夜の帳、傘が踊る

キジノメ

夜の帳、傘が踊る

[ SOS 笑 なーんて ]


 その呟きを目にした途端、彼がどうしようもなさそうに首を傾げ、笑っている様子が浮かんだ。

 思考が止まる。え、と無意識に声が漏れ出でた。その呟きをタップしても言葉は何も変わらない。「SOS 笑 なーんて」って、2行にも満たない、たった8文字の言葉があるだけだった。

 思わず立ち上がる。立ち上がってから「冗談に決まってる」という考えが浮かんで、もう一度それを見た。けれど変わらない。45秒前のツイートは、たった8文字の、まるで冗談のような文章を映し出している。

 「 SOS 」と泣きそうな顔で言って、ぐしゃりと笑って、下を向き、顔を少し伸びた髪で隠して、「なーんて」と呟く。

 そんな彼が浮かんで消えない。

 冗談に決まってるじゃないか。「笑」って言ってるんだから。なーんて、って言ってるんだから。

 そう思う脳の一部もあるけれど、だから座り直そうだなんて思えなかった。

 壁に吊るしていたコートを引っ掴む。ハンガーがコートにつられて落ちたけど、拾っている暇すら惜しくて無視する。袖を通しながら机の前に向かった。そして置かれた箱を手に取る。これを乱暴に扱うことは出来ないから、呼吸を落ち着かせて箱を開けた。中の小瓶を取り出し、ポケットに突っ込む。もう丁寧にする必要はない。ぼくは襖を勢いよく開けた。

「どうしたどうした!」

玄関でスニーカーに足をねじ込んでいると、慌てふためいているおじさんがやってきた。あ、何も言わずに出ようとしてた。

「おじさん、ちょっと友達の家行ってくる」

「おー、えらい夜中に行くもんだな。気を付けろよ。泊まるとかだったら連絡だけくれ」

「分かった、いってきます!」

「いってらっさい」

特に詮索もせず出してくれるおじさんがありがたい、正直説明している暇なんてなかったから。ぼくは投げるように言葉を残して、家を飛び出した。



 今から向かう水月の家は、自転車で15分くらいの隣町にある。大学に合わせて、この神奈川に上京してきたと言っていた。確かに、彼の家から大学は自転車5分で、ぼくは20分。いい場所の家を借りたなあと、初めて家にお邪魔して流しそうめんを食べていた時に、思った。彼の家は駅からは離れているけれど、もし駅近くに住んでいたら大学まで少し(と言っても徒歩20分ほどなんだけど)遠い。多分4年間しか住まないから、と彼は言っていた。だから駅への利便性は捨てたということだろう。そうは言ってもバスは通っているし、彼自身も地元よりマシだと言ってた。高校までは石川にいたらしい。ぼくは昔、東京に住んでいたから何も思わないけれど、彼は来た当初、この都会に感動していた。横浜が気に入ったと、よくぼくを遊びに誘う。ぼくも横浜にはそこまで慣れたものではないので、行くたびに新発見があって楽しい。

 大学卒業したら、石川に戻るの? と聞いたことがある。戻るかな、と言っていた。実家の酒屋を継ぐつもりだと。彼の大学での専攻は経営学部で、なるほど、と思ったのを覚えている。学んだことを、生かすつもりなんだ。そう言うと、彼ははにかんでいた。

「そんな高尚な理由じゃないよ。だって経営学部、東ではここにしかないから。4年間だけでも逃げる口実だよ」

そこでぼくは初めて、いつも穏やかに微笑んでいるこいつも何かがあるぞ、と親近感が湧いたのだった。



「みーずつきー」

小声で彼の名字を言いながら、インターホンを鳴らした。オートロックなんて立派なものは無いアパートだから、部屋の入口にあるそれを鳴らしている。自転車をかっ飛ばしたから、ちょっと息が切れていた。彼が出てくるまで、と大きく深呼吸をする。

 しばらく経って動機は収まったが、彼が出てこない。

「おーい」

もう一度押す。それでも出てくる気配がない。ここで「はいはい寝ているんですね」と帰れたら楽だけど、それにしてはツイッターで見たあの言葉が重くのしかかっていた。「笑」「なーんて」と書かれていても、見過ごしていいものとは思えなかったから。

 悪いけど、スマホで電話をかけた。さすがにこれには出てくれた。

『……』

「家の前にいるんだけど」

『鳴らしてるの、君か』

「開けてくんね?」

『……』

「それかバッテリー消費して、朝焼け見るまで話すか」

『不毛だな。開けるよ』

「ありがてーな」

ぼくは小さく笑って、通話を切る。同時にドアが開いた。

 少しうつむき加減の水月の目が赤かったから、来てよかったと思った。

「やあ」

「……寒いのに、なんで来たの?」

「ちょっとね。なんでもねーよ。入っていい?」

「『なんでもない』と『入っていい?』が同列っておかしくない?」

呆れたように笑われる。おらおら、とぼくはドアを大きく開けた。

「うわ、まじで寒い」

「寒いんだよ、外は」

「はいはい入れ入れ」

ありがとう。

 とはっきり言わず、おせーんだよ、と軽口を叩いて玄関に立つ。後ろ手で鍵を閉めて、さっさと部屋の奥の座布団に座った彼を追う。

 彼が座っている場所から机を挟んだ、つまりぼく側に座布団が置いてあって、電話に出ながら準備してくれたんだと分かる。嫌そうだったのに、ありがたい。

 申し訳ないが、ざっと机の上を見させてもらう。薬のケースに、筆記用具が刺さったペン立て。空っぽのマグカップ。紙が数枚あって、裏返されているけれど、大量に書かれた文字が透けている。

 と、前から手が伸びて紙を片付けられる。見ていたことがバレて気まずくなった。

「……えっと、元気?」

「一昨日、会ってるんだよなあ」

何を聞くんだよ、と笑われる。

「でも、一昨日じゃん。昨日お前、休んでるし。今日は一昨日から2日後だぜ」

「2日で人は変わらないだろ」

「変わるんじゃねえの?」

だってお前、エスオーエスって冗談でも叫んでんじゃん。

 とは、言わない。

 きっと水月も気が付いている。ぼくがツイートを見てやってきたんだって。なぜならぼくは、そのツイートにいいねを押しているからだ。リプでなにかを送るのも躊躇われて、いいねっておかしいのに、押してしまった。それを気が付いていないはずはない。そもそもこいつは確か、通知をオンにしている。

 けれどさっきの呟きなんてなかったように、ぼくらは表面上で冗談を言い合う。だってまさか、聞けるだろうか。馬鹿正直に「さっきSOSとか言ってたけど大丈夫か?」なんて。どうせふたりとも変に高いプライドを抱えているんだ。言ったところで認めてくれないし、それを分かっているぼくは、そうは聞かない。

 水月は、少し下を向きながらも笑っている様に見えた。

「大丈夫だよ」

「あー、元気か。そっか」

「そうそう」

案外平気なのか、と思っていたことが外れて少し焦る。夜中に押しかけた迷惑者になってしまった。

「……いや、うん。まあ良かったわ。ごめんな、夜に押しかけてさ。ははは、今から帰るのきついし、今日泊めてくんね?」

「……」

「おい?」

「……元気だから」

いつの間に俯いているんだと思ったら、声がかすれてるんだから驚いた。

 お前、やっぱ元気じゃないじゃん。言ってることと全然違うじゃん。

 体育座りをして、抱えた足の隙間に顔を埋めている。暖房の音が、やけにうるさく部屋に響きだした。

「……元気じゃないじゃーん」

「……」

「……ごめん」

茶化してはいけない状態だったみたいだ。だいぶへこたれているようだと、頭をつむじを見つめながら思う。

 SOSを無視しなくて良かったと、強く思った。

 そしてこういう時のために持ってきたものがあったんだ。忘れず持ってきてよかった。

「あのさー、それならあとで帰るけどさ、ちょっとこれだけ、見せてくよ」

電気消していい? と聞くと、小さく頭が動いた。構わないらしいので、スイッチを押して消させてもらう。

 そこでぼくは、ポケットに入っていた小瓶を取り出した。

 コルクをゆっくりと引き抜く。そして小瓶を握って――中身をぶちまけるように手前で振った。

 途端、


 真っ暗だった部屋が深い群青へと色付いていき、端々から星が浮かんでいく。


 頬を撫でる風が、暖房の乾ききった温度があるだけのものから、変わっていく。身体を透き通っていくような少し冷たい風に、変わっていく。

 それに気付いたのか水月は顔をあげて、部屋の代わり様に完全に上を向いた。

「……え?」

「夜空のもとを振り撒いたんだよ。星、好きじゃん」

「いや、え?」

「まあまあ細かいことはいいから」

ぼくは彼の前に座り直す。間に机があるはずなのにそこにも星が浮かんでいて、ふたりで宇宙の隅っこに座っているようだった。

 ぼんやりと輪郭を光らせ、何かが舞っている。あれは傘を持った人だろうか。メアリー・ポピンズのように、くるくると宇宙を舞っている。

 水月はぽかんと、目の前に広がる夜空を見つめていた。

「きれいだろ。長野県阿智村で、1年に1回あるかないかっていうくらいに空の状態が良い時に、取ってきたんだって」

「……へ、へえ」

「ここでは見れない空だよなあ」

「……」

すーっと、彼の目尻から涙が零れていた。ぼくは一度目をつぶって、そして星に目を向けた。

 メアリー・ポピンズが傘を回してスキップをしている。笑い声が聞こえそうなほど、楽しげに。

「……親から電話あってさ」

「うん」

「……嫌な、電話だったから」

「そうか」

「だから思わず、誰かに救われたいなって思ったから」

「そうかあ」

「……ごめん」

「いいや? 全く」

「……ありがと」

「どーいたしまして!」

これ、きれいだろ。ぼくはもう一度言った。

 柳には敵わないなって、水月のかすれた声が夜空の中から聞こえた。


 効能は約10分。部屋の中心から次第に青くなっていき、色は、星はするすると消えていった。メアリー・ポピンズも火花が散るようにして消えた。途端、部屋の暗さは完全になくなり、暖房の気持ち悪い暖かさが復活する。

「換気しね?」

「やだよ、俺、喚起した寒い部屋で寝たくない」

「いいじゃん、ぼくに関係ねーし」

「ひど!」

てか、本当に帰るの? と聞かれる。ぼくは立ち上がりかけてたので、半端な中腰になってしまった。

「え、邪魔じゃない?」

「さっき来た時は本気で邪魔だと思ったけど、今は別に」

「本気でかよ」

「落ち込んでる最中に、誰が人を招き入れたいって思うんだよ」

それをずかずか入ってきやがって……となじるから、ぼくは思わず笑ってしまう。

「ごめんごめん!」

「笑いながら言うんじゃない」

「……本当に迷惑だったら、マジでごめんな」

「だから今は思ってないって言ってるだろ。柳も大概面倒だよな」

「うるせーな!」

帰る気も失せて、また座り込む。なんか飲む? と聞かれたカップラーメン! と言ってみた。

「それは飲み物じゃねえ」

そう言いながらも水月は準備をしてくれる。

 電気ポッドのスイッチを入れて、カップヌードルを2個取り出している。お前も食うのか。

「腹が減ったんだよ!」

「考え込んだら腹も減るよな」

「そもそも夜食ってないから」

「よし、カップ麺を2杯食おう」

「こんな夜中に死んでしまうよ!」

ふは、とふたりで笑う。なあなあ、とその雰囲気をなるたけ壊さないように、ぼくはそっと言っておきたいことを伝えた。

「しんどい時はさあ、ぼくを呼んでくれれば、さっきの見せられるからさ。あと、愚痴の掃きだめ相手にも出来るからさ。呼んでくれよ」

ひとりで抱え込むのはきついって、この身を持って知っている。だから言ったのに、水月に軽く笑われた。

「掃きだめってなんだ、馬鹿。君は物か」

「例えだって」

「例えだろうが言うなよ、そんなこと。分かった、呼ぶから。その時はひとりの友人として話を聞いてくれよ」

「……うん」

「ありがとな」

「いいや」

どういたしまして。

 ぴーっと、電気ポッドが湧いたと知らせる。ぼくも立ち上がって、お湯を注ぐ彼の隣に立った。ぼくを見ながら水月は笑う。まだ目は赤くとも、今は楽しそうに笑っていた。

「柳、カップ麺食って、ゲームでもしようか」

「ゲーム機あったっけ?」

「トランプだけど?」

「アナログだなあ!」

「ポーカーをやろう」

「意外と難しいやつじゃん!」

明日の授業、サボってもいいかと思いながら時計を見ると、もう午前2時だった。




「おじさーん、あれ、夜空の瓶、ありがと。使ったよ」

「おお、どうだった?」

「すんげーきれいだった。あと、風も吹いてた」

「お、成功成功。そりゃよかった。あ、北海道北竜市のもあるんだよ。ほらこれ、やる。どっかで使ってみてくれ」

「うん、ありがとう。ちなみになに?」

「ひまわり」

「へえ」

彼が落ち込んでいたら次はひまわりでも見せようかって、淡い黄色の瓶を振りながら、ぼくはほくそ笑んだ。

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