せつけられたからな」

「えー、それじゃ驚かし甲斐がないじゃないの」

 どうして脅かすことが前提になっているんだ、こいつは。

「ともあれ、事情は察した。婆さんに騙されたんだろ」

「騙すって、どういうこと?」

「孫息子の世話をすれば秘術を教えるとか、秘伝の巻物を授けて免許皆伝するとか」

 適当にあげつらった例に対して、彼女は惚けたような顔をしている。

 俺の言っていることが半分も分からないと言う表情だった。

 空になった茶碗を持って立ち上がると、彼女も自分の分の皿を浮かべてついてきた。魔法が使えない俺への当てつけみたいに感じるが、そんなことはないだろう。食後のコーヒーを勧めると、彼女は黙ってそれを受け取った。

 差し出した砂糖を、彼女は首を横に振って断った。牛乳なしではコーヒーを飲めない佐内に影響されて、コーヒーには砂糖やら何やらを淹れるものだと思っていたが、そうだよな。確かに、そういう飲み方もあるのだった。

 台所の椅子に腰かけると、彼女もまた対面の椅子に腰を下ろした。どうにも正面に座りたがるようだった。話しやすくてありがたいけれど、妙に緊張するからやめて欲しい。

 くそー、美人ってのは、これだから。

「アンタさ、甘い言葉に騙されて来たんじゃないのか?」

「違うに決まってるじゃん。そもそも、甘い言葉ってなによ」

「知らないよ」

「はー、それで人を疑うわけ? ふーん?」

 ぐぬぬ。

 どうにか彼女が困る言葉を探そうと脳内の記憶を頼ってみるが、これ以上の追及は難しそうだ。宿題を持って帰らなかった生徒に理由を尋ねたら、「存在しない宿題はやる必要がないから」と言われたとき並に悩ましい問題だった。

 手に持つコーヒーカップの液面が波打って、自身の動揺を悟る。

「とりあえず、婚約とか結婚とか、その辺りの件について話そうか」

 きまり悪くなって話の矛先を変えると、彼女の顔色も明るいものになった。

 移り行く季節みたいに彩り豊かな表情は、こんな場面じゃなければゆったりと眺めていたいほどだった。だが、ここは心を鬼にして、信条にしている許容を捻じ曲げてでも自分の意見を押し通す必要がある。なんといっても、俺の人生が掛っているわけだからな。

「さて、件の話だが」

「勿論、了承してくれるんだよね?」

「んなわけないだろ! 破棄だよ、破棄。守る必要ねぇって」

「嫌に決まっているじゃん、そんなの」

「なんでだよ、悪い冗談か」

「私は本気だよ。うん、覚悟と書いてマジって読むタイプの心意気」

 漫画の読み過ぎじゃないのか、と言いたいのをぐっとこらえる。

「いいか、冷静に考えてくれ。俺はアンタのことを知らないし。アンタだって、俺のどこを好きになったんだ」

「全部だけど?」

「うーん……お前なぁ」

 真顔で言い切った春日を見て、頭が痛くなった。

「冗談はほどほどにしてくれないか」

 俺だって、好きなところを百個あげられないと付き合ってあげない、と妙なところで意地を張る小学生じゃない。好きの理由を説明しても、それが信じられないからと他人を拒絶するほど擦れた大人でもない。

 ほぼ初対面の相手を、その欠点や美徳を何も知らないまま全部好きだと言ってのけるのはおかしいと言いたいだけなんだ。

 第一なぁ。彼女が俺を好きでも、俺が彼女を好きになれなきゃどうしようもないだろうに。

「本気、なのか」

「ウソ言ってもどうしようもないでしょ」

 彼女は目を逸らすこともなく、堂々と言い切った。

 そんな彼女をみて、俺はもう一度、深々と溜め息を吐いた。

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