【第二部】第三章「武内 華蓮(たけうち かれん)」
沈丁花(じんちょうげ)の薫る時期。雪が解けて暖かな春の訪れを感じる季節。そして空も澄み切っている。田舎にある道場では一人の還暦過ぎの男性と少女が組み手をしていた。
「まだまだ!!かかってこんか!!突きが甘いぞ。その調子じゃ、まだまだだな。」
「うう、じいちゃん、てかげんしてよ」
「ほう、ワシはまだ『四十ぱーせんと』しか力を出して無いんじゃがのう」
男性は嘲笑した。少女はむきになって怒り、力任せに老人に殴打した。
「むっ!!いまバカにしたでしょ!わたしだって、ほんきだせば!」
しかし、ことごとくかわされてしまう。
男性の名前は鬼瓦 毅(おにがわら つよし)。日本で三つ指に入る程の凄腕の武闘家だ。幼い頃富豪の家で育ったが、戦渦に巻き込まれ、親戚筋を失ってしまう。挙句財産を失い、生きる希望を絶たれていた。しかし、ソビエト軍に拾われ、コマンドサンボを身に付ける。青年だった彼はゼロから武術を学んだ。身体で覚えた技術を日本に来て空手と融合させて、再構築し、鬼瓦の名字から「鬼塵流(きじんりゅう)」と言う流派の開祖にまでなってしまった。何もかも死に物狂いでやってのけた彼は、今や精神面でも肉体面でも「鋼の漢」と言うに相応しいだろう。
そして、組み手の相手をしている少女の名は武内 華蓮(たけうち かれん)。鬼瓦師範の孫娘である。両親は仕事が忙しいのか、娘を道場に預けている。武術の英才教育のせいか、性格は気丈で活発、おてんばで男勝りだ。
「よし、そろそろ休憩にしよう」
「やった!!おなかすいたぁ!!」
毎度適当な時間になると師範の奥さん、忍葉(しのは)が大きなおにぎりと淹れたてのお茶を持ってきてくれる。師範も華蓮もこれが楽しみだった。
「きょーうのぐっざいはなっにかなぁー」
華蓮は鼻歌を歌いながらおにぎりにかぶりついた。
「きりぼしだいこんかぁ!あじがしみてておいしいー!」
なかなか味覚の渋い小学生である。奥さんはお礼を言いつつ、一言釘を刺した。
「ありがとうね。その海苔巻いてないやつは食べちゃだめだよ」
「えーー?気になるなぁ。えいっ」
ツーンとした刺激が口から鼻に抜ける。そう、葉わさびである。
「んんん!?」
華蓮はパニックになって道場の床を手で叩いた。奥さんはお茶を華蓮に渡すと、一気に飲み干した。
「さすがに、ぶとうかのいじでも、たえられなかった!」
「そうかいそうかい。毅さんの為に作ったんだけどねぇ」
奥さんは笑いながら言った。
「わさび……まだあるか?」
師範は恐る恐る、残っていないか聞いた。
「はいはい。まだありますよー。これとこれ」
「だ、だめだよじーちゃん、これ、からいって!!」
「はっはっは。大人と子どもは違うんじゃよ。」
師範は微笑んで言った。
その時、凛とした声が玄関に響いた。
「お願いしまーす!!」
「はい!今行きます!」
立とうとした奥さんを制し、師範が直接玄関に行くと女性が立っていた。彼女は年齢からして30代。とても凛々しい目をしている。師範はやる気があると見て、入会書を持ってくると、丁寧に言った。
「では、ここに名前とハンコを……」
「そうじゃなくてこの子を」
付け加えたように言った。その目線の先には、母親の陰に隠れる少年が居た。寝癖が立っていて、ぼーっとしている、潜在能力がありそうと言えば聞こえがいいが、武闘家の才があると言える印象ではない。
師範はがっかりして、断ろうとしたが、母親の押しの方が強かった。
「三日間耐えられたら認めてくれますよね?!ねぇ!!」
その剣幕に断る隙など無かった。
「な、なにを言い出すと思えば……その子にやる気はあるのかい?」
師範は最も気になっていた「本人の遺志」を確認することにした。しかし、当の本人は欠伸をするだけで、興味もなさそう。そこへ、一人の少女が近づいてきて宣戦布告をした。
「そこのぼうや、ここににゅうかいするなら、かかってらっしゃい!」
カモーンと言いながら手を動かす華蓮。アチャーと言いながら、師範は額に手を当てた。追い返すタイミングをお蔭で失ってしまう。
「へ?ぼく?!」
「そうよ、このまえのやつより、こんじょうなさそうじゃないの!しっかりしなさい!」
そう言って、華連は少年をズルズルと引きずって道場に連れて行った。
**
畳の上で、華連は気合を入れる。そして、犬司を挑発した。
「やあああ!どこからでもかかってきなさいっ!」
「え?なにいってんの?いみわかんな……」
その瞬間、少年は足を絡め取られて転んでしまった。
「あんた、よわいのね。うけみくらいとりなさいよ!」
「なにをう、ぼくもまけないよ!」
少年は頭を擦り、痛みが落ち着くとへっぽこパンチを華蓮にお見舞いした。
「やああああ!」
「せいっ!」
背負い投げ。そのまま宙を浮いて、強かに身体を打った。
「くうう、しびれるぅ」
「もうおしまいにする?」
「まだまだ!」
少年は根性までは腐っていなかったようだ。華蓮は寝っ転がっている少年の顔を覗き込むように言った。しかし、難戦すること、一時間。結局彼に勝ち目はなかった。
華蓮は日頃の鍛え方が違うのか、息を切らすこともなく、殆ど動くこともない。打ってかわして少年はすっかり疲れ切ってへたり込んでしまった。
「へっへーん、くやしいでしょ!」
「まったく、なんなんだよ」
少年は悔しそうに畳を叩いた。華蓮は普段の師範の受け売りを見よう見まねで言ってみた。
「いい?せんとうでは、さいしょうげんのえねるぎぃで、たたかうのがいいらしいのよ?よくわかんないけど、あしばらいていどなら、かるいせんいそうしつは、ねらえるらしいのよ?」
「ごめん、なにいってるかわかんない」
「あらそう。いっぱんしみんには、わからないみたいね」
そう言いつつ、言葉の意味を分かっていない華蓮。かなりの高飛車である。
「あ、そういえば、なまえきいてなかったわね。アンタ、なんていうの?」
「ぼくはたかやまけんじ。しょうがくいちねんせいだよ。ろくさい」
「わたしはたけうちかれん。しょうがくさんねんせい。はっさいだよ。よろしくね、けんじ」
「よろしくね、かれんちゃん」
そう言って二人は爽やかな握手を交わした。それを陰から見ていた師範は落ち着いた表情で母親に言った。
「どんな事情があったのかは分かりませんが、入門を許可しましょう。眞子(まこ)さん。とってもいいお子さんですね」
「根性無しを叩き直してください!びしびしっと!」
そう言って、眞子はジャブをして見せた。犬司はポカーンとし、華蓮はニヤッとしていた。
**
「では、明日から稽古を開始しましょう。眞子さん、今日は肉料理にして息子さんにスタミナをつけさせてください」
「犬司、今度ここに金土日と通うことになったから」
「えー!!きいてないよ!」
嫌そうに言う犬司。眞子は思った通りの反応だと思っていた。
「だって、アンタ、やだって言いそうだから、分かっていない状態で連れてきたのよ。でも、女の子の友達出来たみたいで良かったじゃないの?」
眞子は嬉しそうに言う。犬司は嫌そうにぶつぶつ文句を言っていたが。
「ま、うちの孫とも良いお付き合いになるといいですね」
「ホントホント。華蓮ちゃんの爪の垢呑ませたいくらいだわー」
眞子と師範は嬉しそうだった。
**
時は変わって夕食。犬司はすっかり疲れ切っていたようで、箸を持ちながらうとうとしている。
「ほーら、犬司、お肉だよー、いらないのぉ?」
眞子は犬司の鼻もとに肉を近づけて揺らすが、何の反応もない。あまりにも眠そうなので、テーブルの上にある食材に頭を突っ込みそうな勢いだ。
「母さん、ビール」
「はいはい、待っててくださいな」
眞子は箸で掴んだ肉を口に入れると冷蔵庫に向かった。父の輝也(てるや)は興味を持って母親に聞いてみた。
「なぁ、母さん、何でこんなへなちょこを道場に入れたんだ?他にも色々あるじゃんか。水泳とかサッカーとか。俺も稼いでないわけじゃないし」
「いやね、実は三日前の話なんだけど……」
**
眞子は買い物袋を両手に持ち、歩いていると近所の公園に差し掛かったところで、ご婦人方に声を掛けられる。
「あらー、最近引っ越してきた鷹山さんじゃありませんか!ご主人の転勤はなかなか大変のようね」
「……誰かと思えば一星(いちぼし)さんではないですかー、あらやだー」
「ご主人の輝也(てるや)さん、なかなか成績がいいみたいで、うちの主人も喜んでらしたのよ。おほほ」
「いえいえ、とんでもない。うちの主人がホントにお世話になっております」
深々と頭を下げる眞子。一星 要(いちぼし かなめ)。「(株)ヒトツボシ・ペットビジネス」社長夫人だ。こうして従業員の奥様と、社長夫人の水面下の争いが社会を支えている。
「鷹山さん、良かったらそこでお茶しません?ちょうどここら辺に、最近主人が建てた家があるんざます」
「お、お言葉に甘えて」
眞子は少し冷や汗を流した。
「(株)ヒトツボシ・ペットビジネス」は犬司の父、輝也が務めている会社だ。地盤が固く、一族経営をしているため、かなり歴史は古い。一応優良企業ではあるようだ。
「つい最近、うちの会社はマレーシアに進出したばかりざます。こうして気を許してお話しできるのも鷹山さんくらいかしらねぇ。おほほ」
「は、はぁ。ありがたいお言葉です」
眞子は身分の違いを感じて溜息を洩らした。
「うちの子は三人兄弟。ちょうど末っ子の明(あける)ちゃんが犬司くんの同級生かしら。明ちゃん恥ずかしがり屋だから、犬司くんと仲良くして欲しいざます」
「よく言っておきます」
「ありがたいことざます。うちの子たち三人は、エリートコース行って欲しいざます。明ちゃんもそのうち塾に通わせようと思ってるざます」
「え、エリートなんて素敵ですねぇ。うちにはとてもとてもとても、そんなお金ありませんわ。おほほほ」
眞子は自慢するためにお茶に呼んだんだとはっきりと思ってしまった。
しばらく延々と自慢話を聞かされ、解放されたのが夕方の五時。夕食の支度があると断って帰宅したが、要はとどめを刺すように、「うちには家政婦が居ますから」と言って玄関のドアを閉めた。へとへとになって眞子は家に帰宅した。
**
その夜、眞子は犬司が寝たのを確認してから、遅くに帰ってきた輝也に相談を持ち掛ける。
「ねえ、あなた、今日一星社長の別荘に行ったんだけどね、なんだかとても劣等感を感じちゃった」
「仕方無いだろ、俺と一星社長じゃ、稼いでる額が違うんだから。比べても惨めになるだけだよ」
「そうなんだけどねぇ……」
思い詰めている眞子の背中に、輝也は手を置いて言った。
「どうした?何があった?言ってみろ」
「一星社長の家は上の子がエリート高校、真ん中の子がスポーツ推進校通ってるんだって。将来有望で、末っ子もそのうち塾に通わせて有名大学を目指させるって、鼻息荒く言われちゃってね」
輝也は現実を見て青くなった。そして、宥める様に眞子に言った。
「おいおい、犬司はまだ小学生だろ?しかも遊びたい盛りの子どもだぞ?俺もお前も越してきたばかりじゃないか」
「そうなんだけどねぇ……」
眞子の様子が落ち着かないので、輝也はとても心配していた。
翌日。眞子が買い物に行くと、今度は奥様方が集って、公園の前にある電柱を見ながら話をしていた。一枚のポスターが貼ってあり、それがとても気になるらしい。ポスターには、道着を着た老人が正拳突きをしているポーズで、喝!と吹き出しが入っており、見出しには「鬼塵流(きじんりゅう)門下生モトム!」と書いてあった。モノクロだが、とても目立つポスターだった。
眞子は気になって奥様方の話を聞いてみた。
「どうなされたんですか?」
「ああ、鷹山さんの奥さん、見てこのポスター。最近貼られてたと思うんだけど、徐々に噂になってね。この道場の師範、とっても修業が厳しくて、生徒が三日待たずに逃げ出してしまうらしいのよ」
「へ?そうなんですか?」
「でも、凄く腕が良くて『日本で三本の指に入る武術家』とか『日本で有数のコマンドサンボの使い手』とか聞くのよ。なんでこの町にいるか、私も知らないんだけどねぇ」
奥様はとても不思議に思っていた。そして、眞子が食い付くような一言を言った。
「授業料は無料らしいんだけど……」
「それだっ!!」
「へ?なにが?」
「私、息子をこの道場に入れます!!」
**
「……ってことがあったの」
「おまえなー、いくら何でも強引すぎだろ。当の本人はよだれ垂らして寝てるぞ」
犬司はいびきを掻きながら、ぐつぐつと音を立てているすき焼き鍋の前で、器用に箸を持ちながら寝ていた。
「私は息子を信じる。だってあの社長夫人に負けたくないんだもの!あなたも応援してて」
「はいはい。こういう時のお前は、梃(てこ)でも動かないからな。分かったよ」
輝也は根負けして、そのままビールをあおった。
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