【第二部】第三章「幸せの家」



 私は食事を終える、二人でトーさんの家に行くことになった。案内されたのはオンボロなアパートだった。


「幸せの家」と書かれているらしい看板は、錆ついて赤茶色に風化していた。アパート全体も見るからにみすぼらしい見た目に劣化している。哀愁漂う空気感を感じる。私は息を呑みながらそれを見上げていた。




 トーさんの部屋は二階にあるらしく、私はトーさんの後について階段を上がった。そしてトーさんの部屋に入った。部屋のドアを開けると独特の香水の香りがした。その後に散乱するカップ麺の空き容器と苔むした畳が目に入った。トーさんは結構ズボラな性格なのかも知れないと私は思った。


 「ま、汚いが上がってくれよ」


 私は正直に「汚い」とは言えなかった。会って間もないし、それ以上に、遠慮なしに言う「妹の瑠璃(るり)」の姿を見ていたからだ。トーさんは苦笑いしながら、無造作に床に散らばったマグカップを二つ拾うとキッチンに向かっていった。そして、そのマグカップを洗い始めた。私はトーさんに質問をした。


 「トーさんは、ここに一人で住んでるの?」


 「ああ。そうだよ。気楽に暮らしてるよ。実家にはもう親父もお袋もいない。俺はここに出てきて暮らしてるんだ。兄弟は多いけどな」


 トーさんはこっちを向いてニヤッと笑う。私は家族の話をされて胸が少し苦しくなった。


 「そっか」


 私は重い気分を紛らわしたかったので、外の景色見ていた。すると、トーさんが温かい飲み物を持ってきてくれた。


 「ほら、ココアだ。俺は料理も下手だし、今はこんなんしか出せないぞ。お前が自分のうちに帰れば、もっといいもん食えるんだがな……」


 私のこわばった表情を見て、トーさんは察したようだ。


 「いいや。今は。俺も事情があって、お前を匿(かくま)ってるしな」


 「え?それってどういうこと?」


 「今は言えない。いずれ教える」


 私が聞こうとしてもトーさんは答えない。そして、私はトーさんを困らせたのだった。トーさんは「年頃の女子は分からん」と呟きながら、難しい顔をしていた。そして、自分の汚い部屋を改めて見て恥ずかしくなったのだろうか。重い腰を上げてごみを片付け始めた。


 「まぁ、お前がしばらく居るにしても、居ないにしてもにしてもだ。取りあえずきちんと片付けなきゃな。この部屋はさすがに客向けじゃない」


 トーさんは苦笑いをしながら、周囲に乱雑に散らばったごみを袋に詰め、片付くと掃除機を掛け始めた。私は正座をしていたが、少しもどかしくなってトーさんに、なにかできないかを聞いた。


 「私なにかしようか?」


 「あぁ、じゃあ棚の上、雑巾掛けてくれよ。そこにタオルがあるから濡らしてさ。俺もスボラなんで、掃除したのもしばらくぶりでさ」


 トーさんは埃にむせながらはたきを掛けていた。不器用な姿に私は笑ってしまった。「ずっとこんな日が続けばいいのに」そう思っている自分がいることに気が付いた。




**


 それから三日が経った。結論から言うと私は、家に帰ることが出来なかったのだった。


 一度、トーさんが寝ている隙を見て荷物をまとめてから外に出た。しかし、家の前に着いたとき、あまりにも大事になっていたので、とても戸惑い、気分が悪くなってしまったのだ。


 警察車両が家の前に定住し、玄関で母は顔を伏して泣いていた。瑠璃は母に手を引かれながら、怪訝な顔をして立っていた。私は近くの電柱の物陰から、家の前を見ていた。


 父が他界し、私も失踪してしまった。そのことの大きさにとても責任を感じつつも、身動きが取れなくなっていたのだ。私は出ていくことが出来なかった。私は涙を拭いて、下唇を噛みしめた。身を翻(ひるがえ)し、その場を後にした。


誰がどう変わってしまったのか。そして、この先の自分はどう生きていけばいいのか。それを考える気力も沸かなかった。ふらふらとあのオンボロアパートの前で足を止めた。「たった一時の優しさが人を変える」という話もよく聞くが、しかし、私自身が、心に切に求めていたのは「依存」という形での優しさだったのかも知れない。


 「また受け入れてくれるだろうか」と思い詰めていた。加速する精神が、凄まじいまでに、私の頭を混乱させた。その心理状態が、巡り巡って心を焦がしていった……。




 私はアパートの階段に足を掛けた。しばらく考えるかのように立ち止まる。やっぱり、「赤の他人に頼るのは良くないか」そう思って引き返そうとして、戻ろうと大きな一歩を踏みだそうとした。すると、奇跡的なタイミングなのか分からないけれど、……アパートの部屋から、トーさんが欠伸をしながら出てきた。両手にゴミ袋を持っていた。これから出しに行くところだったようだ。


 


 「あれ?お前、戻ってきたのか?」


 「うん。行く場所無くって」


 じわりと目元に熱く込み上げる雫(しずく)。私はそれを掬っても、掬いきれなかった。その雫は目元から止め処なく溢れ落ちて地面に落ちた。それと同時に、押し寄せた感情の津波。もはや私自身、どうしたら良いか分からなくなってしまっていた。そして、その場に座り込んで大声で泣き出してしまった。




 「え、ちょ、いきなりどうしたっ!?ま、待て。ちょっと待ってろ!!」


 私の様子を見て、トーさんはかなり動揺した。そして、ゴミ袋を急いで片付けると、小走りで部屋に戻って行った。


 「ちょっと急いで部屋を片付けてくる。そこで待ってな!」


 私は無言で頷いた。そのとき、心から「トーさんは優しいなぁ」と思った。本当にそう思っていた。




 幾許(いくばく)かし、トーさんは、ドアを鶏卵一個分入るくらい開けて、その隙間からこちらを覗くようにして、私に「入ってこいよ」と言った。


 「失礼します」


 私は言った。玄関で靴を脱いで、トーさんの敷居に再び足を踏み入れた。私はゆっくりと膝をついて座ると、トーさんがまじまじと顔を見ながら聞いてきた。




 「で、どうしたんだ?気まずいことでもあったのか」


 「い、いや、別に」


 私は少し息を呑んだ。戸惑いを押し殺していた。自分がどんな状況にあるとか一切考えたくなかった。しかしまだ未熟な私にとっての罪の重さを身の丈以上に受け止めていたのだった。その為、私の心は「困惑と焦り」ではち切れそうになっていた。正直トーさんからも、これ以上、「私に質問しないで欲しい」と思っていたのだ。


 「まぁ、俺も張り詰めた空気はあんまり好きじゃないし。気を楽に持っていこうぜ。あんまり強張ると精神死ぬから」


そう言ってトーさんはニッコリと笑った。私にとってそれが救いだった。


 「相談したくなったら、そのときは、遠慮なく言えよ。これから長い付き合いになりそうだしな」


私はその言葉に少しずつ信頼し始めていた。トーさんは多くを語らない人だったけれど、私はトーさんを全面的に信頼していた。「言うべきとき」が来たら、キチンと話そう。そう心に決めていたのだった。そして「ありがとう」と感謝を述べたのだった。

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