日常 4

 夏休み前日、学校内は何とも言えない異様な雰囲気に満たされる。

 

 その中でも、結果によっては夏休み中補講に出なければならない危険を背負った私は、ただならない緊張感に襲われていた。

 

 「木下、答案返すぞ」

 ホームルームの直前、いきなり先生から呼ばれた私は、内心心臓が破裂しそうなほどどきどきしていた。そそくさと教壇に立つ先生の元まで向かい、腫物に触れるようにして答案を取った。

 

 先生から返却された答案を見ると、私は嬉しさのあまり二人に飛びついた。

 

 これで、二人と夏休みを謳歌できる。決して良くできたとは言い難い点数だったけど、赤点じゃなきゃなんでもいい。あの日、二人は三時間以上英語を教えてくれた。勉強なんてつまらないことを自分の時間を割いてまで教えてくれた二人には本当に感謝している。

 

 そんな喜びも束の間に消え、私の頭はすでに夏休みをどう過ごすかにシフトチェンジしていた。先生は必至に何か訴えているけれど、夏休み前のホームルールなんて、全くもって耳に入ってこない。それは私だけでなく、今聞いてるほとんどの生徒がそうであるという確信を持って言える。まともに聞いているように見えても、思ってることなんて「早く終われ」くらいしかないだろう。聞いていなくたってどうせ言うことは毎年同じで、不順異性交遊をしないようにとか、くだらないことぐらいしか話していないのだから、こんなことやらなくてもいいと毎年のように思う。第一、社会に出てもそういう行為をしたことないのはマイナスにしかならないのに、どうして高校では規制しているのか私には意味が分からない。まあ、こんな規則守ってる人なんていないだろうけど、もしこれが原因で社会に出ても何もしたことのない人が増えるのなら、それの方が問題だとひとりでに思う。

 

 長いホームルームを終えると、私は即座にリュックを背負った。

 「果歩、優香帰ろ」

 二人の方を向いて言うと二人とも驚いたように目を丸め「早すぎるでしょ」と果歩が言う。

 

 ちゃんとした温度まで見てないけど、今日は今シーズン一の猛暑日だとニュースで言っていたのを思い出す。二人はうちわを仰ぎながら、学校指定のポロシャツの袖を肩まで捲っている。このノースリーブのような状態をわざと作り上げるのが、最近の女子高生の中では可愛いとされていた。

 「もう夏休みは始まってるんだよ。早く帰ろうよー」

 うきうきとした気持ちを抑えることなく、私は二人を急かす。

 「なんなのほんと、英語赤点じゃないからって調子乗ってるんでしょ」

 

 茶化したように言う優香に対して「もちろんそうだよ」お茶らけて返す。でも実際そうであることに変わりはない。

 

 「こんなんじゃあ英語教えなきゃよかったなー。失敗した」

 はあ、とため息をつきながらわざとらしく果歩は言う。

 「いやいやー。それは感謝してますって」

 こんなどうしようもないやり取りをしている最中、意気揚々と「私も準備できたよ。いこいこ」と急かすように優香が言うので、私たちはあっけにとられてすぐさま準備をした。

 

 夏休みの予定話し合う場所に私たちが選んだのは、駅前にあるサイゼリアだった。今日は午前中で学校が終わりだったので、昼食を取りながら話し合おうと優香が切り出したのだ。

 

 前の話し合いで海に行くことは決まっていたけど、具体的にどこの海に行くのか、泊まりなのか日帰りなのかなどは決まっていなかった。

 「海と言ったら湘南じゃない」

 

 高校生の持っている最大限の知識を活用して私が一つ提案する。

 「でも、なんか湘南の海って汚いらしいよ」

 優香が顔をしかめながら言うので、意見を出した私もそんなような気になってしまう。私たちくらいの年代は「らしい」という言葉が何より絶対的な意味を持っていた。

 

 「じゃあ、静岡の海とかはどう。見て、綺麗だよ」

 スマホを操作しながらいい写真を見つけたのか、優香が私達二人に画面を見せた。覗き込むように見たその写真は、私の思っていたよりも数倍綺麗で、私の気持ちはこちらに傾いていた。

 

 「何かね、近くに旅館もあるみたい」

 優香の調べてくれた旅館のサイトを見ると、金額的にも高校生に良心的で内装もなかなか美しい。運よく、まだ何部屋か空いているようだ。

 

 「ここにしようよ」

 優香の声に反応する様に、私も頭を縦に振った。

 「じゃあ、ここにしよ。私予約入れとくね」

 夏休みで特に何の予定もない私たちは、丁度八月十日に旅館が開いていたので海に行く日にちをそこに合わせた。

 

 「あ、カルボナーラが冷めちゃった」

 予約を入れ終えると優香が思い出したようにつぶやき、冷めたカルボナーラをフォークで絡めとる。私のドリアはいい感じに冷めてくれて、食べやすいくらいの温度になっていた。

 

 「あとさ、花火大会も行こうよ」

 口角を上げ、私たちに訴えかけるように果歩がもう一つ提案した。

 「いいねいいね。行こうよ」

 果歩が花火大会を提案したことに、私は少し驚いた。果歩が言う花火大会とは、釜無川の花火大会のことだ。そう、果歩が先輩と行ったという、あの。釜無川の花火大会は年に二回開催している。その一回目に果歩は先輩と行ったのだ。私自身参加したい気持ちはあったが、果歩が一回行っているから、どうしようかと考えていた。でも、果歩から声を掛けてくれるのは嬉しい誤算だ。

 

 「え、でも果歩は先輩と行くんじゃないの」

 わざと驚いたような表情を作り、優香が果歩をからかう。私も便乗して同じようなことをしてみる。

 「先輩とは行ったし、今度は三人で行きたいの」

 「おーさすが果歩ちゃん。友達思いだね」


 私が果歩をからかうと、果歩は頭を軽く掻いて照れ笑いを見せた。以外にも、この三人の中では果歩が一番いじられている。何をしても私たちを受け入れてくれる果歩が、二人とも好きなのだ。

 

 果歩が頼んでいたマルゲリータピザを食べ終え、口をウエットティッシュ拭く。そして改まったように「今年の夏は楽しくなりそうだね」と笑顔でつぶやいた。

 「いやいや、もっと予定入れてこ。とりあえず花火と海は決定ね」

 来年は受験とかでいろいろと忙しくなる。今年が高校生最後の夏と言っても過言ではない。私が付け加えた一言に、「そうだね」と二人が頷く。


 夏。暑い、暑い夏。そして、何よりも幸せな夏。もう、私たちの夏は始まっている。一分一秒を無駄にしないと勝手に誓いを立てる。

 

 今日は果歩に用事があるらしく、昼食を済まし午後二時前にサイゼリアを後にした。

 

 予定も決まり、気分が高揚したまま電車に乗り込んだ。まだ正午過ぎということもあり、電車内に人は少なかった。四人掛けのシートが開いていたので、私たちはそこに座り込む。

 

 三人で話していると電車内の時間も一瞬に思えるほど短く感じる。まず、優香が降りて次に私と果歩が降りる。よく聞くと、果歩は今日祖父母の家に行かなければならないようで、駅のホームを出ると普段とは逆側に歩いて行った。

 

 一人で家に帰ったのはいつ振りだろうか、いつも果歩がいてくれたから、そんなに感じなかったけど、一人で歩くのは意外と寂しい。でも、誰にも見られてないこの感じは案外嫌いではなかった。

 

 静けさに酔いながら歩こうと思ったけど、駅のホームから聞こえてくる工事の音に邪魔され上手く陶酔できない。この工事はいつまで続くのだろう。思えば、私が中学に入ると同時に工事が始まった気がする。そうなると、もう五年も工事していることになる。いつ、完成するんだろう。私が大人になるころには完成しているかな。完成したらどんな駅になるのか、私は少し楽しみだった。

 

 大人になるって、何なんだろう。家に向かい歩きながら、ふとそんなことを考えた。大人になる。大人になる。このまま時が立てば、私は高校を卒業して、入学できたら大学も出て、そして社会人になる。でも、その前に成人式もやって、成人式を終えたら大人ってことになるんだろうか。その式を終えただけで、次の日から何か変わるなんて、私には到底思えなかった。じゃあ、大人って何なんだろう。大きい人と書いて大人。もう体が大きくなることはないだろうし、精神的に大きくなることなのかも知れないけど、精神的な成長とはどのタイミングで訪れるか分からない。

 

 考えれば考えるほど煮えたぎっていく頭を、風が撫でるように優しく吹く。こんな暑い中でそんな優しく吹いたってどうにもならないと思いながら、私は大人について考えるのを止めた。子供のままで大人について考えても、結局自分は子供なのだから、何も浮かんでこないと、自己解決する。

 

 ただぼーっと、家に向かっていた。その最中に信号があったのか、それともただ周りを気にせず歩いていたのか、記憶が曖昧だ。

 


 気が付くと、私は病室のベッドに寝ていた。


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