泥沼と私 3

事故から二週間立つとスムーズに日常生活に戻れるようにとリハビリが始まった。いくらリハビリのおかげで日常生活をスムーズに行えるようになったとしても、この足がないというハンデを抱えながら、真っ当に生きていけるなんて思えない。

 

初めは片足で立つ練習からスタートしたが、高齢者でもない私にとって、一番の問題は痛みだった。どうやら、事故の影響で私の左足は粉砕してしまったようで、残った左足も骨折した状態らしい。立つときに力を入れると、どうしてもそこが痛んでしまって、思うように力が入らない。

 

ああ、今日も終わった。リハビリは午前と午後に一回ずつある。とりあえず、午前を終えて、私は一息ついた。

 

「木下さん、お食事持って来ました」

 私がベッドサイドに腰を掛けながら少し休んでいると、若い男性看護師が昼食を持って私の病室へ来る。リハビリの後は食事。これが午前中の流れだ。

 「あ、森川君。今日も仕事なんだね」

 「うん、今日は担当じゃないんだけどね」

 

初めてこの森川という看護師を見た時、私は医者だと思った。私の中で看護師は女性の仕事で、医療の現場にいる男性は医者かリハビリ系という認識だった。

 リハビリの人とも違うユニフォームを着ているし、医者だろう。初めて彼を見た時、そう思って「先生ありがとうございました」と声を掛けると「僕は看護師なんです」と申し訳なさそうな表情で返答され、無性に恥ずかしくなったのを思い出す。

 

「今日もリハビリ疲れたよ」

 ため息をつきながら独り言のように呟くと、森川が微笑みながら「お疲れ様です」と返した。

 どうやら森川は入職して一年目の新人看護師のようで、この病棟の中では一番年齢が近い存在だ。とは言っても、六歳くらい違うのだけど。

 

「入院生活、すごく暇だから私の話し相手になってよ森川君」

 「そうしたいけど、僕も仕事だからなぁ」

森川君は困ったように微笑むけど決して無理とは言わない。これは看護師だからそういう言い方をしているのか、それとも、森川君自身の人格なのか、どっちかというと私は後者な気がする。そんな優しさが心地よくて、本当はいけないかもしれないけど親しみを込めて私は「森川君」と呼んでいる。

 

病棟ピッチが鳴り、それを確認した森川君は「ほかの患者さんに呼ばれちゃった」と私の病室を後にした。自分の業務を行っている最中、それを後回しにして他の患者の対応を優先するとは、看護師なんてめんどくさい職業私には絶対無理だと思う。

 

あの日以降、果歩と優香は来ていない。二人ともただ単純に夏休みを謳歌しているのか、私に見切りをつけたのか真相は良く分からないが、考えるほど胸が締め付けられる思いがした。心霊体験とかではないが、この感情は恐怖に近い。

 

今まで通りの私は、もういない。

 

食事を片付けてくれたのは森川君ではなかった。私の食事を下げた年配の看護師は、私の顔も見ず、からの食器のみを見て一言「下げますね」と言って出ていった。森川君だったら何か一言声を掛けてくれたのに、経験を積み業務になれるとはこういうことなのだろうか。この看護師よりも森川君の方がよっぽど看護師らしい気がする。

 

 もう自分で車いすに乗れるくらいに回復していた私は、暇な時間になると車いすに乗り病院散策をしていた。午後のリハビリまで時間があったので今日も病院散策に行こうと病室を出ると、廊下で何かしようとしている森川君に会う。

 「あ、私ちょっとその辺ぶらぶらしてくる」

 「わかりました。ちゃんとリハビリまでには戻ってきてね」

 敬語とため口を交えながら話す森川君の口調は、要所を締めている様で好印象だった。

 

 車いすの人用に作られたエレベーターのボタンを押すたびに、私はもう健常者ではないことを突きつけられるようで心が痛い。そんな現実と面を向かいながら、私は哀愁と活気が入り乱れる病院内を徘徊する。どうやらこの病院は総合病院を呼ばれる大きな病院らしく、病院とは思えないような設備が整えられていた。

 

 カフェやレストランなど、何か一般的な公共施設を思わせるような作りのロビーは、無情にも少し前の私を思い出させる。

 ロビーの中央にある外来の待合には大勢の外来患者が正面にある大型テレビを見ながら、自分の順番を待っている。その向こうの入り口からは次々に外来患者が出入りを繰り返している。入り口までの数十mが、まるで地平線のように長く、遠く感じた。

 

 待合を横切り、突き当りを左に曲がったところにある売店に向かう。売店はコンビニ同様な作りになっており、私が毎週購読している雑誌も置いてあった。雑誌を手に取ろうとするが、車いすに座った状況ではぎりぎり取れない程度の高さにあって手が届かない。無理して立とうとすると「すみません」と店員が駆け寄り、取った雑誌を私に手渡す。レジで会計を済ませると再度店員が「すみませんね。次から下に置いておきます」と申し訳なさそうに謝る。その対応が店員として正しいと承知している。でも、そんな当たり障りのない対応ですら気を使われているのが目に見えて、少し切ない。

 

 リハビリの時間に合わせて病棟に戻る。午前とは違い、義足を用いてリハビリ室で行われるリハビリは過酷だ。様々な器具がある中で、私は一人義足をつけて、部屋の隅にある手すりを掴みながらの歩行練習。義足と足の接続部が何かに刺されているかのように、ずきずきと痛む。歯を食いしばりながら、額に汗を滴らせながら歩く私に、理学療法士の「頑張れ」なんて声は届かない。十mの手すりを一往復して、椅子に座わると痛みと安堵でもう何もしたくなくなる。息を切らし俯く私に、もさっとしたはやりのマッシュヘアーの理学療法士が「だいぶ歩けるようになりましたね」なんて馬鹿にしたような声をかけてくるので、ただ一言「はい」と頷き後は何も返さなかった。こっちはつい数週間前まで普通に歩いて、走って、ジャンプして、何不自由ない生活を送っていたのに、そう思うと嗚咽しそうなほど悔しさが混みあがってくる。

 

 十六時から始まったリハビリは、歩行と休憩を繰り返し十七時に終わった。その頃にはリハビリ室にいるのは私ともう一人くらいになっており、リハビリ室の職員も徐々に帰り支度を始めている。窓から見える外の風景はまだ明るく日差しが照らしており、暑そうに手で仰ぎながら歩く人を見て、季節は夏なのだと実感する。

 

 「自分で戻れるから大丈夫」と理学療法士に伝え、だんだんと人の少なくなる病院内をゆっくりと戻った。夕方から夜にかかるこの時間が、私とても嫌いだ。嫌いというか、精神的に一番憂鬱になってくる。入院前もこのような感覚を覚えていたが、今は以前よりそれが強い。エレベーターに乗ろうと車いす用のボタンを押して待っていると、上から降りてくるエレベーターの中には森川君がいた。

 「あ、木下さんリハビリ終わったんだね」

 森川君は降りて早々に私に気づいた。仕事を終えた私服の状態でも、笑顔で話しかけてくれる森川君を見ると、溜め込んでいたものがぼろぼろと零れていく感覚がした。

 

 「私ってさ、やっぱり障がい者だよね」

 私と森川君以外、周りには誰もいなかった。私の放った言葉がそこらじゅうの壁に反射して私の元へ帰ってくる。「障がい者」その響きが私の涙腺を震わせ、一滴の涙が零れ落ちた。

 森川君の表情が、一瞬強張ったような気がした。看護師一年目の森川君に投げ掛ける内容としては重すぎたかも知れない。言ってから、何だか申し訳なく思う。

 

 私のぐちゃぐちゃとした感情を包み込んでくれたのは、森川君の一言だった。

 軽く微笑んだ後、森川君は「少し、デイルームで話しませんか」と言った。私は「うん」と言い頷く。絶望の淵にいる私に手を差し伸べてくれたような森川君の一言が、私はとても嬉しかった。

 

 十七時を回ったデイルームには私服を来た見舞い人がちらほらいるだけで、私と同じ病衣を来た人間はいなかった。もうすぐ夕食が来る時間だ。もう大体の患者は病室で静かに過ごしている。

 デイルームの中を横切り、私たちは一番窓際の席に座った。そこにはまだ日差しが入ってきて、少し暖かい。

 

 「何かあったんですか」

 私たちの会話は、テーブルを挟んで正面に座った森川君のそんな唐突な問いから始まった。

 「なんかさ、義足をつけてリハビリしてたら、私はもう普通の人間じゃないんだなって思って」

 「そんなことないですよ。今こうして僕と話しているんですから、何も変わらない同じ人間です」

 

 いつもの笑顔ではない真剣な表情で、木下君はとても模範的な言葉を返した。それが誰も傷つけることのない優しい回答だとはわかるが、何となく腑に落ちない。

 「でも、実際そうでしょう。足のない私は世間一般から見れば障がい者っていう分類に入るし」

 ぐっと目元に力を入れて、森川君を見つめる。そうしておかないと、また涙が溢れてしまいそうだった。

 

 少し、沈黙が生まれる。私の視線から目を背けるように、森川君はすっと視線を下げた。

 「そうかも知れないけど、僕はそんな風に思ってないよ」

 視線を下げたまま、森川君は呟くように言った。何か言葉を返すことを優先したのか、模範的な返答とは程遠い答えが返ってくる。

 

 「それは私が今病院にいるからだよ。私と森川君が患者と看護師っていう立場だから、障がい者じゃなくて一人の患者として見てるだけ。どこにでもいる足のない患者としか思わないんだよ。だけど、病院じゃなくて外で私を見た時、誰しもあの子は足がないんだ可哀そうって、そこで初めて障がい者として見られるようになるの。そう思うと、怖くて怖くていられない」

 精一杯こらえていたつもりだったのに、知らず知らずのうちに涙が零れ落ちる。ここ数日間、私が思ってきたのはこれだった。今はいい。でも、この先どうなるのだろう。

 

 私の涙を見て焦ったのか、「そんなことないよ」と一言告げた。森川君は不安げな表情を浮かべている。

 「そんなことないって何」

 反射的に返した言葉が森川君の表情を固まらせた。こんなやり取りをしたかった訳じゃないのに、自分の感情が上手くコントロールできない。もう、どうでもいいと思った。

 

 「こんな体になったせいで、友達と立てた夏休みの予定も全部だめになったし、友達だって愛想をつかすかもしれない。もう人生終わったようなものだよ」

 話しながらもうどうにでもなれと思った。私の聞くに堪えない言い分に嫌気を指したのか、先ほどまでデイルームにいた人たちもいつの間にか姿を消していた。この空間にいるのは、私と森川君の二人だ。

 

 少し日が落ちて赤みがかった日差しが、窓の外から私たちを照らす。私は以前からこの日差しが嫌いだった。一日の終わりとともに、何かを失ったような感覚がするからだ。特に夏休みの友達と遊んだ帰りなんて、どうしようもなく気分が落ちたのを覚えている。


 そんな日差しを背中に受けながら、森川君は口を開いた。

 「そんなこと、絶対に言っちゃだめだよ」

 俯いたまま放ったその言葉は、私に伝えるには小さく、独り言というには大きかった。まるで自分に言い聞かせているような、そんな言い方。その雰囲気は今まで森川君が纏っていたものとはどことなく違い、暗く重たい。なんて返していいか分からず「え、、」と上手く聞こえないふりをした。それが効果的だったのかどうか分からないが森川君は顔を上げ、私に目を向けた。

 

 「そんなこと言っちゃだめだよ」

 再度言われた言葉は、普段の柔らかい物腰とは打って違い、言葉そのものに強い意志を感じさせる物言いだった。言い方がきついとか、怒鳴っているではなく、ただ、重い。

 

 「ごめん」

 それに気圧された私は、そう謝るしかなかった。私は知らずのうちに患者という権利を乱用していたのかもしれない。患者だから何を言ってもいいなんて、身勝手なことを考えていた。きっと私の一言が、森川君の何かを崩れさせた。

 

 表情を強張らせ、森川君から目をそらす。そうする以外、対処法が見当たらなかった。

 「ごめん」

 森川君の声が聞えたのは、その直後だった。声に反応して森川君に顔を向ける。眉間にしわを寄せ、下唇を噛みながら、私の顔を見てもう一度「ごめん」と言った。

 

 「大丈夫だよ。私の方こそごめん」

 笑顔を作り森川君に見せる。上手く作れていただろうか。

 「いや、ごめん。あのさ、少し話してもいいかな」

 「うん。何かな」

 「僕、弟がいたんだ」

 唐突に始まった話に「うん」とだけ頷いた。一人の男性がデイルーム内の自動販売機で飲み物を買って出ていく。また、この空間は二人だけになった。

 「でも、弟、中学生の時に骨肉腫っていう骨のがんになっちゃって、十六歳の時に死んだんだ」

 「そうなんだ」

 

 私は、森川君の告白にただ相槌を入れることしかできなかった。そして真剣な表情を見せる森川君のじっと見つめていた。真剣な表情を見せているのに、その瞳からは今にも涙がこぼれそうだった。

 

 「いつもさ、言うんだ。僕は大丈夫、絶対治るからって。まだ生きていたいし、絶対良くなるよって。どんなに辛いときでも、お見舞いに行った僕をいつも笑顔で迎えてくれた」

 何も置いてないテーブルの上に、一滴の水滴が落ちた。続いて、もう一つ二つと落ちる。私はただ、それを黙って見ていた。

 

 「本当に最期までさ、笑顔で生きることを望んでた。結局それは叶わなかったけど。そんな姿を見てるとさ、死にたいとか、そういう命を粗末にするような言葉がどうしても嫌で、勝手な感情押し付けてごめん」

 「大丈夫、私こそごめん」

 普段から適当な話ばかりしてきたせいか、こういう時に上手い言葉が見当たらない。相手の目を見て話を聞く、こんな保育園で習うような初歩的な事しか私にはできない。

 

 「看護師になったのも、それが理由なの」

 「そう、ありきたりで面白くないでしょ」

 気を取り直したのだろう。いつものように軽くはにかんで話す森川君から、いつの間にか敬語は消えていた。

 「ううん、とても立派だと思う。その経験を、今度は別の誰かのために生かそうとして看護師になったんだよね。森川君はきっといい看護師になれるよ。だって、そんな思いを持って患者さんと関わってるんだもん。なんか、森川君がほかの看護師と違う理由が分かった気がする」

 

 真っすぐ、森川君の顔を見ながら言った。涙を流した際に何度か頭に触れていたせいで、普段からきっちりと立ち上げた前髪が少し崩れている。夕日が、森川君を覆う。徐々に日が暮れ、気温も下がってくる中の赤い太陽は、森川君を優しく包んでいるような雰囲気がした。

 

 森川君の話を聞いて、涙腺が緩みかけるのをぎゅっと我慢していた。今は私じゃないと思いながら、一度強く瞳を閉じる。その様子を見た森川君が「大丈夫」と声を掛ける。私は「うん、大丈夫」と頷く。ああ、やっぱり違うな。そんな感想が、私の中をぐるぐると駆け巡っていた。

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