第4話

 町内会の行事だ。たいしたことはやっていない。

 さて。

 本日行った小学生対象のお菓子作りでは、市から出た幾ばくかの助成金で購入した小さなケーキに手製の生クリームを塗り、小学生が参加費として出してくれた三百円をかき集めて購入したチョコや果物を使ってデコレーションをやった。喜んでくれた生徒が多かったのは良しとして、そのときの生クリームが少し残っている。

 腐らせるのも勿体ないから、出来れば使い切ってしまいたいのだけれど。果物も一パック分のイチゴが残っているし、どうにか処分しないといけない。その点を考慮しながら、佐内と食べるおやつを作ることにしよう。

 お手洗いから帰ってきた佐内を連れて、塾のすぐ隣に建っている我が家へと向かった。なぁに、道中の心配をする必要はない。仕事場から徒歩十秒の位置にあるこの建物こそ、俺が二十年来生活している住居だった。元は平屋だったのを祖母が改築して、広々と住みやすい一戸建てになっている。

 ニ十歳の若造が一人で住むには広すぎるところだけが問題だった。

 就寝直前の深夜とか、無性に寂しくなって誰かと喋りたくなるくらいだ。

 魂が凍えそうになって、酒に溺れた夜もあるぞ!

 とまぁ、冗談はこのくらいにしよう。

 雑多な物が散乱した空間は避け、整頓された居間に佐内を案内して、猫の額ほどとは言わないが狭い台所へと足を運ぶ。冷蔵庫の中に残っていた小麦粉に卵と牛乳と砂糖を溶いて、ちゃっちゃっとクレープ生地をつくった。鼻歌混じりに生クリームとイチゴをトッピングして、ついでに缶詰を開けてあんこも乗せた。あとは、くるくると丸めれば完成だ。

 クレープ用の紙は持ち合わせていないので裸だが、まぁ、その辺りは許してくれるだろう。

 冷蔵庫から牛乳も取り出して、お盆にコップやら何やらを乗せて運ぶ。居間に向かうと、佐内は座布団を枕にして畳の上で寝転がっていた。佐内の家には和室がないから、畳が恋しくなったときはこの家へとやってくるのだった。

 彼女が準備してくれていた丸机にクレープを並べると、その表情が幾分か柔らかいものになる。甘いものは佐内の大好物なのだ。

「みーくん、ホント料理だけは上手いですよね……」

「だけ、は余計だ。婆さんに仕込まれたからな。佐内にも教えてやろうか?」

「いいです。料理っていうのは、秘密裏に特訓するものですし」

「そういうもんかなぁ。ま、楽しみに待っているから、ヨロシク」

 ビシっと指を向けると、佐内はクレープを大きく頬張った。何かを喋っているがもごもごしていて、その言葉を聞き取ることが出来ない。多分「そのうち食べさせてあげます」とか、その辺りの言葉を口にしているのだろう。自信がないから、誤魔化しているようだけど。

 佐内の奴、家事のほとんどが得意なのに、どうにも料理だけは上手くいかない系女子だし。

 二年ほど前に知ったのだが、佐内の弱点らしい弱点はそのくらいだろう。町内会のバーベキューで一緒に火の番をしていたとき、首を傾げながら炭(元は肉)を量産する姿には、なんだか末恐ろしいものを感じてしまったけれど。

 でも、本当に、それ以外は完璧な女の子なのだ。

 クレープを食べ終えた後、佐内と一緒にダラダラと時間を過ごした。

 高校生活も半年が過ぎ慣れてきた頃だろうと、その様子を尋ねてみる。新しい友達や面白い先生の話を楽しそうに話す佐内を見ていると、数年前の自分と対比してしまう。ふふ、高校中退という輝かしい過去の持ち主だからな、システムに適合して青春を謳歌している奴をみると胸が痛くなるのだ。うぐぅ。

「いいなー羨ましいなー」

「……私は、独り立ちしているみーくんが羨ましいですけど」

「本当にそう思う? 馴れたつもりでも、社会ってのは落とし穴が多いんだよ」

「そういうものですか」

「そういうものだよ。去年とか、確定申告を出し忘れそうになって大変だったし」

 細かな計算や手続きが面倒臭くて税理士に頼んだ後は放置していたのだが、めちゃくちゃ大事な書類の処理の仕方を間違えそうになった。いや、処理といっても大したことじゃない。どこそこに郵送してください、と言われたのをすっかり忘れていたのだ。滞納金が発生したわけでもないのだが、税金の控除とやらが減額されそうになって焦ったのを覚えている。

 あの時ばかりは、どうして俺は大人になったんだ? と頭を悩ませたものである。独り立ちを宣言した以上、他の大人には極力頼りたくないし。あと、こんな単純なことも分からないんですかとバカにマウントを取られるのも癪だ。

 正しく生きられない自分が癇に障る。

 何より、血の繋がっていない両親に迷惑をかけたくなんかないのだ。

「ふー。テレビでもみるか」

「そうですね」

「んじゃ、いつものあれだな」

 することもなくて暇だから、とテレビをつけた。チャンネルをいつものに切り替えると、有名なカメラマンが動物を相手に写真を撮る番組だった。三毛猫と黒猫がじゃれあい、それを幸せそうに眺める新人女優が眩いほどに可愛らしい。

 うーん、いい絵面だ。

 猫って可愛いよな。近所に野良ネコが集まってくる場所があって、そこでたまに餌をやっているから分かる。ちょっとばかり、人間を舐めたような態度をとるところだけが残念だ。

 ぼんやりテレビを見ていると、佐内が傍に寄って来た。隙を見て彼女を引っ張り、膝の上に乗せた。小学生の頃に度々甘えてきた彼女が、好んで居座っていた場所である。高校生にもなると気恥ずかしさの方が勝るのか、最初のうちは肘で殴られた。まぁ、放っておけば借りてきた猫のようにおとなしくなる。

 これも、いつものことだ。

 ……こうしていると、安らかな気分になるし。

 甘えているのは俺の方なんだろうか。

「あっ、あの猫去勢済みだ」

「どうして分かるんですか」

「ほら、耳のところ見てみ? 切れ目が入ってるだろ」

「うわ、痛そうですね……」

「アレやっとかないと見分けが付かないし、しゃーない」

 テレビを見ながら、あーだこーだと他愛ないことを喋る。十八時を過ぎた頃、晩御飯の時間だからと佐内は帰り支度を始めた。夏も近く日の暮れる時間が遅くなったとはいえ、年頃の女の子を一人で帰すわけにも行かない。

 そういう理由をつけて、俺もついていくことにした。

 田圃を歩き回る合鴨親子の様に、ふたり一緒になって街を歩く。

 徐々に葵の色へ染まり始めた世界を眺めながら、佐内がぽつりと呟いた。

「もう、七月になるんですね」

「早いもんだよなぁ」

「七月、ですよ?」

「分かってるって。佐内の誕生日も忘れてないから」

「……別に、催促しているわけじゃありませんから」

「わはは、ご冗談を」

 誕生日にケーキをご馳走してくれ、とその表情が語っている。それと、他にも何かしらのプレゼントが欲しいと眉毛に書いてあった。いやぁ、誰かに能力を求められることほど嬉しいことはないのだから、万事任せておいてほしい。

 指切りをしようとしたらセクハラ扱いされて泣きそうになったが、それはまた別の話である。

 閑話休題。

 時刻は午後七時に迫る。

 送り届けた先の玄関で彼女の両親と遭遇して、畑で採れたナスやトマトをビニール袋いっぱいに貰ってしまった。しかも、表情の機微が乏しい佐内からは想像もできないほどの笑顔で手渡された。今度、佐内にはクッキーか何かを持って帰ってもらおう。

 貰ってばかりの優しさに浸っていると、俺はダメ人間になってしまう。

 そして俺達は、笑顔で別れの挨拶をした。

 一人になった帰り道で、寂しさを紛らわすために小声で歌いながら歩く。

 上を見ながら歩いていると、踏んだ小枝が微かな音を立てた。

 考えてみれば、小学生だった佐内も、いつの間にか法的に結婚が認められる年齢になっている。時間の流れる速さと、世界の理不尽を噛み砕いてそれに馴れるまでの時間に齟齬が生じているようだ。色々なものから逃げ出して、ようやく何かを始めた俺に安息が訪れるのは、もっと先の話だろう。

 今はまだ、祖母が遺してくれた塾の経営や、ようやく心の底からと言えるようになった地域の人々との交流で手一杯だ。複数のことを並行して進められるほど、俺は頭のいい奴じゃない。出生の秘密を解決するまでに、祖母が魔法使いだったことを過去として飲み込むまでに、あと何年かかることだろう。

 漏れだす溜め息を押しとどめようにも、両手の塞がった俺には難しい。

 諦めて、漏れだす空気をもう一回吸い直すことに専念した。

 当然のように噎せて涙目になった。ふぅ。

 これぞ無駄の極みである。

 家に帰って来ると、塾の建物の前に見知らぬ女性が立っていた。玄関脇のインターホンを押した後、出てこない家主を待ってか首を傾げている様だった。

 ふむ、お客さんかな? 

「こんばんは、ここの塾長の小野池と申します。あの、入塾希望の方でしょうか」

 声を掛けると、女性が振り返った。暗闇の中でも、彼女の容貌には目を惹かれるものがある。目鼻立ちのはっきりした彼女は、長い髪を初夏の風になびかせて穏やかに、余裕たっぷりといった風に微笑んでいる。

 子供の学年を聞こうとも思ったが、雰囲気で分かる。

 この人は、まだ子供を授かったことがないのだろう、

 彼女は向日葵を連想するような、温かな声色をしていた。

「こんばんは。弥勒みろく君、だよね」

「え、あぁ、小野池弥勒ですけど……」

「ようやく会えたね。これが、二度目になるけれど」

「はぁ」

 事情が飲み込めずに、思わず相手の女性を観察した。

 やや広めの肩幅とほっそりした腰回りで、全体的に線が細めな人だった。しかし万年草のセダムみたいに肉感的な、女性的な身体付きをしている。ジーンズが彼女に男性的な魅力を付加して、薔薇より暗い紅色の服のせいか、徐々に暗くなっていく空間に溶け込んで、透明感のある白い肌が映えている。ややボディラインの強調された薄手のカットソーだ。綺麗な人でなければ似合わないだろう、と直感的に理解した。

 美女だ。それは、疑いようのない真実だった。

 こんな人がこの地域に住んでいたのか、と惚けてしまう。

 牡丹のように艶やかな笑みを向けられて、胸が高鳴るのを感じる。歩み寄ってきた彼女からは開花直後の桜みたいに甘い匂いがした。赤み掛かった長い髪をポニーテールにしていて、快活そうな人である。そして俺は、威勢のいい女性が嫌いじゃない。

 そんなことを考えていたら、彼女がすっと腕を伸ばした。

 パチンと指を弾いた彼女は、右腕を天へと突き上げて。

 拳銃でも撃つかのように、俺へと人差し指を向けてきた。

「あなたの婚約者、春日宮姫です!」

「……?」

「わたし、あなたに恋の魔法を掛けに来ました!」

 清々しい宣言が、美女の口から飛び出す。

 ふむ、なるほど。

 夢というのは、儚いからこそ夢なんだな。

 そっとズボンを探って携帯を取り出した俺に、彼女は不思議そうな視線を向けて来る。 警察へ通報するためにみっつのボタンを押したところで、彼女はようやく自分が不審人物であることに気付いたようだった。

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