第1章 レッツ、レンタルベイビー! ③こんにちは、ベイビー

 谷口の腕の中で、「あー」「うー」と言いながら、手足をバタバタしているものが見える。


 ――あれが、レンタルベイビー?

 美羽は立ち上がってよく見ようとした。


「どうぞ、席を立って見に来てください。そばでレンタルベイビーを見てみたほうがいいでしょう」


 青木の一言で、みな席を立ち、谷口のまわりに集まる。


 白い産着に包まれたレンタルベイビーは髪の毛がうっすらと生え、つぶらな瞳であちこちを見ている。「あー」「んー」と声をあげながら、小さな手をよだれでベタベタにしていた。


 ――ロボットなのに、よだれまで出るの?

 美羽は内心驚いていた。


「かわいい~」


「ちっちゃーい」


「この子、何歳ですか?」


「生まれて6か月です」


「男の子? 女の子?」


「女の子です」


「へえー、名前もあったりして」


「私は瞳って呼んでます。目がキラキラしてるんで」


「本当だ~、キラキラしてるう」


 参加者はレンタルベイビーを覗きこみながら、谷口に質問を投げかける。谷口は司会をしていた時とは打って変わって、リラックスしている。顔がほころび、母親のような表情になっている。


 レンタルベイビーは近くで見ても、人間の本物の赤ちゃんとの区別がつかないぐらい、精巧にできている。ふっくらした頬はやわらかそうで、美羽は思わず人差し指でちょんと触れてしまった。


「触らないでくださいっ」


 途端に、青木が鋭く制する。美羽は慌てて手を引っ込める。


 ――すごい。本物の肌みたいな感触だった。


「一人が触り出したら、みんなが触ろうとするから、許可なく触らないでくださいね」と、青木に睨まれる。美羽は視線を逸らせた。


「レンタル前の講習会がありますから、その時に触れますよ」と、谷口がフォローする。


「まるで本物みたいねえ」


「まつ毛まであるんだ」


「ちゃんと呼吸してるみたいに動いてるよ。すっげえリアル」


 周りを囲んだ参加者は、次々と感想を述べる。


「抱いてみると分かるんですけど、温度もあるんですよ。ちゃんと赤ちゃんの体温になってるんです」


「えー、すごすぎるう。早く抱いてみたあい」


 参加者はみんな、笑顔になっている。ただ一人を除いて。


 美羽の隣に座っていた女性は、突然「我慢できない」という様子で泣きだした。みんな、驚いて注目する。


「私、私だって、ちゃんと二人で赤ちゃんを育てたかったのに。あの人、連絡取れなくなっちゃって……私、どうしたらいいのか……」


 その後は言葉にならないらしく、泣きじゃくっていた。みんなどうすればいいのか分からず、谷口はオロオロしている。


 青木はそっと、その女性の肩に手を置いた。


「片田さんでしたね。よろしければ、場所を変えて事情をお聞かせくださいませんか。私達がお力になれると思います」


 それまでとは打って変わって、優しい声音でゆっくりと言い聞かせた。女性は頷く。


 青木が女性を連れて出ていこうとした時、「あのっ」と、小柄な女性が歩み出た。


「あの、私の友達でも、一人で産むことになった子がいるんです。レンタルベイビーの後で別れることになって……。でも、その子は今、立派にシングルマザーをやってます。産んでよかったって言ってますっ。だから、その……頑張ってくださいっ」


 その言葉に、女性は涙を流しながら、コクンと頷いた。青木と女性が部屋から出ていき、緊張感が一気に解けた。


「なんだよ、急に、あんなこと言って。どうしたの?」


 声をかけた女性に向かって、連れの男性が尋ねる。


「だって、あの人、捨てられたんでしょ? ここにも一人で来て、かわいそうだなって思ったから」


 女の子は目を潤ませている。


「まったく、ジュンは優しいんだから」


 男性は女性の頭を優しく撫でた。美羽はその光景を見て、ちょっとうらやましく思った。


「それじゃあ、おむつを替えるところをやってみますね」


 谷口が声を張り上げて、ようやく今日の目的を思い出した。


*************************************


 その日、美羽は家に帰ると、流にレンタルベイビーがいかに精巧にできているのかを興奮気味に語った。しかし、流は「へえ」「ふうん」「そうなんだ」と反応が薄い。


「それで、レンタル前の講習会は来週から受けられるから、申し込んできた」


「ふうん」


 流はビールを飲みながら、スマフォをいじっている。


 ところが、途中で泣き出した女性の話をすると、「何、その人。不倫してたわけ?」と急に興味を示した。


「まあ、たぶん、そうみたい」


「うちの会社にもいるんだよ。愛人が妊娠しちゃって、堕ろさせることもできないし、どうしようって青くなってた上司が。結局、離婚して愛人と再婚したんだけど、全然うまくいってなくて後悔してるってぼやいてた。浮気は身を滅ぼすぞって、飲み会のたびにオレらに言ってくるんだよ。でも、また別の人と浮気してるみたい。懲りない人だよね」


「ふうん」


 美羽は少しイラッとした。


 ――レンタルベイビーの話は全然興味を示さないのに、何なの、いったい。


「それでさ、この間、その上司が」


「それで、レンタルベイビーは今はすべて貸し出されてるから、早くても3カ月先になるんだって。夏ごろになるみたい」


 美羽は流の話を遮った。流は、ムッとした表情になる。


「オプションで借りられるベビーベッドとかおもちゃとか、ベビーカーも申し込みたいんだけど、いいよね? 無料だし」


「まあ、いいんじゃない」


 流は投げやりな感じで言う。


「ねえ、レンタルベイビーに全然興味ないの? それならやめる? 無理して申し込んでも意味ないし」


 美羽のキツい口調に、流は気まずそうな表情になった。


「別にそんなことはないけど……だって、オレは忙しいからあんまり手伝えないよって言ったじゃん」


「今はレンタルベイビーがいるわけじゃないんだから、手伝うも何もないじゃない。興味があるかないかって話をしてるの」


「まあ、興味はそれなりにあるけど……疲れてるから、シャワー浴びてくる」


 流は飲みかけのビールを置いて、逃げるように寝室に行ってしまった。


「なによ、あの態度」


 ――せっかく、いい気分だったのに。レンタルベイビーを早く借りたいって気持ちがしぼんじゃったじゃない。こんなんで、レンタルベイビーを借りて大丈夫なのかな。なるべく自分でやるって言っちゃったけど、流はホントに何にも手伝わない気なのかな。少しは手伝ってもらわないと仕事と両立できないんだけど……。


 美羽は不安がジワジワと広がっていくのを感じていた。


*************************************


「レンタルベイビーを借りるんだ」


 翌日、ランチの時間に同僚の香奈に報告した。香奈は同じ時期に入店して、修業がつらい時もずっと励まし合いながらやってきた美容師仲間だ。


 香奈は派手な髪型が好きで、今は胸に届く長い髪をピンクに染めている。色白で顔の堀りも深く、スタイルもいいので、まるでアニメのキャラみたいな雰囲気で、表参道を歩いているとよく「写真に撮っていいですか?」と声をかけられている。


 レンタルベイビーの報告をしたら、てっきり喜んでくれるのかと思いきや、香奈はオレンジジュースを飲みながら固まった。


「それって、お店で誰かに言った?」


 香奈は急に声を潜める。美容院の近くのカフェにランチを食べに来ていた。このカフェには美容院の関係者が食べに来ることが多いので、誰に聞かれているか分からない。


「ううん、まだ誰にも言ってないけど」


「じゃあ、言わないほうがいいよ。店長にも」


 美羽はクラブハウスサンドイッチを頬張りながら、「どうして?」と首を傾げる。


「あのね、うちらが入った時に、指導係だった先輩がいたじゃない?」


「ああ、堀先輩だっけ」


「そうそう。堀先輩、うちらの研修期間中に急にいなくなったじゃない? あれって、レンタルベイビーを借りるって店長に言ったら、急に他の店に飛ばされたんだって」


「ええっ!?」


 美羽が勤めているのは青山にある美容院で、系列店がいくつもある人気店だ。昔は「カリスマ美容師」と呼ばれる人もいたらしい。


 AIが発達しても美容師の仕事は人でしかできないので、今や美容師は人気職だ。専門学校の倍率も高くなり、美羽の店では給料は昔の3倍になっているという。


 美羽も香奈も3年ぐらいアシスタントをしてから、スタイリストになった。最近は自分を指名してくれる客も増え、給料も順調にアップしている。


「なんかね、レンタルベイビーを借りるってことは、近い将来、産休に入るってことだから、戦力外になったって話を先輩達から聞いたんだ。堀先輩は、多摩地区のお店に飛ばされたんだって」


「多摩地区……」


「それを聞いて、先輩達は子供を産む時はどうするかって、悩んでるみたい。他のお店に転職するか、独立してお店を持つか、考えといたほうがいいよって、前言われたんだ」


「えっ、でも、うちのお店は女性スタッフが多いから、産休は取りやすいって、入るときに言われたじゃない。産休取って、戻ってきた先輩もたくさんいるって」


「それはうちじゃない店の話。うちは水野店長になってから、産休は取りづらくなったみたいよ」


「えー、でも、店長も結婚してるじゃん。子供はいないみたいだけど」


「子供がいないから、産もうとする人を妬んでるんじゃないかって先輩達は言ってた」


「何それ。最低。じゃあ、レンタルベイビーを借りることを言えないんじゃ、赤ちゃん産む時はどうすればいいの?」


「うーん、やっぱ、その前に転職するか、独立するしかないんじゃない?」


「今すぐに独立なんて、ムリだよお。赤ちゃん産んだら、それこそ子育てにお金がかかるし」


「だよね。だから、転職先を探しといたほうがいいんじゃない? 普通に産休取れるお店、いっぱいあるみたいだし」


「そっかあ」


 美羽はため息をついた。


「せっかく、お客さんもついてくれたのに」


「他のお店に行くことになったら、そっちに来てくれるんじゃない? 美羽のファンは多いから、大丈夫だよ、きっと」


「そうかな」


 美羽は店長に報告する前に、香奈に話してよかったと心から思った。香奈は、見た目は派手でも慎重なタイプで、いつも美羽に的確なアドバイスをしてくれる。


「でも、転職って言っても、このお店、好きなのに……」


 美羽がアイスティーを一口飲んでつぶやくと、「じゃあ、他の系列店はどうなのか、聞いてみる? うちだけかもしれないし」と香奈は提案してくれた。


「新宿店で働いてる子は専門学校で一緒だったから、今度聞いてみるよ」


「ありがとう。助かる」


 デザートが運ばれてきたので、二人は会話を中断した。


 ――なんか、レンタルベイビーを始める前から問題が色々起きている感じ。ただ子供が欲しいってだけなのに。なんだか、全然ハッピーじゃないよね。


 カフェの窓の外には、八重桜が咲き誇っているのが見えた。もうすぐ葉桜の季節も終わり、さわやかな初夏になる。


 沈んでなんていられない。出産に向けて、一歩踏み出したばかりなのだから。


 

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