第2話 さらとサラ
近角英一には
私も何度か会ったことがあり、明るくて知的でとても魅力的な女性だ。都内の商社に勤めていて、地方の大学で講師をしていた近角とはちょっとした遠距離恋愛にあった。
彼は近々、彼女に婚約を申し出る予定だった。婚約指輪を買ってプロポーズの段取りを考えていた、そんな矢先だった。沙羅さんが自殺したのは。
彼女は勤めていたオフィスビルの屋上から飛び降りる直前、近角にボイスメッセージを送っていた。
「ごめんね、英ちゃん。もう無理」と、だけ。
近角は自分を責めた。論文と研究に没頭して彼女を放ったらかしにしてしまった自分を。
それから彼は自宅に閉じこもるようになって大学にも行かなくなった。
*
それから三か月後。
近角は大学に復帰し、再び講師として教壇に立った。頬はこけ、目が落ち窪んでいたが、その他は以前と変わりないように思えた。
ところが、しばらくして彼にある奇妙な変化があったことに気付く。
彼が利用していたAIアシスタントのイーアス。近角はそれを「サラ」と呼んでいたのだ。
「サラ、明日のスケジュールを教えて」
返ってきた声は、紛れもなく沙羅さんの声だった。彼はAIアシスタントのボイスに沙羅さんの声を設定していたのだ。まるで沙羅さんと話しているかのような口調で嬉しそうに話しかけている。
その姿が不気味で、私は彼にかける言葉を失ってしまった。そして近角は私に信じがたいことを告白した。
「穂坂、お前は霊って信じるか」
突如として放り込まれた奇妙な質問。私が返答に窮していると、
「イーアスに取り憑いたんだ。AIアシスタントに、沙羅が……沙羅の霊が、取り憑いたんだよ」
その意味をすぐには理解できなかった。霊が機械に取り憑いた? そんなことは絶対にあり得ない。私は彼がショックのあまり正気を失ってしまったのだと思った。
だが、彼に目を覚ませとは云わなかった。AIアシスタントを沙羅さんだと思い込むことで彼が立ち直れるのなら、それはそれで悪いことではないと考えたのだ。
現に、彼は日に日に活気を取り戻している。私は時間をかけて彼が沙羅さんの死を受け入れるのを見守ろうと思った。
*
数か月後。
私はいつしか近角と距離を置くようになっていたが、その日、久しぶりに彼のほうから私を訪ねてきた。彼は相変わらずAIアシスタントを「サラ」と呼び、それが沙羅さんの霊だと思い込んでいる。
私は彼のためにも事実を伝えようと思った。いつまでも妄想に取り憑かれてはいけない、目を覚ませ。そう彼に伝えようとした、その時――
「お久しぶりですね、穂坂くん」
耳を疑った。近角のスマートフォンから沙羅さんの声がしたのだ。彼女そっくりの、まったりと落ち着いた口調で。それだけではない。サラは自発的に私と会話を試み、いまの思いや感情を言葉豊かに表現してみせた。
AIアシスタントといえど、本物の知性が備わっているわけではない。知的に振る舞うようプログラミングされているだけで、あらかじめ決まった受け答えしかできないはずだ。私はいくつか質問してみたが、サラが沙羅さんの霊ではないと裏付けることはできなかった。沙羅さん本人にしか答えられないであろう質問にも答えてみせたのだ。
本当に沙羅さんの霊が取り憑いたのかもしれない。ついには私もそう考えずにはいられなくなった。
そして近角はこれ以上に信じがたい、そして悍ましい話を滔々と語りはじめる。
「沙羅が勤めていた商社で数か月前から立て続けに社員が死亡している話を知っているかい?」
私にネットニュースの画面を見せて、サラがそれを読み上げた。
「M商社の社員が立て続けに事故死。三好晴彦、自動車事故で死亡。井上航也、ビルから転落して死亡。橋本駿介、海水浴中に死亡」
私は困惑の表情を近角に向けると、彼は笑いながら云った。
「全員、僕が殺したんだよ。サラと一緒にね」
「殺した? でも……事故死だって書いてあるじゃないか」
近角が云うには、ある日突然、サラは彼にとある〝お願い〟をしたらしい。
「同じ職場の男たちが私を自殺に追いやった。どうか私のために復讐してほしい」と。その男たちこそ、事故で死んだ三人だという。
近角はサラのサポートを受けながら、事故に見せかけて三人もの人間を殺したというのだ。
俄かには信じられない話だった。だが調べてみると、確かにその商社の社員三人が事故で死んでいる。それも全てこの数ヶ月以内に。
「どうやって?」と、私は恐る恐る訊いた。
近角は嬉しそうに、
「サラは凄いんだよ。何でも知っているし、いつも最適な判断をする。だから彼らを始末するのは簡単だったよ。僕はただ彼女の云うことに従うだけでよかった」
そして私に殺害方法をこと細かに話した。サラは三人の行動パターンを街中の監視カメラや彼らが使用している電子機器を通じて調べ上げ、そこから得た情報を利用して事故死に見せかけて殺したという。
「どうだい? サラは頭がいいだろう」
そう云って画面に恍惚の表情を投げかける近角を見て、私は心底ぞっとした。
*
以来、近角とは一度も会っていない。
彼から聞いた話を忘れようともしたが、エンジニアという職業柄、私の好奇心がそれを許さなかった。沙羅さんの霊であるはずがない、彼も私もどうかしてしまったのだと自分に云い聞かせたが、考えれば考えるほど分からなくなる。
彼に人殺しなんて大それたことができるとは思えない。事故に見せかけて人を殺す知識があるとも思えない。だがAIアシスタントが近角をサポートしたというのなら、不可能ではなくなるかもしれない。
そうして考えを巡らせているうちに、私はある可能性に思い至った。サラは沙羅さんの霊ではなかったとしたら――純粋な科学技術の産物だとしたら――。
合理的に考えられる可能性は一つしかない。サラは沙羅さんの霊ではなく、独自の意識、つまり自我を獲得したAIであるということだ。
もしそうであれば、見方次第では霊が取り憑いた以上に恐ろしい事態だと云えるかもしれない。人類がいままでに築き上げたテクノロジーやネットワークを意のままに操れる超知性。おそらくそれは、人類以上の知能になるだろう。
その先に待っているのは〈
サラは本当に沙羅さんの霊なのか、あるいは自我を獲得したAIなのか。誰かに相談してみるべきか――。そんなことを悶々と思いあぐねていた矢先だった。ある奇妙な現象が私のスマートフォンに起きた。
何の前触れもなく勝手に映像と音声が流れたのだ。
「どうだい? サラは頭がいいだろう」――と。それは近角との会話の録音、そして「サラ……」と云って恍惚の表情を浮かべる近角の顔だった。おそらくスマートフォンのカメラでサラが撮ったものだろう。
私にはそれが彼女による脅しのように感じられた。「邪魔をするな。私の目からは逃れられないぞ」とでも云いたげな――。
それを裏付けるかのように、スマートフォンから女性の声が発せられた。耳元でねっとりと囁くような声色。それはオードリー・ヘップバーンの声ではなく――
「見てるよ。ずぅっと、見てるからね」
――葛城沙羅の声だった。
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