第1章 レッツ、レンタルベイビー! ④レンタル講習会
レンタルベイビーが始まる前に、無料で3回講習会を受けなければならない。
一家庭につき、参加するのは3人までと決まっている。以前は、夫婦やカップルだけではなく、双方の両親がそろって参加するケースもあり、会場に入りきれないぐらいの人数が集まって大混乱が起きたことがあった。今は夫婦+どちらかの母親が参加するケースが多いらしい。残り1枠を巡って母親同士で対立する家庭もあり、参加者を決めるだけで大変だという話を、美羽はお店の客から聞いたことがある。
美羽はお店が定休日の火曜日の昼間の回に申し込んだ。土日はすぐに予約が埋まってしまうそうだが、火曜日は楽々予約できた。
講習会は地元の横浜市役所で受けることにした。
市役所の会議室には、10人ほどの参加者がそろっていた。カップルで参加しているのは1組だけで、残りは女性一人だけか、母親と一緒に参加している。一人で参加している人が多くて、美羽はホッとした。
長テーブルに名前が貼ってあるので、美羽は「秋津美羽様」と書かれている席に座った。
14時になると同時に、やけに不自然な笑みをたたえた中年の女性が会場に現れた。女性はレンタルベイビーのCMの業者と同じ、淡いピンクの作業服を着てピンクのキャップをかぶっている。
「皆さん、こんにちは~。レンタルベイビーの講習会を担当するぅ、山野辺と申しま~す。よろしくお願いいたしま~す」
いきなりハイテンションで話しはじめたので、参加者はみんな戸惑い、顔を見合わせた。山野辺は気にせずに説明を続ける。
「ハイハ~イ。さっそくですが、今日申し込んでいた方の確認をさせていただきまあす。お名前を呼ばれたら、手を挙げていただけると助かりまあす。それでは、後藤さん」
名前を呼ばれた人はおずおずと手を挙げる。
「ハイ、お母様とのご参加ですね。次、三浦さん」
美羽は「秋津さん」と呼ばれた時に、「ハイ」と軽く手を挙げた。
「ハイ、ありがとうございます。全員ご出席ですね~。説明会でも聞いていると思いますが、この講習会は3回、あります」
山野辺は3本の指を立て、みんなの顔を見回した。
――分かった。この人、子供向けのショーの司会者みたいなノリなんだ。なんなんだろ。市役所の人ではないのかな?
「1回目、今日はおむつ替えを体験していただきます。2回目はミルクのあげ方を体験していただいて、3回目は沐浴、お風呂の入らせ方です。この3点は、実際に赤ちゃんのお世話をする時に多くの親御さんが最初に苦労する基本のぉ、き、です。これを学んでから、レンタルベイビーの子育てに入っていただきます。ただ、この3回は審査の対象になるわけではありません。うまくできなくても失格になるわけではないので、むしろ、どんっどん失敗してくださいっ! 失敗から学ぶことが大事なんです」
母親の層は共感するのか、何人か「うん、うん」と頷いている。これから母親になる美羽たちは、どう反応したらいいのか分からず、微妙な表情をしていた。
「ハイハ~イ、それでは赤ちゃんに入って来てもらいましょう!」
山野辺が入り口に向かって大げさに左手を振り上げると、ドアが開いてレンタルベイビーを抱えた人達がゾロゾロと入ってきた。みなピンクの作業着を着て、ピンクのキャップをかぶっている。
「ハイ、あなたのレンタルベイビーです」
美羽にレンタルベイビーを差し出した相手を見ると、意外にも白髪交じりの初老の女性だった。その女性は無表情で、美羽の目を見ようとしない。
美羽はおっかなびっくり、レンタルベイビーを受け取った。小さな姿から想像していたよりも体重は重い。レンタルベイビーの熱が腕に伝わる。説明会で谷口が言っていたように、温かい。熱いぐらいだ。
レンタルベイビーは腕の中で目を閉じている。眠っているようだ。
「かわいい……」美羽がつぶやいた時、「あなた、左利きなの?」と初老の女性が急に尋ねた。
「え?」
「普通、右利きの人が赤ちゃんを抱っこするときは、赤ちゃんの頭が左になるように抱っこするんだけどね」
「え? え? 右じゃダメなんですか?」
「ダメってわけじゃないけど……ただ、珍しいってだけ」
「はあ」
――なんだ、この人。
美羽はイラッとした。すると、山野辺が「どちらでもいいんですよ~。自分が抱きやすいように抱いてもらえればいいですから~」とフォローした。
他のテーブルの担当者もみな初老の女性や男性で、なぜかみなニコリともしない。抱き方が分からなくて戸惑っている女性に対して、「あなた、事前に何も勉強して来なかったの?」と非難する担当者もいて、山野辺が飛んで行ってフォローしていた。
「ハイハ~イ、皆さん、受け取りましたねぇ。今回は0歳0か月の赤ちゃん、生まれて間もない赤ちゃんです。新生児と呼ばれています。まだ目は見えていないし、首もグラグラしています。一日中泣いていることもあるので、お母さんが一番大変な時期ですね。それから」
「お母さんとは限らないんじゃないですか?」
山野辺の説明を遮って、娘と一緒に来ている50代ぐらいの女性が口を挟んだ。
「ハイ?」
「お母さんが一番大変って言ってたけど、母親だけで面倒見るわけじゃないでしょ。父親も一緒に面倒見るべきじゃないですか。そうやって女性限定の言い方をするから、子育ては女性の役割だっていう風潮がいまだに蔓延ってるんですよ」
「はあ……」
山野辺は一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、「そうですね、ご夫婦で赤ちゃんのお世話をしている家庭も多いですし、大変なのは母親だけではないですね、失礼いたしました」と、すぐに訂正した。おそらく、この手のクレームには慣れているのだろう。
美羽は腕の中のレンタルベイビーをじっと観察した。時折、美羽の顔を見るが、見えているわけではないのだ。
「これから、おむつを配ります。今はレンタルベイビーはおしっこもウンチもしていない設定になっていますが、実際に体験していただく時には、臭いもしますし、おしめが湿った状態が再現されます」
気がつくと、山野辺のしゃべり方は普通のテンションになっている。あちこちに気を配らなければならないので、しゃべり方まで意識していられないのだろう。
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