鏡現戍狩(きょうげんじゅしゅ)

橘紫綺

序章

 江戸を模して造られた、北の江戸と謳われる『大宮おおみや』の一角。

 朝靄が立ち込める早朝。

 女はいつものように境内を掃除するためにやって来た。

 年の頃は四十程の地味な女。

 煤けた手ぬぐいを頭に巻き、破れては縫い合わせることを繰り返した、元は紺色の着物に草履。あかぎれた手には使い古した水桶を持ち、毎日の始まりの仕事をしにやって来た。

 別に誰に頼まれたものでもない。単に女の母親が、そのまた母親に連れられて教えられて来たように、教えられたことを律儀に守ってやっているだけだった。

漂元ひょうげん神社』。

 小さい頃に名前の由来や、小さな社に収められている御神体について聞かされたこともあるが、今となっては何だったのか覚えてもいない。

 不信心だと、母に怒られるだろう。

 だが、今更何だったのかと訊ねるわけにもいかない。

 訊ねた時点で忘れていたことが知られてしまう。

 だから女は尋ねることをしない。常の日常として当たり前のように掃除に来るのだ。

 何が収められているのかは忘れてしまったが、感謝の気持ちは今も昔も変わらずにある。

 とりあえず、住む家もあり、ひもじい思いをしない程度に食事も摂る事が出来、着物もあって身売りをせずにいられるのは、この御社様が眼に掛けてくれているからだと思っている。

 だからこそ、自分以外にも掃除をしている人がいるのだろうかと、ふと思うこともある。

 自分がそう思っているのだから、他の人も同じに考えて同じことをしていてもおかしくないと思ったのだ。

 これだけの人が住む町だ。お供え物もあるのだから誰かが掃除もしているだろう。

 自分が掃除を止めたところで、この御社にしてみれば何の不都合もないのかもしれない。

 きっとそうかもしれない。

とは思うものの、女は実際、自分と同じように掃除をする人を見かけたことがなかった。

 一体いつ掃除に来たり、お供え物をあげたりしているのだろう?

 鳥居を抜けて、監視するように朝靄の中に佇む対になっている狛犬の掃除をする。

 屋根のない雨ざらしの場所で、毎日毎日行き来する人間達を見て、一体何を思っているのだろうと考える。

「おはようございます」

 一言声を掛けて掘り込まれた石の隅々まで綺麗に丹念に拭いて行く。

 二体の狛犬を拭き終わると、均された道を社まで歩く。その途中に雑草が生えているのを見つけては抜くことを忘れない。

 全てがただの自己満足だ。誰に感謝されるものでもない。

 だが、それこそが女の誇れることだった。誰かに褒められるためにやっているのではないのだ。

 社の前に立ち、二度拍手を打つ。

 ろくにお供え物もないことを謝り、その上で厚かましくも今日一日が何事もなく終わることを祈る。

 静寂の中。女だけがそこにいた。

 誰もいない早朝だからこそ、神様に願いが届くような気がしてならなかった。

 勿論それはただの錯覚に過ぎないことも、分かっている。

 それでも女は早朝やって来て、掃除をして祈るのだ。

 ゆっくりと眼を開けて、再び拍手を二度。

 その頃になると、朝靄は完全に晴れていた。

 社を取り囲むように木々が生え、躑躅の低木が今まさに咲こうとしている蕾を朝露に濡れた葉で支えている。朝露が朝の光を反射させ、きらきらと一面を輝かせたなら、女はそれだけで満足してしまうのだった。

「さぁて、今日も一日頑張るかねぇ……」

 踵を返し、鳥居に向かって一歩を踏み出す。

 そのとき、視界の端にとてつもなく奇妙な物が入ったような気がして、女は次の一歩を踏み出せずに止まった。

 今のは何だったのか?

 不意に心臓の鼓動が早まった。

 きっと眼の錯覚に違いない。

 落ち着こう、落ち着こうとし、尚更呼吸が浅くなる。

 頭の端では、が何なのか理解している。だが、それを認めてしまうには、女の心は強くはなかった。

 いやいや。それはない。きっと気のせい。あるはずがない。見てはいけない!

 自分の感情とは裏腹に、奇妙な物を確かめたいと言わんばかりに、体が勝手にそちらを向けば、女はを見てしまった。

 緑の低木から飛び出している太くて長い枝を……。

 いや、干乾びてかさかさになった人間の足を!

 女は短く息を吸った。

 頭の中では、気のせいだから。そんなことはないから。足のわけがないと必死に言い聞かせている。

 あれはただの古木。誰かが悪戯でそこに置いただけ。

 そうよ。きっとそうよ。まさかこんな、自分の身にこんな恐ろしいことが起こるわけがないもの。私には何も関係ない。

 そう思いながら、女は眼を見開いて、筋張り、古木のような色に変色してしまった足を脳裏に焼き付けてしまった。干乾びきっていながらもしっかりと付いている五本の指が、まるで別な生き物の手のように思えて―

 次の瞬間、女の絶叫が境内を振るわせた。

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