第2章 泥沼と私
痛い。気が付いた時、まず初めに感じたものだった。目を開けると、天井は白く、自宅の天井は木材の茶色をしているので、少なくとも自宅でないことは容易に想像できた。
頭がぼーっとする。何だか、上手く物事が考えられない。私に、何があったんだろう。
もしかしたら、私は何者かにさらわれてしまったのかもしれない。そうだとしたら、どこに連れられてきたんだろう。
隣に窓が見える。どうやら今日は曇りのようで、夏は曇りくらいが丁度いいなと思う。
何かを啜るような、そんな音がする。
それと同時に、誰かが私を呼び掛けているようだ。変な感覚がする頭を横に向ける。
あれ、お母さんとお父さんがいる。なんで泣いているんだろう。
「薫、薫」
お母さんは、私の顔を見ると、ベッドに伏せるようにして、また泣いた。そんなお母さんを抱えながら、お父さんも大粒の涙を流す。
「あれ、二人とも、なん、で、泣いて、るの」
言葉を発しようとしたけど、何だか上手く言葉が出ない。
「良かった。本当に良かった」
「薫、お父さんとお母さんがわかるか」
なんでそんなことを聞くんだろう。
「わかるよ、なん、で」
「そうか、本当に良かった」
何が良かったんだろう。
記憶はないけど、私に何かが起きたことは二人の反応からして明白だった。泣いているのに笑っている。そんなよくわからない感情を惜しみなく溢れ出している両親は頭がおかしくなったのだろうか。
頭の中で勝手に想像を膨らませていると、お父さんは急に何かを決心したような表情で私に語り掛けた。
「薫、何があったか覚えているか」
私は全く覚えていない。急にお母さんが私の手を掴むので、反射的に体がびくっとなる。
「覚えて、ないよ。何があったの」
近くに両親がいたことで、気持ち的にも安心したが、気が付くと両親が泣きじゃくっているという現状に頭がついていかない。
次に言葉を発したのはお母さんだった。未だに大粒に涙を流しながら、「ごめんね」と私の頭をさする。何のことか分からないけど、何かあったなら早く教えてほしい。
「薫」
お父さんが私を真っすぐ見つめ話しかける。
「何」
「お前はな、交通事故にあったんだ」
「え」
何のことを言っているんだろう。言葉が耳に入るのと、それを理解するまでに一瞬とはいいがたい時差があった。
確かに、そう言われてみると確かに体が痛い。それに気づくと一気に痛みが押し寄せてくる。
白い天井、点滴、私を囲い込むようなカーテン。ああ、ここは病院なんだ。
「私、事故にあったんだね。でも、何もなくてよかった」
私が話すと、両親の表情が一瞬曇った。それに妙な違和感を覚える。
「何、何かあったの」
お母さんは両手で顔を押さえて涙を流した。お父さんも一瞬口を噛み締めるような動作を見せたが、すぐさま口を開いた。
「本当に、お前が生きててよかった。でも、事故のせいで左足を切るしかなかったんだ」
左足?切る?頭に入った言葉がぶつ切りになってなかなか頭に入ってこない。痛む体を起こし、恐る恐る左足に触れる。
そこには、何の感触もなかった。触れる位置が変だったのだろうと思い、徐々に手を上に引き上げるが、何もない。そして、やっと触れたのは切断面であろう大腿の中央付近だった。
ああ、足がない。足がない。足がない。
唐突に突き付けられた現実を受け入れることができず、私は叫んだ。他の患者の迷惑など微塵も考えることなく、声がかれるまで私は叫んだ。
後に医師の説明から、事故直後の私の状況では足を切断する以外の選択肢はなかったと理解することができた。あの日、私は信号無視をした車に引かれたらしい。事故現場は悲惨な状況で、医師や両親は、「命があるだけ運がよかった」と口をそろえて言った。
でも、命があるとか、もうそんなことはどうだっていい。私は足を切断した事実を受け止め切れていなかった。
病院から始まった私の夏休みは、初日にしてもう終わったようなものだ。
三人で行く予定だった海は?花火大会は?そんなもの、足のない私に行けるはずがない。
夏休みどころか、私の人生そのものが終わったと言っても過言ではない。こんな状況になっても、明るい未来を想像できるほど私の心は強くなかった。
両親のいなくなった病室で、先のことを考える。考えても考えても、何も浮かんでこない未来に絶望し、私は静かに涙を流した。
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