第6話

『おいで』


 そう呼ばれているような気がして、窓から身を投げた。あとのことは、覚えていない。


 目を覚ましたら真っ白な部屋にいて。鼻をついたのは潮の香りだった。


「目を覚ましたようだね」

「っ、誰だ……!? ってえ!」


体中が、痛い。折れているのか?


「打撲してるんだよ。でも骨は折れていないし。どこも異常はない」


 そんなことを淡々と話す白衣の男に唖然としていると、誰かやってきた。

 ――メルだ。

 そうだ、俺、メルに呼ばれて窓から身を投げた。メルの歌声に誘われて、といった方が正しいかもしれない。


「ここは。どこかの病院か?」


俺の問いかけに、


「孤島にある医院。今頃あなたを探し回っている女たちから逃げてきた」


小さな声で囁くように答えたメル。


「……メルが俺を運んできてくれたのか?」


 その、華奢な身体で。


「ええ」


 相変わらずメルは俺を驚かせるばかりだな。初めて海岸で、出会ったときのこともそうだし。突如、二階の窓から現れたメルを天使だと感じたこと、俺は死ぬまで昨日のことのように思い出しそうだよ。


「腹ごしらえは、したのかよ。成人男性の三倍はありそうな胃袋に」


 こんな話、どうでもいい。どうでもいいことが話せて嬉しいが。

 まずは感謝を伝えなければ。


「憎まれ口を叩けるくらいには記憶が戻ったようね」

「助かったよ。ありがとう。まさか全部忘れて殺されかけてたなんてな」


 いや、だけど、俺が死んでいたら誰かの命は助かっていたのかもしれない。それはひょっとしたら、俺の母親になりきっていた、あの女の本当の息子で。だからこそ手術を断ろうとしたら鬼のようになった。あの女の口から放たれた言葉は他の誰かへの愛のある言葉で。そいつの為にプリンを作っていたのだとしたら。


「俺、生きててよかったのかな」


 メルは、なにも答えない。それどころか俺と話すのに飽きたのか部屋から出て行ってしまった。


「メルは、君を見殺しにしたくないから歌ったのだよ」

「え?」

「外でもない、君のために」

「俺のために……」

「あの子の歌声には人を救う力がある」


 だろうな。わかっている。俺が彼女の歌声にどれだけ希望をもらったか。


「歌い続けること。それが、あの子の生き方なのだろう」


 意味ありげにそう呟いた、おそらくは自分の手当を施してくれたであろう男に俺は嫉妬していた。俺よりもメルのことをよく知っている口ぶりだったからだ。

 ああ、俺はこれから先、君に救われる全生物を憎んでしまいそうだ。


 ――いっそ、君の呼吸を止めてやりたい。


 これが天使に恋をした僕がたどり着いた最大の愛の言葉だと言えば、美しい顔を少しは歪められるだろうか。

 それとも。やっぱりその表情は、大好物の卵色のデザートを目の前にしたときにしか変わらないのかな。


 ぐうう、と腹のなる音がした。


「なにか食べるかい」

「そうさせてもらてると助かります」

「暫くはここにいなさい」

「なんの役に立ちませんよ。こんな足じゃ」

「なあに。あの子の話し相手になってくれればいいさ」

「メルの? あいつ全然話しませんよ」

「はは。それじゃあ一つアドバイスしてあげよう。あの子は自分のことは滅多と話さないが。たとえば伝説のプリンがあってだな、なんて物語には食いつくだろうね」

「どこまで食い意地あるんですか」


 ねえ、メル。まだ俺が君と関わることが許されるなら。そのときは一緒に君の瞳ような青いプリンでも作ってみようか。



【完】

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