【第一部】第四章「会話」



 なんかよく分からないけれど、奇跡ってあるのだろうか。翌朝の九時。休日だったので、俺は飲み過ぎたお酒の影響で、軋むような痛みを訴える頭を抱えながら、スマートフォンのディスプレイを点灯させた。すると「あけちゃん」から一通の連絡が入っていた。




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昨日は楽しかったです。食事も美味しくて、いいお店でしたね。


ただ、ちょっと騒がしかったので、ふたりで改めてお会いしませんか?


御迷惑で無ければなんですが……。




byあけちゃん(朱本 蛍)


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 二度見して、その文面が間違いでないことに気が付いた。少し身体が汗臭かった。そして昨晩はシャワーを浴びてないことに気が付き、身体を洗ってから、もう一度メッセンジャーの内容を確認してみた。しかし、内容は全く変わっていなかった。俺は恐ろしく上がる脈拍に、少し違和感を覚えていた。こんなことはあるとしたら、人生で一度あるかないかだ。いや、無いに等しい。でも……断る理由がない。


 そして、ぶつぶつ言いながらスマートフォンを持って、自室をうろうろしていたら、小指を本棚の角ぶつけてしまった。そして悶えている自分がいたのだった。ちょっと良くわからない。こういうときどうしたらよいのか。


 女性と接するテクニックが欲しいと切実に思った。




**


 「え?デート?食事?お前に?」


 「……そうなんだよ」


 「そうかぁ、まさかとは思ったけどなぁ」


 健に電話をした。こいつなら、彼女もいるし、女性との接し方も熟知していると思ったからだ。彼は俺に対し、喜んでいるのか、馬鹿にしているのかよく分からないこと態度で話していた。


 「まぁ、まずは友達として、適当にファミレスかなんかで、落ち合ったらどうだ?相手に気があるんならあってくれると思うし。俺はあんまりガツガツ行くのお勧めしないけどな。だって、『のその魅力』に少なからず感じるものがあったんだろうしさ」


 「……分かった」




**


 俺は連絡を取り、少しラフな格好で行くことにした。頭では「女友達に会うだけだ」と言い聞かせつつ。コンパの席で痛烈に対応された彼女に、もう一度会うことに対しての緊張感を覚えていた。あのときの会話の内容が良くなかったのだろうか。しかし、俺も何とも言えないからなぁ。もう少し話題性を磨いた方がいいかも。そんなことを思い巡らしていると、ブランド物のバッグや時計でに身を固めたあけちゃんが、静かに俺の前に現れた。


 「……お待たせしました」


 「きょ、今日はありがとう」


 「いえ、こちらこそ」


 あけちゃんと俺はペースや歩調が合うのでとても楽しかった。健や真雪と話していると焦らされる感じがあるからだ。少し自己紹介をして、食事を取りながらお互いの趣味や通っている大学の話をしていた。




 「あけちゃんって、……パスタが好きなんだね」


 「うん。ハーブの入ってるものとか。特にね」


 洋食チェーン店のファミレスで、ジェノベーゼソースの入ったパスタを美味しそうに食べているあけちゃん。髪をかき上げる仕草がとても愛らしかった。付け合わせはハーブティーで、スイーツにはモンブランケーキを頼んでいた。容姿が良く、頼むものもお洒落だった。普段から「お洒落に決めている感じ」がとてもしていたのだが、会話の端々に自信のなさや、隠したがるような雰囲気のあるミステリアスな女性だと改めて思った。会話はするのだが、核心に至る質問がいつも空振りして、いたずらに時間が過ぎていった。先日、美紅ちゃんが言っていた「竜之介くんに会いたいって言ってたよ」という言葉。それから今回の食事の一件。冴えない俺に対し、突然と思える甘い話だったからだ。




 「私、絵画を見るのが好きなんです。ゴッホが好きで『赤いブドウ畑』や『ひまわり』が好きなんです。あの独特の油絵のタッチが好きなんです」


 「へー、こ、こんど……見に行けたらいいね」


 「行きましょうよ!」


 「へ?」


 あけちゃんは俺の手を取って、熱心に話していた。俺はあまり絵画は興味なかったのだけれど、あけちゃんがせっかく誘ってくれたし。そう思って承諾したのだった。そして、壁の時計を見ると針は四時を過ぎていた。


 「あ、長居し過ぎましたね。行きましょうか」


 「ちょ、ちょっと待って……どうして俺にこんなに声を掛けてくれるの?」


 「話さなければいけない内容でしょうか?」


 俺はそれ以上聞くことができなかった。




**


 そして帰宅。夜になって、また俺は健と電話をしていた。


 「で?お前、今日の感触はどうだったの?」


 「あー、……なんとも言えません」


 「やっぱなぁ、お前は俺の予想を裏切らないわ」


 「いや、デートに誘われた」


 「へ?へ?あの口下手な『のそ』が?どんな高等なテクニックを使ったんだ?」


 健は明らかに、俺のことを馬鹿にしていた。コイツ……と思ったが、なにも言わずに俺は、話を進めた。


 「そ、そんなことはいいんだけど、今度……ゴッホの絵画展に行くんだよ。どんな服装でいったらいい?」


 「……そうだなぁ。取りあえず、お前の好きな『絵の具模様の服』あれだけは、センスないからやめとけ」


 「へ?」






**


 梅雨の時期が明けたのだろう。外はすっかりと雨が上がり、快晴の空に蒸し暑いむわっとした空気が身体を覆った。あけちゃんの話によると、学園都市である、鏑木市の近くの大学には芸術大学があるらしく、そこで夏の期間、ゴッホの絵画展があるらしい。俺はインテリジェンスの印象を引き立たせるため、普段かけている眼鏡を丸眼鏡にし、季節が夏ではあったものの、銀縁のダーク基調の時計。それから、チェックを基調とした黒系のコーデで身を固めた。サンダルを履きたくなるような暑さではあったが、通気性のいい革靴をチョイスした。健が「このようにしろ」との指示だった。普段着のセンスが壊滅的に悪い俺を、健から改めて知らされて、ショックはまだ抜けていなかった。


 健はいろいろ言っていたものの、流石にモテるだけのことはあり、間違いではなかった。俺は、詳しくは言えないが、趣味でやっている「資産運用」でそこそこ貯蓄がある。このことは友人に知られると大変なので、隠しているのだ。「実家に送金している分」を抜いたとしても、生活はアルバイトを重ねるほど困っていなかった。だから、今回も服を買っても痛手にならなかったのだ。




**


 鏑木芸術大学。一階のラウンジが今回の会場であったのだが、吹き抜けの白壁に、光の差し込む丸窓が印象的だった。建築デザイン科が、この大学にはあるわけだが、俺は、センスの良さや空間遣いがとても好感触に感じられた。


壁に飾られた絵画を俺とあけちゃんは見つつ、俺は、あけちゃんからの得意げな絵画の説明を聞いていた。


 「あ、これです。1888年に描かれた、『赤いブドウ畑』。ゴッホは貧しかったんですが、自殺してから一気に絵画の値段が上がったんですよね」


 「そ、そうなんだ。で、あけちゃんは……どうしてゴッホが好きなの?」


 「この人、自分と生き方が似てる気がするんです。最期は孤独に死んで、絵の具を飲んでも死ぬことができなかったそうです。1890年7月に描かれた『ドーヒニーの庭』は亡くなる直後に描かれていました。『カラスの群れ飛ぶ麦畑』は、空の模様が黒くて、彼の孤独感をよく表していますよね」


死んで名を残す、作家か。芥川龍之介や、様々な著名人もそうだった。俺の親父も、結局殉職者だったけれど、今もなお、惜しまれる存在として、警察署の中で何人も慕う人がいた。家族の中でもそうだった。




 絵画を見てこれも悪くないな。と溜め息を吐きつつ、俺はあけちゃんとの時間をゆっくりと楽しんでいた。昼過ぎに少し空腹を覚えた。近くのカフェラウンジで少し昼食を摂ることにした。




**


 俺が大学の内設のコンビニに、コーヒーと菓子パンを買いに行こうとすると、あけちゃんは恥ずかしそうに手作りのサンドイッチのランチボックスを二つバッグから取り出した。俺は思わずびっくりしてしまった。具材は卵サンドとハムやキュウリの入ったものだった。胡椒やからしがよく効いていた。とっても美味しい。


 「……うまい」


 俺は幸せだった。気立てがよく、見た目も良く。お洒落で知性に溢れた彼女が何故、俺を慕ってくれているのか?そんなことはすっかりどうでもよくなっていた。あけちゃんはバッグから、もう一つ大きな包み紙を取り出した。香ばしくて甘い香りがした。


 「温め直したので、ちょっと作りたてとは違いますが……」


 あけちゃんが持っていたはアップルパイだった。金色に輝くパイ生地。艶出しのために何かを塗っているのだろうか。リンゴの焼けた甘い甘い香りが鼻腔をくすぐった。そして隠し味に練り込まれたメイプルシロップの香りが俺を誘惑してきた。パイ生地にも丁寧に切り込みが入れられていて、一口大に離れるように、丁寧な配慮がされていた。


あけちゃんは、果物ナイフでそのアップルパイを切り分けて、持っていたティッシュを二枚ほど重ねるとテーブルに敷いて、アップルパイを載せてくれた。俺はそのアップルパイを受け取ると、口いっぱいに頬張った。とってもうまかった。




 「……うまい。ホ、ホントにうまいよ。びっくりした」


 「ホントですか?!これは、普通のレシピよりも少し生地を薄めに引き伸ばしたんです。そして、少しメイプルシロップを生地に練り込んでみたり、表面はキャラメリーゼで艶出しをして、オーブンで時間をかけて焼きました。お口にあったようで良かったです」


 「だ、誰かに教わったの?」


 「母です……。母は料理が得意なんです」


そう言う、あけちゃんの顔には影が差していた。俺は少し気になったけれど、触れないことにした。いや、触れられなかったのだ。




**


 それから、少し二人で絵画を見て、その後、芸術大学の中にある彫刻や造形品を見たりして、楽しい時間を過ごした。そして、時間は早いもので、あっという間に真っ暗になってしまう。


 俺は駅まであけちゃんを送ると、あけちゃんは俺の服の裾を引っ張って小さな声で言った。


 「……また、会ってくれますか?」


 「俺は小さく頷いた」

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