【第二部】第五章「私立・女学院へ編入する」
そして時は経ち、季節は冬を告げた。すっかりと外は雪景色に代わり、私は寒さを感じてコタツでゴロンとしていた。私はここ三ヶ月間、家を出てから学校に行くことがなくなっていたのだ。正直やっていることと言えば、トーさんの家にある、大量の書籍を読み漁ったり、インターネットを触って一日が終わっていく。家事や炊事、掃除をしたり、テレビを見たり、専ら主婦のようなことはやらせてもらい、そしてたまに、トーさんは私を連れだしてくれるのだが、しかしそれ以外にどこかに行くこともなく、私は半引きこもり状態になっていた。
トーさんはそんな怠惰で無気力な私に呆れたのか、一言言った。
「そういえばお前、学校には行かないのか?」
「うん。行きたくないの」
私は痛いとこを突かれた。怯(おび)えと怖気づく心に身が強張り、ビクンと震えた。めんどくさい気持ちと、誰かに見つかりたくない気持ちが交錯していた。そして、トーさんは頭を悩ませながら言った。正直「お荷物」にでも思われていたのだろうか。憶測でしかないのだけれど。
「一応、義務教育である中学校までは学校に出てるから、文句は言わん。ただ、お前のクラスメートにも何人か仲のいい奴がいるんだろ?そいつらにはきちんとケジメ付けないと」
「そうだけど……。」
私は学校に行くことの不安がとても大きかった。今の家族のことを既に知られているだろうし。そして長いこと不登校だった。そして冷やかな陰口を叩かれるだろう。そして、同じ学校の瑠璃はどうだろうか……。あれやこれやを考えると、私の「蚤の心臓」がキュウっと締め付けられた。そして異様に苦しくなったのだった。
トーさんは、私の顔を窺うように見た。そして、私の明らかに行きたくないような素振りを見たのだろう。そして少しばかり考えた。それは親心なのだろうか。それとも、同居人に対する同情なのだろうか。トーさんは何かを思いつくと言ったのだった。
「分かった。来い」
そう言って、私は手を引かれるままに連れて行かれた。困惑もあったけれど。アパートの庭先を出て、少しほど歩いた所に砂利舗装の駐車場。そこはすっかり雪を被っていた。一台の黒いワンボックスカーの鍵を開けトーさんはいつものように私を乗せた。「今日はどこへ行くのだろうか」と私の気持ちは、期待と不安が入り混じっていた。
トーさんはカーステレオに音楽プレイヤーを繋ぐと、ゆっくりとエンジンのセルを回した。私は助手席でシートベルトを締め、深く座席に座り込んだ。
しばらく走り、大通りに出るとトーさんは口を開いた。
「これから市外から外れた私立高校に行く」
「えっ?」
「言いたくないんだけどさ、俺が思うに、若い子には家でゴロゴロして欲しくない。俺みたいな大人は仕事を本分としてけど、お前くらいの年齢のとき、そのときのことを思い返すことが多いんだよ。『あの頃は良かったって』引きこもりみたいな青春を送ってたら、ただただ将来つまんない大人になるだけだぞ」
トーさんから聞くお説教。最近は私の怠慢に対して、特に「耳にタコが出来るほど」いろんなことを聞いているのだけれど、今回の私には「特に」心に刺さってしまっていた。そして、ついつい口を出してしまった。
「いいよ。別にそれでも……トーさんは、私が学校に行ってどんな目に遭ってもいいと思ってるの?」
私はトーさんはこんなとき、「いつも都合のいい御託なんか並べて」偉そうにこうやって諭している。そう思っていたので、仕返しのつもりで、わざとらしくしくいじけてみた。しかしトーさんは呆れていた。
「バーカ。やらないと分かんないだろうが。お前はそうやって、また嫌なことから逃げるのか?」
トーさんはいい加減「大人になれ」と言わんばかりに、それ以上は黙っていた。無言の時間が続く。私はお節介な正論にとても苛立ちを感じていた。
「ほら、着いたぞ」
トーさんが車を停めた。私はムスッとし、気は乗らなかった。しかし、トーさんが「降りろ」と私を急かす為、背中を押されながら無理やり降りた。そして進んでいった。空気が新鮮だった。鏑木市の外れの田舎の方には、こんな空気があるのかと感じていた。張り詰めたひんやりとした空気が頬を触れた。私はゆっくりと雪を踏みしめながら進んでいった。すると目の前には大きな白い木造の校舎がそびえ立っていた。
「きれっー!」
校舎に思わず見とれてしまった。私は、この景色が自分の語彙(ごい)を低下させるほど美しいのだと思った。それほどの美しい景色だった。私は今までくよくよ悩んでいる自分が馬鹿らしくなった。トーさんは嬉しそうに校舎の三角屋根の時計台を見つめていた。
「『アカツキ名門女学院』。名前だけで入れる名門学校だ。ただ、めちゃくちゃ勉強は難しいけどな。訳あっても、一身上の都合があったとしても、ここならやっていける……と思う」
トーさんは少し自信ありげに言った。前もって調べてあったのだろうか。それにしても、「粋なことをする人だなぁ」と改めて私は思っていた。
トーさんは遠い目で校舎を見つめ、ノスタルジックな気分に浸っていた。しかし、私は「それどころじゃない」と、はち切れんばかりの好奇心でトーさんの手を引っ張って中に入っていこうとしていた。
「早く行こうよ!!校舎の中がどうなってるか、気になって仕方ないの!」
「待て、待てって。焦らなくても学校は逃げないから」
トーさんは「やれやれ」と言うと、私に手を引かれながらゆっくりと校舎に足を踏み入れたのだった。
**
時は過ぎ、私たちは広い応接間のソファーに座っていた。
「……そうですか。で、ここに来たと」
私の正面にいる白髪交じりのおおよそ五十代後半の男性は、学校の教頭らしい。物腰は柔らかく、表情も柔和で優しそうな印象があった。
「はい、だから『俺としては』この学院の生徒のような、人あたりの優しいところに『娘』を入れて下されば、将来の安定も望めると思いまして」
トーさんの言い分は「『私』が虐められて、行く場所もなくて、ここにたどり着いた」と大げさな演技交じりに言ったのだった。涙を誘うような言い方であった。
「しかし、言いたいことは分かるんですが、この学院の転入試験は相当難しいですよ。」
「……」
「ですよね」と私は思った。正直、今の勉強環境で編入出来るのかも不安だった。
「いえ、大丈夫です。俺が勉強指導しますから。これでも家庭教師のバイト経験があるんです」
トーさんの始めて聞く経歴に、私は驚いたのだった。「家庭教師をしていたのか」と思った。「だから頭の切れもいいわけだ。頷ける気がする」と私は思っていた。
「でも、仮にあなたが勉強を教えることが出来たとしても、彼女自身が当校の勉強について行くことが出来るとは限りませんよね。その自信と根拠はどこから沸いて来るものなのですか?」
「相当勉強が難しい学校なのだろうか」。そう思って、私は自信をなくしてしまった。しかし、トーさんの目は輝きを失わなかった。
「それは……秘密です。俺が何とかします」
「この人は大丈夫だろうか」と私と教頭は思っていた。そして、私はトーさんの横顔をちらりと見た。トーさんは眉や口元を一切動かさずに、しかし、目線は教頭をじっと見たまま、自信に満ちて溢れていたのだった。
「まぁ、そこまで言うなら信じてみましょうか。では、この書類を今日から二週間以内までに、郵送でこちらに届くようにお願いします。尚、学力テストを簡単にしますのでご了承ください」
「分かりました。」
**
それから、トーさんはと私は家に帰った。トーさんは自分の部屋に入ると、散らかっている部屋の机の、書類の山の中から、「あの学校で使っている問題集や参考書」などを引っ張り出した。五年前のものらしいけれど。私は、それをどこから入手したか気になっていたのだけれど。家庭教師をしてた経験があるならば、手に入るのかも知れないな。と思ったのだった。私はトーさんがそんな策を持っているのか胸を高鳴らせながら次の言葉を待っていた。しかし、トーさんは言った。
「ほら、学力テストまでの間、時間はないんだ。とにかく、お前は血の滲むような勉強をして、自分の居場所を手に入れなきゃダメだ。一日でも早く、一日でも時間を無駄にしちゃいけない」
私は今まで以上に真剣なトーさんの表情を見たのだった。そして、私以上に、私のことに親身になってくれている真剣なトーさんを見ていると、自然にやろうと思う気持ちが沸いてくるのだった。
**
トーさんは一日の仕事の合間を見て、勉強を教えてくれた。私は休憩を挟みながら十時間は勉強していたのではないだろうかと思う。トーさんは、五教科の勉強を私に教えてくれたのだった。優しいトーさんも、勉強を教えるとなると険しい表情で、厳しい口ぶりになった。しかし、一言一言に骨があって、分かりやすく、トーさんの授業は、私の頭にするすると入っていった。私が、「トーさんの教え方は凄い」と誉めると、トーさんは「私に理解力があるからだ」と謙遜をしていた。
**
ある日、私は勉強中に、トーさんの指を見ていた。指先にペンダコやささくれができ、酷く傷だらけだった。その日の夜、私はトイレに起きた。深夜になるといつもは消えているトーさんの書斎の明かりがついていることに気がついた。ドアの隙間から垣間見ていると、トーさんは机に齧(かじ)りつくように勉強をしていた。「あれでもない、これでもない」と私の答案と問題集の答案を照らし合わせながら、赤ペンを持って格闘しているトーさんの姿が見えた。私立高校の勉強を教える為に。何年も前の勉強を思い出す為に。仕事に疲れを覚えながら、毎日遅くまで必死に勉強をしているトーさん。私はその姿を見て涙が溢れてきた。
「……ああ、良かったぁ。間違ってたらどうしようかと思ってた。やっぱり、秋月家の娘さんで合ってたんだなぁ」
そして、トーさんは意味ありげな発言を入学書類を、夜まとめながら呟いていた。
**
トーさんは合間を見ながら、私にみっちりと勉強を教えると、休みの日は一日、完全に眠るという無茶苦茶なスタイルを続けていった。「私の為に、なぜそこまで……」と思うこともあった。そして「トーさんに無理しないで」とも言った。しかし、トーさん答えてくれないし、私の申し出を断って、私に勉強を教えてくれたのだった。
私とトーさん、二人の努力の甲斐あってか、転入後の学力試験の際には優秀な成績を収めることが出来た。その時の、「トーさんの嬉しそうな顔」を私は、生涯忘れることが出来ないと思った。
**
そして、冬の寒さが一層厳しくなった、二月のこと。トーさんと私は、人目につかないように、少し遠くまで夕飯の食材の買い物に来ていた。
「ふう、寒いな。今晩は鍋にするか。材料は何にする?」
「白菜がいいな。ウインナーも入れようよ」
「そうだな。でも、二人で食べきれる量にしようか」
思いかえすとトーさんと会っておよそ半年。本当にいろんなことがあった。私にとって忘れることが出来ないことも多かった。そして、トーさんのいろんな表情も見てきた。私は「いつも私に優しくしてくれるトーさん。もっとトーさんを知りたい」と思っていたけれど、トーさんはどこかで線引きしているようで近づくことが出来なかった。
「手の届きそうで届かない、あの空に浮かぶ大きな月のように」。私とトーさんの関係は単なる同居人でしかないのだ。しかし、これほどまでに割り切ってしまっていいのだろかと。お互いの踏み入ることの出来ないものがあると思うと、私はとても苦しくなった。そして胸が詰まりそうだった。
そんな私の様子を見ていたのか、トーさんは足を止めて、私を見ると様子を伺った。
「どうした?具合でも悪いのか?」
トーさんは私の顔を覗き込んでいた。そして不思議そうに思って、私の額に手を当てた。私はトーさんの大きな手を額に当てられ、はっと我に返った。そして私はトーさんに「自分は大丈夫だ」と言ったのだった。
買い物が終わり、トーさんと私は荷物を車に積むと、座席に座った。トーさんは「冬らしい曲でも掛けようか」音楽プレイヤーとカーステレオを弄りながら呟いていた。私は車の窓から外を見た。雪がちらちらと舞い始め、しっとりと地面を濡らした。
「ねぇ、トーさん、私たち会って四ヶ月経ったんだよね」
「早いもんだよなぁ」
外の雪に合わせて車内の時間もゆっくりと流れていた。車を発進させ、トーさんはハンドルを切りながら、「寒いなぁ」とぼやいていた。私は、そんなトーさんの、一言一言をボーっとしながら聞いていたのだった。
**
ある日のこと。学校で担任の先生がびっくりするような一言を言った。
「週末に入りますが、その前に連絡です。次の月曜、授業参観があります。その後、親御さんたちと先生で、『進路について』話し合う予定です。必ず親御さんに話をしておいて下さい」
放課後のホームルームで、若い女性の先生がそう言った。私はそれを聞いて「どうしよう」と悩んでいた。
「冬の授業参観か。私のお父様来て下さるかしら。でも、毎日ビジネスで忙しそうだし」
友人の千鶴(ちづる)はそんなことを言っていた。千鶴は学校の成績が優秀のお金持ちの家庭の女の子だ。なに一つ欠点がない性格で、人当たりも良く、お金持ちであることや、成績の良さを自慢するようなこともない。謙遜なお嬢様だ。私は彼女と、お互い対極の性格に位置しているので、興味本位で付き合っているのかも知れない。けれど、今では人恋しい私にとって、「トーさんの次」に掛け替えのない人になっていた。
「お母さんと嫌な別れ方」をしている私には、言う資格がない。でも、「親の悩みがあるだけ羨ましい」と私は心から思っていた。
「そう言えば、あなたのご両親は、どちらが来て下さるの?」
「えっ、……まぁ、お父さんかな。」
千鶴から急に振られた質問に対し、私は戸惑いながらそう答えてしまった。しかし、パッと浮かんだトーさんは相変わらず忙しそうだ。そもそも来てくれるだろうか。そして、血の繋がらない私の為に。そして「親として」参加してくれるだろうか。そう思うとまた不安が押し寄せた。
「あなたのお父様、どんな方かとても気になりますわ。友人の私としても挨拶をしておかなくてはなりませんわね」
そう言って、千鶴は私に挨拶をして席を外した。
「お父さんか……ホントは居ないんだけどね」
私は誰も、誰にも聞こえないようにそう呟いた。
帰りは、トーさんの迎えは呼ばずに、電車で帰ることにした。私の一歩一歩の足取りは重かった。帰るまで色んなことを考えてしまった。
「ただいまぁ」
「おっ、帰ったか。今日はさ、帰る途中、面白そうなテレビゲームあったから買ってきたんだ。一緒にやろうぜ」
私と違い、子どものように振る舞う明るいトーさんが玄関に出てきた。私は、ずっと考えていたことを思い切って言うことにした。
「あのさ、トーさん……お願いがあるんだけど」
「ん?どうした?言ってみろ」
「私の、月曜日の授業参観に来て欲しい。トーさんに」
私はためらった、しかし深呼吸しながら一息で言い切ったのだった。私にとって「トーさん」は「父さん」ではない。肉親がいようとも、どんな形の愛情があろうとも、血が繋がっていなかったとしても。でも、今来て欲しいのはトーさんだ。トーさん以外にはあり得ない。そう思って言ったのだった。
私の言葉を聞いて、トーさんは考えていた。
「次の月曜だろ?……まぁ、予定も入ってないし、行ってやるよ。ちょうど休みだしな」
トーさんはちらっと、後ろに貼ってあるカレンダーを見て、私にそう言った。私は嬉しくなって戸惑いながら言った。
「えっ、あ、ありがとう」
正直無理だと思っていた。けれど、思い詰めていたことよりも事態がすんなりと進んで拍子抜けしてしまった。私は思わず、嬉しくなって涙を流してしまった。
「おいおい、泣くなって。ホントお前はよく泣くよな。そんなに俺に来て欲しかったのか?」
「うん、うん、うん……」
私は、トーさんの前で、止めどなく溢れる返事と、涙を止めることが出来なかったのだった……。
**
そして週が明け、訪れた授業参観の月曜日。数学の授業、先生が板書の説明をしていた。
「この数式はX=1となるわけですね」
私はノートを取りながら、時々後ろを見ていた。クラスメイトたちの身綺麗な親御さんがぞろぞろと来て、後ろから我が子の授業の様子を見守っていた。クラスメイトたちは「あれはうちの親だ」と興奮し、きゃいきゃいと騒ぎ立てていた。片や必死にノートを取りながら、必死に受ける人もいた。それぞれの形で授業を受けていたのだった。
「ねぇねぇ、あれ、千鶴さんのお母さんだよ」
私はツンツンと後ろの女の子からシャープペンで背中をつつかれた。そして、女の子に指差された方向に振り向くと、いかにもセレブ美人と言った感じの女性がしゃなりと立っていた。そのお金持ちの方は、ブランド物で着飾るような格好で、見せつけるような豹柄に身を包んでいた。千鶴が「清楚無垢(せいそむく)」ならば、この人は「豪華絢爛」と言う四字熟語が似合うと思った。
「私の……お父さん来ないなぁ。」
私は、後ろの女の子のつぶやきを聞きつつ、私もトーさんがまだ来ていないことを心配していた。もしかしたら、「約束を反故されてしまったのではないか」とも。悪い方向に考えが進んでいく……。「来ない。まだ来ない」私の中では焦りと、不安でいっぱいだった。絞り出すような気持ちで、千鶴には「あのようなこと」を言ってしまった。けれど、帰って話して安心して泣いたからこそ、トーさんの言葉を信じていた。だから痛く辛いものがあったのだった。私はとても期待していた。裏切って欲しくなかったのだ。
そうして焦っているうちに、授業の残りの時間が十分を切っていく。終業に差し掛かったときだった。教室のドアが勢いよく開き、トーさんが息を切らしながら入ってきた。
「トーさん!!」
私は思わず立ち上がって、待ちわびた人物に対して、声を上げてしまった。
「悪い、待たせたな」
トーさんは教室にゆっくりと入りながら、私を見て、バツの悪そうな顔をした。「私を待たせたこと」を、みんなの前で、私に何度も謝っていた。周囲の視線が私とトーさんに集まった。さすがに私は、恥ずかしくなりその場を簡単に収めると席に着いたのだった。熱い親子だと周囲の人たちは思っていたのだろうか。
**
授業が終了した。千鶴は母親を見送った後、私の元に来た。そして、やや興味深そうに話した。
「あなたのお父様、なかなか若い感じがしましたね。しかも元気ですし」
「そう?」
私は嬉しくなって謙遜気味に答えた。
「はい。……でも、あなたに似てらっしゃらないかんじがしましたわ。お母様は再婚でもされたの?」
私はぎくりとして、適当にお茶を濁しながら答えた。
「ま、まぁ、そんな感じかな。うちにも、色々事情があるんだよねー」
**
そして、一通りの今日の授業が終わって、進路相談も終わり、親子がぞろぞろと校舎を後にしていた。
「トーさんのところに行かないとな。待ってるだろうし」
私は少し気持ちを焦らせながら、荷物を纏めていた。そして、今日の日中、劇的に現れたトーさんのことを思い返していた。教室には私を残し、ほとんど帰ってしまったようだ。
「ねぇ、あなたって今幸せなの?」
唐突に言われ、振り向くとクラスメートの紫音(しおん)が離れた席の机に座りながら私に話しかけていた。私は一瞬だれに行っているのかが分からなかった。
「え?私?私に言ってるの?」
「そう、あなた」
紫音は静かな声で私に言った。私は「このセリフ」を、以前、別の人にも言われたことを思い返していた。
「ま、まぁ、昔より充実しているよ」
「ふーん。じゃあ、その幸せ、いつまで続くか考えてみたりする?」
私はその言葉にドキッとした。考えたくなかったのだ。
「うーん、まぁ、あんまり考えたくないし、自分自身が不幸になるとか、ならないとかいちいち考えてたらやってけないと思うな。今までもそうやって乗り切ってきたし」
私はこのとき、「トーさんと生活を始めたとき」に言われた言葉と全く同じことを今言っていると思ったのだった。
「そっか。私、あんまりうまく上手く言えないけど、秋月さんがときどき、険しいな顔つきしてるのみてるんだよね。お節介だと思うけど、『不幸になるのが怖いとか、今の生活に満足してないとか』。そんなことを思っているんじゃないかって。でも、なんか元気そうだし、それならいいんだ」
紫音はそう言ってから、「このあと部活あるから」と一言だけ言って教室を出て行った。
「幸せ……か」
「私が不幸?私が幸せ?なによそれは。だれも私のこと知らないくせに!」私はいろんなお節介な言葉を頭の中で反復するたび、苛立ちが止まらなくなってしまった。
「なによ、なによっ!」
思わず、私は椅子を蹴り飛ばしてしまった。そして「自分らしくない行動」をしていることに気がついた。慌ててそっと、誰も見ていないことを確認すると椅子を戻したのだった。
**
私が応接室まで歩いていくと、トーさんが先生と出てきた。話し合いはちょうど今終わったところだった。
「じゃあ、『お父さんと』気を付けて帰るんだよ」
女性の先生は私にそう言った。私は、先生に挨拶をして、トーさんの手を強く引きながら帰った。心の中では「この手を離さない!絶対に」と思っていたのだ。
トーさんは進路相談でどんなことを話していたのかは分からないが、少し困ったような表情をしながら、私に伺うように聞いてきた。
「……なぁ、お前はこの先どうしたい?」
私は、今心に願っていることを口にした。
「今のままでいいかな。『今の生活』が続けばそれでいい。……まぁ、トーさんが迷惑しないのならだけど」
「そうか」
トーさんはなんとも言えない表情で一言言うと黙っていた。私はトーさんに質問をした。
「……先生となにを話してたの?」
「……まぁ、成績とか、学校内での友人関係とかをね。うまくやってるみたいだな。成績も、頑張って上位に入ってるみたいだし。友人関係も上手くやれてるみたいじゃないか」
「まぁね。トーさんが入れてくれたからだよ」
私はここまでの歩みで、トーさんに、感謝してもし切れないことが多かった。「いつか返さないと」と思う。そんな気持ちを胸の中に秘めていた。今は「幸せとか、幸せじゃないとか」そんなことは考えちゃダメだ。一秒、一日でも多くこの人と過ごしたい……!
「頑張ろうな」
「うん」
路面の雪が解け、乾いていたので、トーさんは車のアクセルを踏んで、少しスピードを上げた。私は車窓から見える夕日が美しさに見とれていた。
**
トーさんの身元で生活を始めて、四年が経とうとしていた。私は少しずつ将来の進路に向け、勉強を始めていた。トーさんは前より忙しいことが多くなり、お互いの余裕も少なかったが、食事のときだけは顔を合わせるようにしていた。女学校は進学校だけあり、勉強の基礎的なことが身についている為、私にとって勉強をする苦労はあまり感じられなかった。
そして春になり、無事合格し、喜びを噛み締めて、大学に行こうとしていたとき。トーさんは言った。
「いよいよ、次の学校に行く準備だな。お前はよく頑張ったよ。このまま家を出て、一人暮らししても良かったんだぞ?」
「しばらくはここで生活させてよ。落ち着いた頃に出てくからさぁ」
私はトーさんに意地悪を言ってみた。それくらい言えるくらいに、心も大人になっていた気がしたのだ。感極まってトーさんは目尻を潤ませた。
「トーさん、私は大丈夫だよ。お互い前向こうよ。トーさん、これからも頑張ろう!」
あの頃、泣きじゃくっていた私も「もうここまで言えるようになったのか」と改めて思っていた。
「まぁ、頑張れ。楽しんで来いよ」
「うん」
私はトーさんに力強く背中を押された。桜の吹雪の中、私は新生活を始めた。そして、これから月日がゆっくり流れていった……。今、私たちの家族はどうしているんだろうか……。
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