第五章 謎のロドリゲス③
結はその晩夢を見た。
宗仁の妹の部屋の床で寝ることになった結は、眠りかけたところで指輪が急に光りだしたかと思いきや、体がふわりと浮かび、だらんと空中に腕と足を下げて宙づり状態になった。
そのまま宗仁の家を出た。抵抗すべきなのだろうが、体がまったく言うことを聞かず、空中を浮遊したまま辿り着いたのは、月欠山の中腹、本当の世界で宗仁たちと秘密基地を作った場所だった。
相変わらず秘密基地はなく、どうなるのか黙って見ていると、基地があったであろう空間が、穴を開けたように歪んだ。
その中へと結と指輪は入っていった。
「そんなこと信じられるわけないだろ……」
数瞬呆気に取られていた宗仁は、そう口を開くのもやっとで、涙目になり口の中が渇きはじめていた。
「それもそうだね……」
ハムスターは両手を口の下で交わらせると、
「手っ取り早く信じてもらうにはこうするしかないかな」
宗仁の固まっていた体が右腕のみ動いた。自分の意思ではないように思われた。ハムスターが操って動かしたと思わされるには次の行動でわかった。
テーブルの上に置いた手首が開いたのだ。
痛みもなければ血も噴き出ない。宗仁は呆然とその様子に見惚れているだけだった。
開いた手首の傷口の中から何かが蠢いている。よく見るとそれはプログラミング言語と呼ばれる数字や記号、英語などの連なりだった。
あまりの出来事に、額に汗が滲み出た。恐怖の反動で体を動かしたい衝動に駆られても微動だにできず、宗仁はひたすら心のみで狼狽することしかできなかった。
「ゴメン……。そこまで君が動揺するとは思いもしなかったよ」
ハムスターが言うと、傷口は閉じられ、宗仁は思い切り息を吐いた。
テーブルの上すれすれに顔を近づけ息を喘いでいると、ハムスターはこう言った。
「君がそこまで動揺するのも、すでにコンピューターウイルスに侵されているからだろう」
宗仁は息を整えつつ、ハムスターに顔を向け、ウイルス? と反復した。
「『ソルアージュ』という名のコンピューターウイルスさ。君が過ごしていた数日間はここが二〇二〇年の皆平という町で、高校生として日常を謳歌していたのだろうが、実際は二〇七五年の世界だ。ワーブアーツやワーブウェポン、和武陀様なども、実際の二〇二〇年には存在せず、それもソルアージュというコンピューターウイルスの仕業だ」
「全部虚構だったってのか?」
「全部ソルアージュというウイルスが仕組んだことさ……。君たちは最初こそ違和感を感じていたけれど、それを当たり前のように受け入れたのも、それだけウイルスからの侵食でそういうものだと理解させられていたからなのさ……。ワーブアーツやワーブェポンという妙な言葉も、敵から日常的に使われるよう強制されたものさ。残念ながら、それらの言葉を覆すほどのわかりやすい言葉はこちらは用意できていないんだ。腹立たしいけど、そのままこちらで流用させてもらうしかないね……」
ハムスターから告げられた言葉群……。突拍子もない事柄を突き付けられたようでもあり、宗仁は理解に苦しんだ。少し様子を窺うことにすると、ハムスターはこう続けた。
「……二〇〇〇年代以前から人類はやがてやってくる危機に対応するため、どうやって生き延びられるか模索することを始めた。危機とは地球に訪れる氷河期だ。歴史上、氷河期は何度か訪れ、二〇三〇年という時期がちょうどその周期に当たる。二〇三〇年に訪れた氷河期によって、多くの人々が食糧難に遭い、新たな病原菌の出現や、食糧などの奪い合いから発展した戦争とともに、やがて人類は滅亡しかけた。全人類を助けることは困難だったが、世界でも有数の資産家や、科学者、有識者が集まり研究、実験を行ってきた、仮想空間へと人々の記憶を移すという実験が成功し、研究者と選ばれし数千万人の人類の生き残りが、厚さ幅ともに数ミリほどの中に作られた地球とほぼ同じ大きさの仮想現実空間へと避難されることになった」
都市伝説の類のテレビ番組か、と宗仁は一瞬考えた。ハムスターの話す内容はひどく現実離れしていたが、ここが夢か幻の世界であることは指輪も言っていた。
いや、そもそも、喋る指輪やワーブェポンという武器、そしてソルアージュの手先などが、その非現実的な力でもって自分たちを攻撃してきたこと自体、あり得ないことであり、ここが仮想現実空間であることの事実を証明しているのではないか……。
そう思っているとハムスターは、話し途中で感嘆した。
「へえ。少し受け入れられるようになったみたいだね」
「まさか……心を読めるのか?」
「ボクはシステムを通して君と接しているから、心というものも君を形作るシステムから生まれ、君の思考もこことは異なる『管理室』という場所にある端末に送信されてくる」
「それじゃあこちらの腹積もりも全てお見通しってことか」
寸陰、宗仁の頭の中を、これまでの記憶が駆け巡った。
「俺はまだ全てを受け入れたわけじゃないけどな……」
「続きを話すよ」
そしてハムスターはこの世界の実情を再び語り始めた。
「君たちはある人物の作り出した、ジェネオスというAIであるというのはさっきも話したけど、君たちが思春期に過ごした、二〇二〇年の世界で認知されていたAIとは異なる。ジェネオスというAIは、行動や思考に制限のあった当時の人工知能とは違い、ほぼ人間に近い思考と行動力を持つ新世代のもの。君たちはその初期型であり現行機だ。脳の記憶をデータ化し、そのままこの別世界へと移行させる計画が、数十年前から実施されてきたんだよ。それがワーブダイ社が起こしたプロジェクト『ワーブダイ計画』だ」
ワーブダイ計画……、宗仁はその言葉を繰り返し、
「異世界の名称じゃなかったか……?」
「この世界そのものが異世界ってことさ。ワーブダイという名称は実在するが、それを異世界という世界観や、異界の民といった解釈にしたのはソルアージュを送り込んできたテロ組織、『レドムゾン』側の解釈だ」
「レドムゾン……。なんかさっきから妙な固有名詞ばかりで困惑してんだが……」
「無理もない」ハムスターは両の前足を軽く上下させた。肩を竦めているジェスチャーにも見える。
「それだけ、レドムゾンの作ったソルアージュの侵攻が著しくなってきているという証拠でもある。レドムゾンという組織は、元々は武器商人だった。中東で暴威を振るっていたテロ組織と氷河期に入ってから手を組み、世界を恐怖たらしめた……。人の体を捨て、電子の世界で寿命を伸ばすというのは彼らには宗教的に受け入れ難かったみたいなんだ」
宗仁は気づくと、ハムスターのテーブルの上にカップが置かれているのを発見した。コーヒーか何かが注がれたカップをハムスターは手に取り、一口すすって置くと、
「この仮想世界の構造は三層に分類されていてね。最下層がこの皆平市を含めた広大な居住空間。その上にあるのが監視者と呼ばれるAIのいる第二層、ユイはそこからやってきた。ムネト、コウジ、リオと言う名のウイルスバスターシステムを作り上げてね。ユイ自身もAIであることから、君たちを仲間として認識していた。そして監視者と居住空間全てを管理する、ボクこと管理者のいる層が第三層目ということになる。ワーブダイ社がこの世界を作り、皆平市と同時に存在するいくつもの世界がシームレスに繋がり、巨大なコミュニティ空間が維持されている……」
お喋りなハムスターの話しは延々と続けられるかに思われた。宗仁はわずかな苛立ちを覚えると、ハムスターはそれを察したのか、
「……まあ大方の実情は今話した内容だ。君たちが本来倒すのはナスネーガという私の名をもじった架空の魔王ではなく、人類が新たな人生を歩むために作り出されたこの空間を貪ろうとするソルアージュという名の存在……コンピューターウイルスさ。すでに現実世界では、レドムゾンの本拠地は壊滅させられ、あとは暴走したソルアージュを倒すことが目的とされている。こいつがどれだけ危険かは君も見たはずだ。幹部として襲わせたのもそうだけど、ここの住民を操り、捕まえようとさせたこと自体が危険なんだ」
確かにそうだ……、宗仁は心を覗かれていることを知っていても、胸奥で頷いた。
この街の多くの住民を操れる。そして自分が一人の住人としてこの街で暮らしていたという経緯にしてみても、本来倒すはずの相手から逆にハッキングされたというのが、ソルアージュの恐ろしさを物語っている。
宗仁はそう思いつつも、ハムスターの言う真実をみなまで受け入れるにはまだ早かった。
「なかなか信じがたい話だな……」
「いやあ、もはや信じる外ないと思うんだけどなあ……」
一向にハムスターの言うことを完全に信じようとしない宗仁にハムスターもしびれを切らしているようだった。
「あんたが管理者なら、俺たちだって操るのは簡単なはずだろう?」
「ボクだって、生身の人間に作られたシステムだからね。ユイだって君たち三人を作るためのプログラムを人間から打ち込まれ、ただその役目を果たそうとしているだけにすぎない。私から君たちへ直接強制的な指示や、プログラムを打ち込むことは無理なんだ。私がこうして会いに来たのも人間によってプログラムを制御されたからだ」
「少し時間をくれないか……。どうしても信じるのが難しいんだ」
「君たちウイルスバスターに考える機能を加えたのは、失敗というかもしれないね、人間であれば……。でもそれも愛嬌かなあ。人間も全てが冷酷じゃないし。この町の人々は何も事実を知らないまま日常を謳歌している……。日常の謳歌と言っても、すでに避難するための準備として、彼らのデータ化された記憶は複製され、バックアップも実施された。その後、君たちは潜入した。ソルアージュに疑念を抱かれないように、未成年者としてね。しかし、君たちジェネオスという新しいAIに自己修復機能や、思考力があることは見越していなかったようだ。先んじてか、後手に回っていたのかまではわからない。恐らくソルアージュさえも予測できなかったのは宗仁くん、君の起こした行動さ。つまり、ユイというAIに対して、愛の告白をしたことだ……」
それを聞き、宗仁の脳内は余計に混乱した。
「あんた……何でそんなこと言うんだよ……」
「何か不満でも?」ハムスターは意に介さずと言った風に頭を傾げた。
そして理解したのか、そうか、と呟くと、
「君が事実を受け入れられない理由は、ユイへの思いとユイ自身の思いを大事にしているからか……」
「決まってんだろっ!」
宗仁はテーブルに手を叩きつけると、足早に店を出ていった。
夕刻の淡い色彩も漆黒の闇夜に変わろうとしていた。
ネオンが点き始めた町の中を、雑踏を縫うように歩きながら宗仁は未だに結論を出せずにいた。
――どうやったら受け入れられるんだ……。
途中、見知らぬ婦人と肩がぶつかった。婦人は立ち止まり宗仁を睨んだ。
すみません、と笑顔を作り会釈すると、そうした反応を望んでいたのか、婦人は微笑みを返し、歩いていった。
――この人たちが全員、デジタルの中で暮らし、そのことに気づいていない……。そして自分たちの体が作り出されたという事実すら知らない……。
町の喧騒が渦を巻いて宗仁の耳の奥にねじ込まれていくようだった。人の声、車のエンジン音、電車がレールの上を進む音……。
宗仁は耳を塞いでその場から走り出した。
あてもなく走り続けたその先には堤防があった。
薄く濁った大きな川の底に目を向けながら、結の顔や、あの風呂場でのやり取りと、ネックレスのことなどを思い出していた。
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