第3話

 お菓子を配っている最中だったことを思い出して、手元の段ボール箱に目を落とす。なくなっていた。話している間に何処かへ置き忘れてしまったのだろうか、と思って部屋の中を見渡す。やっぱり、なかった。

 畳張りの教室にいたはずの二十数人の小学生たちも、気付けば全員が帰ってしまっている。おろろ、やらかしてしまったか? 慌てて玄関へと向かうと、最後の一人が手を振っていた。

「あ、せんせい。ばいばい!」

「ん、さようなら。……いや待て。お菓子は貰ったか?」

「おかし?」

 首を傾げた少女の手には、袋入りのチョコが握られている。それなら大丈夫だろうと手を振って玄関から送り出すと、横から服の裾を引っ張られた。

「ん」

 三和土に足を掛けた彼女のことは玄関に飛んできたときから視界に入っていたのだけれど、敢えて話しかけようとはしなかった。そして彼女がいるというだけで、手元からお菓子の箱がなくなっていた理由も朧げに想像がつく。

 少年とのお喋りに夢中になっていた俺からお菓子入り段ボールを奪い去り、まだお菓子を貰っていない子供たちに与えてまわったのだろう。帰りが遅くならないようにとの配慮をしたわけだ、うむ。

 この有能な女の子が、佐内みゆだった。

 今年、高校一年生になったばかりの少女である。

 五つも年下なのに落ち着いた態度と冷静な判断で、いつも俺を助けてくれる良妻賢母的な女の子だ。その動作からは幼さを感じるときもあるが、将来はこんな子と結婚したいよなぁ、と勝手な妄想をすることもあった。

 妹っぽいけどお姉さんみたいに世話を焼いてくれることもあるし、割とオールマイティな魅力があるんだよね。うんうん一人で頷いていると、もう一度服を引っ張られた。

「あの、無視しないでもらえますか」

「おっ、そんなところに佐内みゆ」

「相変わらず寒いギャクですね……」

「それでもギャグとして認めてくれる君のこと、俺は結構好きなんだぜ」

「はいはい、それより後片付けは?」

「これからだよ」

 溜め息と共に立ち上がった佐内は、思い切り大きく伸びをした。それでも頭ひとつ分だけ、俺の背の方が高い。相変わらずちっちゃい子だが、初めて見たのは彼女が小学生一年生の頃で、あの頃よりも身体の随所が成長している。早い話、女性らしさが増している。昔みたいに気軽に抱き付くわけにもいかないよなー、と頭では分かっているのだが身体は思う通りに動かない。

 淡い青色の糸でバラが刺繍された白いワンピースの少女に抱き付くと、その白い肌が少し赤くなった。彼女が中学二年のとき、初めて全国模試の上位成績を叩き出した時みたいに頭を撫でまわしていると、じゃれつくようなパンチが十数発飛んできた。見た目は大人っぽくなってきたのに、中身は完全に子供のままだった。いや、俺もだけど、ちょっと甘やかしただけで照れないで欲しい。

 小野池弥勒、二十歳。

 妹みたいな彼女のことを、甘やかさずにはいられないのであった。

「いやー、今日もすまんな」

「セクハラはやめてよ、みーくん」

「いや、そっちの話じゃなくて、お手伝いの方なんだけど」

「セクハラについては謝らないの?」

「そんなこと言ってないだろ」

 そもそも、妹みたいにかわいがっている相手に抱き付いたらセクハラなのか? 彼女の言う通りだと脳内で行った会議では全会一致の結論が出ているが、情動に突き動かされる魂の方は否定と反対を繰り返してのたうち回っていた。つまり、頭は理解していても心が従ってくれないという奴である。さっきも言ったが、これは大事なことなのだ。三十回ぐらいは繰り返してもいいだろう。

 くそー、小学生の頃は毎日のように「お兄ちゃん大好き!」とか、「しょーらいは結婚しようね!」って言ってくれていたのになー。証拠として録音しておけば良かった。

 もう一回ハグしようとしたら、佐内は教室の方へと逃げて行ってしまった。

 後片付けは明日でもいいじゃん、と言ったら怒られてしまいそうだな。

 彼女の後を追いかけて、地域に伝わる古い紙芝居を読んでいた部屋へと戻る。四月に近くの畳職人に張り替えて貰った和室は青々として美しく、落ち着いた雰囲気をたたえている。とても、数分前まで小学生たちが跳ねまわっていたとは思えない。

 この、畳の敷かれた広い和室が、教室と呼ばれている部屋だ。普段はここに折り畳み式で背の低い机を並べて、小学生から中学年までを対象に勉強を教えている。基本的には子供達が自学自習をするから、それをサポートしてあげるというのが俺の仕事内容であり、明日もご飯を食べていくために必要なことだった。

 教室として利用している家は白い豆腐みたいな外観の二階建てで、一階には教室や手洗い場の他に簡単なシャワー室が設けてある。二階は手芸教室を開いている人や、ある程度まとまった広さの空間で何らかの作業をしたいという人に有償で貸し出している。意外と部屋数も多く、見た目よりも広々とした印象があるとは利用者の談だ。

 ちなみに、俺が教えている塾に通う子供には、平均的な費用の半額程度の月謝を支払ってもらっていた。熱心に通い詰めている子供の勉強時間で比較すると、他の塾の三割から四割程度の低価格になる。自立学習を支援するタイプの塾だし、教える側の負担を考えてもそれが妥当だと考えているのだが、普通じゃ考えられないほど安い。だから結構な人数の子供が入塾していて、しかしながら職員は俺一人しかいないから運営は死ぬほどつらいのであった。

 祖母を手伝って、二人で勉強を教えているときは楽だったのになぁ。

 そろそろ、追加人員を考慮すべきだろうか? 地域広報でパートとかアルバイトを募集すれば、案外簡単に集まるのかな。手の空いた大学生くらいの知り合いがいればいいのだが、生憎とそんな友人はいない。手芸サークルなどに施設を貸し出すことで無理やり休みを作らないと、利益以前の問題が生じるのはダメだろう。新規のメンバー募集は、本気で検討した方がいいかもしれない。

「みーくん。手」

「なんだよ、佐内。俺は犬か?」

「そうじゃないです。手、動かしてくださいよ」

「あぁ、そっか。スマン」

 考え事をしていたら、掃除の手が止まっていたらしい。佐内が冷たい視線を送ってくる。もうそろそろ七月になるというのに、背筋がすっと寒くなった。

 子供達がその場に投げ捨てていったゴミを片付けて、和室を綺麗に清掃していく。俺はカーペットを敷いた待合室の方へ向かった。小学校低学年の子を持つ親御さんや、迎えに来る親を待つ生徒用の待合室だ。塾での勉強に使っている砂時計も、棚にずらりと並んでいる。親御さん向けに張ってあった古い広報誌も新しいものに替え、子供が退屈しないようにと買い揃えた児童向けの小説やマンガを作家やジャンル別に並べ替えておく。

 カーペットに掃除機をかけた後、ついでとばかりに全面ホワイトボード仕様のカレンダーも書き換えておいた。毎週火曜と日曜は塾が休み、この日は祝日、ここは七夕。メモ帳に記された行事予定を書き込み、まだ参加者を募集しているもの、来月以降に予定されているものを別個に付け加える。

 行事日程を掻き終えたところで、佐内が和室から音もなく出てきた。

 その手には箒と塵取りの掃除セットが握られている。

「教室のほう終わりました」

「ありがと。せっかくだし、佐内もおやつ食べていくか」

「んー、今って何時ですか?」

「だいさん……ちょっと待ってくれ。分かった、冗談を言うのはやめるから」

 ものも言わずに立ち去ろうとした佐内に縋りついて、その場に座ってもらった。

 やっぱり、思い付きで喋るのはよした方がいいな。

 九時、十一時、十三時と三回に分けて子供達にお菓子作りと絵本の読み聞かせを行った。掃除を丁寧にやった、というか佐内に半分以上やって貰って、今はちょうど十五時くらいだろうか。実際に時計を確認すると、時刻は十四時五十八分だった。俺の腹時計は完璧だと言うことだ。

 違うか。ま、いいけど。

「ちょうどおやつの時間だ。な、いいだろ?」

「それじゃあ、何か作ってくださいよ。私は手伝いませんけど」

「オッケー。上げ膳据え膳でもてなしてあげよう」

「やった! ちょっと手を洗ってきますね」

「おう」

 掃除用具を置いた彼女が水場へと消えたのを見届けてから、さて、と首を捻る。

 何を作ろうかなぁ?

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