第2話 人生、谷底に突き落とされることってあるんですね……
ヴァルトルーデは、片田舎に小さな領地を持つベルネット子爵家の五男四女の末娘として生まれた。幼少の頃は大変かわいらしく、長じるにつれその美しさは見る者を圧倒するほどになる。
しかし、ヴァルトルーデが噂になることはなかった。貧乏貴族であるベルネット家と進んで付き合おうとする貴族がいなかったからである。また、片田舎ということもあって人の往来が少なかったというのも原因のひとつだ。
噂になることはなかったヴァルトルーデだが、性根の良さから出会う人の誰からも好かれる。特に家族以外だと修道院のクラーラ院長が自分の孫のようにかわいがってくれた。更に、満足に家庭教師を雇えない一家に代わって、ヴァルトルーデに貴族子女としての礼儀作法や嗜みを教えてくれた。
このように、幼少期のヴァルトルーデは貧しいながらも幸せな日々を送っていた。
そんな生活に最初の変化が訪れたのは、ヴァルトルーデが十歳の頃だった。
あるとき、孤児院へ向かおうと修道院の脇を通り抜けようとしたら、初めて見る立派な馬車が止まっていた。珍しそうに見ていると、そこへちょうどクラーラ院長がやって来る。
「ヴァルテ、待っていましたよ。実は会わせたい方がいらっしゃったのです」
「クラーラ院長、どのような方なのですか?」
「わたくしの親類です。どちらも良い子ですよ」
クラーラ院長に案内された客間には、二人の兄妹が座っていた。どちらも
「こちらの男の子がテオフィル、女の子がクリスティアーネです。二人とも、こちらはベルネット子爵家のヴァルトルーデです」
「初めまして、ヴァルトルーデ・ベルネットです」
「テオフィルです。故あって家名を名乗れなくて申し訳ないです」
「クリスティアーネです。今日からこの修道院で暮らすことになりました」
自己紹介してわかったことは、名前だけしか名乗れないということとクリスティアーネが修道院で生活するということだけだ。あと、テオフィルがずっとこちらを見つめている。色々と裏のありそうな二人だったが、ヴァルトルーデにとっては友達が増えたということだけが重要だった。
出会った三人はすぐに仲良くなった。テオフィルは年に一回しか修道院に来ることができなかったが、一緒にいる間はずっと遊ぶ。また、普段はヴァルトルーデが孤児達と一緒にクリスティアーネを誘った。逆に、勉強するときはクリスティアーネが積極的だ。
「ヴァルテ姉様! さぁ、今から礼儀作法のお時間ですよ」
「私、苦手なのよね」
「大丈夫です。わたくしが手取り足取り教えて差し上げますわ」
「ちょっとクリス近いです」
「ヴァルテ姉様との距離に近すぎるなんてことはありません!」
クリスティアーネは、ひとつ年上のヴァルトルーデをすっかり姉のように慕っていた。二人の距離感にはいささか相違があるものの、どちらも楽しそうである。
そんな二人に転機が訪れた。二年後、クリスティアーネが修道院から去るときがやって来たのだ。
「テオ兄様、ヴァルテ姉様と別れたくないです!」
「クリス、別れが辛いのはよくわかる。しかし、我慢してくれ」
迎えに来たテオが慰めるが、クリスティアーネはぐずつくばかりだ。
「本当の姉妹だったら良かったのにね」
ヴァルトルーデも思わず涙を浮かべてクリスティアーネに同調する。その言葉を聞いた周囲の人々は二人の仲の良さに感動しが、ひとりクリスティアーネだけは違った。
「そうだわ、本当のお姉様になってしまえばいいのよ!」
突然、はじかれたようにクリスティアーネが声を上げる。
「テオ兄様とヴァルテ姉様が結婚なさればいいじゃない!」
固まる周囲をよそにクリスティアーネはヴァルトルーデとテオフィルに迫る。
「ねぇ、ヴァルテ姉様! テオ兄様と結婚なされば、私達本当の姉妹になれますわよ!」
厳密には義理である。しかし、完全にクリスティアーネの勢いに飲まれていたヴァルトルーデ達はどうしたものかと動けずにいた。
「クリス、ヴァルテを困らせてはいけまんよ」
「えーでも」
最初に立ち直ったクラーラ院長がやんわりと忠告してくれたが、珍しくクリスティアーネは承知しない。何がそんなに駆り立てているのかわからないが、悲しそうにヴァルトルーデとテオフィルを見つめてくる。
「それでは、口頭のみでご婚約を交わすのはどうかな、クリス」
テオフィルがクリスティアーネに問うてみた。
口頭のみ。本来ならば家同士がきちんと誓約を交わして成立するものだが、家名を明かせないテオにはできない相談だ。そのため、庶民と同じ方式を提案してみた。
ごねるクリスティアーネを納得させるのに良い案だとヴァルトルーデも思った。
「私もそれで良ければ構いません」
「すばらしいですわ! それでは、クラーラ院長に立会人をお願いしましょう!」
積極的なクリスティアーネがクラーラ院長にせがむ。若干引きつった顔をヴァルトルーデとテオフィルに向けたが、どちらもうなずくとため息をついて承知した。
ヴァルトルーデは初めて口頭のみの婚約の儀式というものをやった。概要だけ話すと、男女双方が相手への愛を宣言し、それを神に仕える司祭が承認するというものだ。
そして非公式とはいえ、これでヴァルトルーデとテオフィルは婚約したことになる。
ようやく納得したクリスティアーネは大喜びでヴァルトルーデに抱きついた。苦笑いしながらもヴァルトルーデはその頭を撫でてやる。
「ヴァルテ姉様! 嬉しいです! これでわたくしとお姉様は本当の姉妹になりました!」
その笑顔は本当に天使のようだ。ここまで喜んでくれるのならば、やった甲斐があるとヴァルトルーデは思う。
いよいよ迎えの馬車にクリスティアーネとテオフィルが乗り込むときは、修道院と孤児院総出で送り出した。世話をしてくれた修道女はもちろん、さんざん一緒に遊んだ孤児達との別れはやはりつらいらしく、クリスティアーネは泣きそうになっていた。
「皆さん、お世話になりました。本当に楽しかったです!」
最後に俺達に向かって一礼すると、クリスティアーネ達は馬車に乗り込んだ。御者が扉を閉めて馬車を動かす。そうして、クリスティアーネ達は修道院を去って行った。
十三歳になると、ヴァルトルーデは王都にある王立学院へと入学した。
「うわぁ、ここが王都」
ヴァルトルーデは初めて見る大都市に目を見開く。
村と言って差し支えない実家周辺とはすべてが異なる。石で舗装された道、切り取った岩で築かれた防壁、整備された町並み、頻繁に往来する人々など、牧歌的な田舎とは何もかもが違った。
「お嬢様、お引っ越しの準備は終わりましたよ」
使用人のアルマが声をかけてくる。
王立学院の寮に貴族の子弟子女が入学するとなると、必ず従者や使用人がついてくる。アルマは入学二ヵ月前から雇われた使用人だ。商家の三女で今年十五歳になるらしい。たまに、ソウジキ、ネットなど聞き慣れない言葉を発する以外は、よく働いてくれる。
期待に胸を膨らませながらヴァルトルーデは入学したわけだが、当初から注目の的となる。何しろ幼い頃から美しかった少女が傷ひとつなく成長し、田舎出身にもかかわらず礼儀作法は万全、更に人当たりも良いとなると男女から人気が出て当然だろう。
問題があるとすればふたつ。ひとつは実家が貧しいことだ。人気者になったのは良いものの、お付き合いには金銭がかかる。これを捻出するのがベルネット家には苦しかった。もうひとつは、子爵令嬢という地位以上に人気が出てしまったことである。
特に貴族の子弟からの人気は大変なもので、呼ばれてもいないのに毎日何人もの子弟がヴァルトルーデに会いに来た。更には恋人になってほしいと告白する者も続出する。
「今はまだ、誰かとお付き合いすることは考えておりません。学ぶべきことがたくさんあるので」
入学して間もないヴァルトルーデは同性の友人を何よりも求めていた。交流の少ない田舎出身なので、そもそも友人がほとんどいなかったからだ。そのため、告白を片っ端から断っていくことになる。
しかし、それでもめげない者達も一部いた。レーラー侯爵家の三男であるアルベルト、フリック伯爵家の次男のカミル、キルヒナー子爵家の三男のパウルである。
大抵の子弟は一度断ると諦めてくれるが、この三人だけはかなりしつこい。
「やぁ、ヴァルトルーデ。今日も本当に美しいね。美の女神が降臨したようだ」
教室を移動中にアルベルトと鉢合わせると、開口一番に歯の浮くような美辞麗句を並べ立てられる。一度この言葉を聞いたことのあるアルマは、思わず殴りたくなったそうだ。
「今日こそ、俺と一緒にお茶でもどうだろう。話したいことがたくさんあるんだよ」
「申し訳ありません。この後にまだ授業があるので」
何度断っても言葉を並べて誘い続ける。美男子であるのでヴァルトルーデの最初の印象は悪くなかったのだが、それに鼻をかけた態度も相まって今では見るのも嫌になっていた。
「や、やぁ、ヴァルトルーデ。偶然だね」
教室で授業が始まるのを待っているとカミルが声をかけてくる。同じ授業を選択しているのだから偶然も何もない。狙ってやって来ているのを誤魔化しているだけだ。
「新しいお茶が手に入ったのですが、一緒にどうですか?」
「いえ、お気遣いだけで結構です」
カミルは断られる度に横から後ろからじっと見つめてきた。太っているせいか、座っていても汗ばんでいる。
アルマに言わせると、カミルはむっつりストーカーらしい。ヴァルトルーデには何を言っているのかわからなかった。
「ごきげんよう、ヴァルトルーデ!」
宿舎に戻る途中で今度は短髪の暑苦しいパウルと出会う。
「今日は美味しいお菓子を用意したので、俺の部屋まで来てくれ」
「いえ、これから小用があるので」
「まぁそう遠慮せずに」
この子弟は、毎回ヴァルトルーデの意見などろくに聞かずに強引に自分の意見を押し通そうとする。以前に腕を掴まれてしまって恐怖したこともあった。悪い意味で積極的だ。
このように、この三人だけはなかなか諦めてくれない。最初はモテていたヴァルトルーデに嫉妬していた子女達の中にも、同情する者が増えてきた。
そんな矢先、ついに業を煮やしたあの三人が実力行使をしてしまう。
夕刻、たまたまアルマと二人で寮に戻る帰途で、人気のない場所に差しかかると三人の子弟に行く手を阻まれた。
危険を感じ取ったアルマがヴァルトルーデを背にする。男三人に女二人では分が悪い。
「はぁい、ご機嫌麗しゅう」
中央のアルベルトがいやらしい笑みを浮かべて近づいてくる。
「し、子爵令嬢の分際で、よくも僕を無視し続けてくれたな! 太っているからってバカにして!」
カミルが太っていることは認識していたが、別に馬鹿にはしていなかった。アルマも興味の対象外だったので特に何とも思っていない。カミルの被害妄想である。
「今日は俺達三人で誘いに来たんだ。もちろん、拒否なんてさせないよ」
いつもは爽やかな笑みを演出していたパウルだったが、今は小馬鹿にしたような酷薄な笑みを浮かべている。
「いくら格上の貴族様のご子弟でも、お嬢様に無礼でしょう!」
「うるせぇよ。使用人の分際で」
余程腹に据えかねたのか、アルベルトの言葉遣いがチンピラ並に悪くなる。
「おい、お前はジャマだ」
アルベルトが前に出てきて、アルマを掴もうと手を伸ばしてきた。
ここで意外なことが起きる。
無防備に伸ばされてきた左手の袖を右手で、左手で相手の胸元の襟をアルマが掴む。驚いたアルベルトの表情を無視して左足を一歩前に出したかと思うと、くるりと半回転しながら腰を屈めて相手に背中を密着させ、そのまま体を捻りながら一気に膝を伸ばした。
まさか反撃されると思わなかったアルベルトは、一瞬できれいに投げ飛ばされ、地面に叩き付けられた。
「かはっ!?」
受け身など知らないアルベルトは、何が起きたかもわからないまま背中に衝撃を受けて身悶える。
見事な背負投げである。え、背負投げ?
「お嬢様!」
きれいにひとりを撃退したアルマは、そのままヴァルトルーデの手を引っ張ってその場から走り出す。残る子弟二人は、仲間とヴァルトルーデを見比べるまま動けないでいた。
振り向きもせず二人はそのまま一気に寮に駆け込み、自室へと入り込んだ。山野を駆け回っていたおかげでヴァルトルーデの息はそれほど乱れていない。
「驚いた。アルマってあんなことができたのね」
「え? いやぁ、あははは」
笑ってごまかそうとするアルマ。説明しづらそうである。そりゃしづらいだろう。
これにて一件落着、というわけにはいかなかった。
何とヴァルトルーデが使用人と共に、貴族の子弟を闇討ちしたという話が翌日から出回ったのだ。
二人は学長室へと呼び出されてしまう。そこには先日の三人がいた。
「こいつだ! こいつらが俺を後ろから襲ったんだ!」
叫んだのはアルマに投げ飛ばされたアルベルトだ。整った顔を醜く歪ませてわめく。
「自分達から襲ってきたくせに嘘をつくなんて、卑劣な!」
「お前のような使用人の戯言など、誰が信用するか!」
アルマと貴族の子弟三人が言い争うものの、当事者の証言でしか事件を推測できないとなると、貧乏子爵家では相手が悪すぎた。
「ヴァルトルーデ嬢、その使用人を処罰するか、退学するか、どちらを選ぶかね?」
最終的に学長が提示した選択肢は、ヴァルトルーデとアルマを断罪するものだった。
その言葉を聞いたとき、ヴァルトルーデの中で何かの糸がぷっつりと切れた。ここまでされて王立学院に残る意義が見いだせなくなったのだ。
「退学を選びます」
「お嬢様!」
アルマが驚く中、すっかり肩を落としたヴァルトルーデは呟くように返答した。
こうしてヴァルトルーデは、半年もせず王立学院から失意のうちに去ることになった。
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