泥沼と私 2

 果歩と優香が病室を訪れたのは、私が入院して数日たった頃だった。

 交通事故直後の私は、一応重症患者として扱われ、看護室から一番近い個室に入れられていた。入院などしたことのない私にとって全てが未知の状態であったが、何より驚いたのは病院内の騒々しさだった。いつも物音で溢れてて、慌ただしい。入院する前は、勝手に病院は静かで安心できて、看護師は優しくて、そんな想像をしていた。だが、実際はいつも切迫した雰囲気があり、そこで働く看護師も鬼気迫るような表情をしている。白衣の天使なんて、所詮男たちの妄想でしかないんだと、心の中でひそかに笑う。

 

 こんこんと病室のドアからノック音がしたので、私は「はい」と返事をする。てっきり看護師が来たのかと思ったが、ドアを開けて目に入ったのは果歩と優香の姿だった。お見舞いに来てくれた二人を嬉しく思い、笑顔で出迎える。でも、二人の顔に、いつもの笑顔ななかった。

 

 「二人とも、来てくれたんだね」

 ここ数日、全部夢なんじゃないかと思えるような現実を突きつけられて、心も体も憔悴しきっていた私は、二人が来てくれたことが嬉しくてたまらなかった。二人を見ると、当たり前に生活していた頃の自分を思い出せる気がして、心が和らぐ。

 開口一番に二人が発した言葉は、良くも悪くも私に緊張感を持たせた。

 「薫、本当にごめんね」

 

 二人は瞳に大粒の涙を溜めていた。今にも零れそうになりながらも必死に留まらせているその情景は、二人の中で、自分よりも不幸な人を目の前にして涙を見せてはいけないという強い意志があるように思えた。

 

 「なんで二人が謝るの」

 私は複雑な思いを抱えながら、精一杯の笑顔を見せる。つられて二人が笑ってくれるんじゃないかと、淡い期待を乗せながら。

 それでも、二人の表情は変わらない。

 

 「ごめんね」

 果歩が言う。「二人は悪くないよ」と途中まで言いかけたけど、遮るようにして果歩が続ける。

 「あの日、私帰ろうなんて言わなかったら、薫はこうならなかった」

 「違うよ。それは関係ない」

 あの日果歩は予定があって帰ったのだ。それをわざわざ自分の責任に転換するのは違う気がする。

 「私だって、あの後一緒にいれば」

 「だから、三人で帰ろうって言って帰ったから、優香が気にすることじゃないって」

 

 話しながら、自分の笑顔が崩れていることに気づく。でも、上手く直せない。友達なら、もう少し励ますようなことを言ってくれてもいいのに。こんなこと、病人の身勝手かもしれないが、心の中でそう思う。

 「もういいから、何か楽しい話をしてよ」

 

 今の発言が完全に場違いであることは自分でも分かっていた。それでも、この雰囲気を壊す何かが欲しかった。お見舞いに来てもらって、なんで自分が気を使っているんだろう。

 ベッドサイドの椅子に座っていた二人がゆっくり顔を上げる。優香が「そうだね」と決まり悪そうな表情を見せて、手に持っていたプリンを手渡す。

 

 「お見舞いにプリン持ってきたの。ちょっと高級なやつ」

 ちょっと高級なやつ。というフレーズが面白かったのか、隣の果歩が軽く笑う。

 「なにその言い方。でも美味しかったよね。私達一回試食してきたもん」

 「えー、ずるい。私も食べよ」

 事故後であり、まだ動いてはいけないという指示はあるものの、足がない以外いたって健康体の私に食事制限などはなかった。お言葉に甘え直ちにプリンをかき込む。プリンは濃厚で口の中に入れるとすぐに溶けた。贅沢な時間はすぐに終わってしまう。

 

 「美味しかった。二人ともありがとね」

 「よかった。このプリン一昨日駅前でオープンしたお店で売ってたの」

 「また、薫が退院したら一緒に行こうよ」

 そんな二人の何気ない発言に言葉が詰まる。本当は「行く」と即答したい気持ちでいっぱいだが、実際足のない私は二人の迷惑になるだろう。感情が入り乱れた結果、「リハビリがんばってからね」という答えにならない答えを出した。

 

 「あ、海と花火大会行けなくなっちゃってごめんね」

 「いいよいいよ。薫は早く治すことだけを考えてなよ。治ったらまたみんなで行こう」

 果歩が気を使ってくれたのは良くわかるけど、治るって何だろう。すでに足のない私はもうこれが完成形なのに、傷が癒えても海に行くことなんてできっこない。

 「うん、そうする」

 当たり障りのないような言葉を私は返す。下手に考えすぎても、きっとよくない。

  

 「ねえ、今めっちゃ痛い?」

 唐突に優香に問われる。普通なら聞きにくいようなことも、独特な雰囲気を作り聞いてしまう様子は、何だか優香らしいなと思う。

 「痛み止め使ってるけど、やっぱり痛いよ。目が覚めた時なんて、痛みで死ぬかと思った」

 「うわー、そんなになんだ。怖い怖い」

 顔をしかめ、体を震わせる素振りを優香が見せる。

 

 「うん、今はすごく痛いって訳じゃないけど、動いたりするとかなり痛い」

 私の言葉を聞いて、果歩が「大変だね」と優しく私の足を触った。果歩の優しさを感じながら、ふざけた様に「痛い」と声を上げてみる。

 「え、ごめん。痛かった?」

 「ううん、全然」

 はっとした表情で手を離した優香だったが、私の声聞くと「からかわないでよ」と頬を膨らませむすっとする。一部始終を隣で見ていた果歩は声を出して笑っている。

 

 こんな普段と何も変わらない光景を見れることが、こんなにも尊いことだと思ったのはその直後だった。

  

 普段と変わらない日々を生きる二人と、もう普通の日常生活ですらまともに送れない可能性のある私。二人はこの先も成長していくけれど、もう私はここで終わりかもしれない。人生が終わるのではなく、人間として。

 

 こんなにも日常が愛おしいなんて、今まで思ったことはなかった。ただ変わり映えのしない毎日をだらだらと過ごし、早く大人になりたい。何かいいことはないかな、なんてふんわりしたことを考えながら、結局いつもと同じ日常を歩む。でも、不満に思いながらも何も変えようとせずに過ごしていたのは、その変わり映えしない日々に満足していたからもしれない。私は、そんな日々がきっと好きだったのだ。

 

 今更気づいても遅いのに、どうして大切なことはそれを失ってから気づくのだろう。事前にそれを気づいていれば、こんな思いをしなかったかもしれないのに。私は、本当に馬鹿だ。

 「薫、大丈夫」

 声を掛けられたことに続き、はっと我に返る。私は今、どんな表情をしていただろう。そんなことも分からないほど、自分の負の感情に陶酔していた。

 

 目の前の優香は不安そうな、心配した表情を見せている。「大丈夫」と声を発した私を見て安心したのか、優香がにんまりと笑みを浮かべる。

 そして、優香は隣の床頭台の上に置いてある時計に目を向けた。

 「あれ、面会時間って何時までだったっけ」

 「確か、五時までだったと思う」

 時刻は四時三十分。時間を確認した優香が、果歩のことを軽く小突いた。

 「ほら、早く言わないと時間無くなっちゃうよ」

 なんのことを言っているのか、二やついた優香とは対照的に、果歩は少し顔を赤らめている。

 

 「いや、いざとなると恥ずかしいっていうか」

 「何々、何の話?」

 話についていけない私に対して、果歩が私の耳に顔を近づけ、実はねと話し始めた。

 「果歩、先輩と付き合ったんだって」

 「え、ほんとに」

 まさか、というよりもやっと付き合ったかという思いの方が強かった。今までいい感じになっていることは聞いていたから、私自身早く付き合わないかなと思っていた。

 

 「やったじゃん果歩」

 果歩は恥ずかしそうに「ありがと」と返した。いつもは強気な果歩だけど、この手の話になると急にしおらしくなるのが可愛い。

 「え、どっちからなの」

 「向こうから」

 「ほら、だから絶対先輩も果歩の事好きだって言ったじゃん。でも、本当に良かったね」

 「そうそう、もう二人で出かける予定も決めたんでしょ」

 ここに来るまでに二人でいろいろと話してきたのだろう。横で茶々を入れる優香が面白い。

 

 「いいなー。どこに行くの」

 「えっとね、とりあえず海に行くことは決まった」

 海。その響きが、私の中で何度も反芻される。

 「そうなんだ。楽しんできなよ」

 「もちろん」

 

 表情の軟らかくなった果歩。普段通りの果歩。その姿を私は望んでいたはずなのに、今はなんだか、違う。

 果歩の幸せ報告会は私達からあっという間に時間を奪い去り、二人は手を振って病室を後にする。

 

 一人取り残された病室は、無償にも悲壮感が漂い私もそれに飲まれていく。果歩も彼氏ができたんだ、と何を考える訳でもなく呟く。そんな幸せな言葉がこの部屋と調和できるわけもなく、ひとりでにポツンと漂っている。そうか、海に行くのか。本当は三人で行く予定だった海。私がこんなことになったから、行けなくなった海。果歩はいつ先輩と付き合ったんだろう。もしも私が事故にあって、それで海に行けなくなった穴埋めをするために先輩と行く予定を立てたなら。そこに私は関係ないけど何だか悲しい。

 

 このまま、夏休みの海の予定みたいに、私と二人の関係も流れていってしまうのだろうか。今日の二人を見ていたら、何だかそんな風な気がしてくる。病室で寝たきりの私と、日々を楽しく生きる二人との間に、大きな壁ができたこと薄々感じていた。きっと足のない私にその壁を登ることは難しいだろう。いいな、果歩は彼氏できたんだ。私には、できるかな。こんな私にはきっと無理だ。こんな状態になってしまったら、日の光を浴びず日陰でひっそりと生きる方がきっと身にあっている。

 

 マイナスな感情をコントロールできずに、また涙を流す。ふと病室の窓から見た景色は、まだ夏の太陽の光を浴びていて、その光をこの病室も浴びているという現実が、何だかとてもミスマッチだった。

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