【第二部】第一章「街を歩く」



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 勢いで家を出てきてしまった。実際出てきたものの、どうやって過ごそうか。この先、どうやって凌ごうか。そんなことを考えている自分に気が付いた。なにより後ろめたい気持ちが押し寄せてくる。私は人目に付かない路地裏に逃げ込んで身を隠して泣いていた。家に戻りたかった。自分の家に。でも戻れなかった。しばらくは戻りたくなかった。




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 私はそれからネットカフェに入って夜を明かした。そして朝になって街を歩いてみた。市街地は人が溢れていた。それに紛れれば、この孤独感が少し癒える気がしたんだ。しかしこの大人数の人混みで、私と血の繋がっている家族はひとりもいない。それを考えるとまた寂しくなった。




 少し港の方にも出てみた。そこはヤンキーがたむろし、バイクの排気ガスのむせ返る匂いと潮の匂いが混ざって新鮮だった。少しばかり、風に当たりながらゆっくりと時間をかけて港を歩いていた。すると私に向かってゆっくりと、ドクロや獣の牙を描いた黒いマスクをした悪漢二人が近づいてきた。少し寒気がした。


 ちょうど間合いが五十センチくらいだろうか。目線を屈めるようにし、窺うように聞いてきた。


 「お嬢ちゃん、可愛いねぇどっから来たの?一緒に遊ばない?」


 私はしまったと思った。でも不思議だった。今は綺麗な服も身につけていない、表情は笑顔がないのにどこに魅力があるのかと。どうして、私なんかに「声を掛けてきたんだろうか」と思ってしまった。しかし悪漢二人はひそひそ囁くように相談をしていた。


 「このまま攫(さら)って売り飛ばしたらいい値段になるな」


 「そうだな。ここら辺、歩くってことは身元がはっきりしてないわけだしな」


 「そうそう。顔もいい線いってるし、スタイルもそこそこいいし」


 「大丈夫。大丈夫。うまくやれるって」


 悪漢二人のやり取りが気持ち悪いと思った。そして、寒気がした。下衆な笑いを浮かべている悪漢二人が私に近づいてきたので、私は全力で走った。


 「あ、この野郎!待ちやがれ!!」


 悪漢たちは、逃げる私の姿を見て追いかけてきた。




 怖い、怖い!!あいつら何か怖い!!息が切れる。膝が笑う。頬は上気し、もう休みたい。しかし、あいつらは半笑いを浮かべて走って、走って、追ってくる!!追いすがってくる!!私は自分の考えの甘さを痛感した。「鏑木市の港は危ない人が多い」という話を聞いていたからだ。


 悪漢たちは私に追いついた。そしてドクロのマスクの方に私は腕を掴まれた。私は気が付くと、無意識に母親のことを叫んでいた。


 「離して!!悪いことはもうしないから。おかあさーん!!ごめんなさい!!」


 「しばらく戻りたくはないと思っていたあの家」に少し未練があったのかも知れない。いや、確実に恐怖心から来ている。私はそう、思い直した。


 「おとなしくしろ!!」


 ドクロのマスクの方は、私の手首を掴んで、青あざが付くほどに力強く握った。思わず痛みに目を瞑(つむ)った。その男の目は、あたかも獲物を捉え、下衆な、不敵な笑みを浮かべたように見えた。魔女釜で色んなものを煮ている魔女のような目をしてニヤニヤと笑っていた。


 「助けてー!!!!」


 私は腹から精いっぱいの声を張り上げ、渾身の力で周囲に叫んだ。息切れしていた喉から溢れ出る声。その声が周囲一面に轟いた。しかし周りにとってはあまりにも日常的なことなのだろうか。私は周りの人から冷めた目で見られていた。


 通行人は「我関せず。見ざる。聞かざる。言わざる。」の三猿状態。私は「もう諦めて、このままどこかに連れて行かれるのも悪くないかな」と思ってしまっていた。それだけ、今の私の心理状態はどこか自暴自棄になっていたのだ。




 そのときだった。私の前からふわっと清涼感のある香水の匂いが薫った。目を上げて見るとブラウンジャケットとネイビーチノパン、そしてサングラスをした、背丈の高い金髪のジェットモヒカンの男性がいた。私の身を案じていたのか声を掛けてくれた。


 「や、やっと見つけた!探してたんだぞ!」


 「え?今度は誰?」


 私は男性の言うよく分からない言葉に対して、ひどく戸惑った。思考もあまり追いついてなかったのだ。悪漢二人は、突如現れたジェットモヒカンの男性を睨んでいた。


 「なんだよ、お前、邪魔すんなよ!」


 「そいつ、俺の知り合いなんだよ、返してくれ」


 「はぁ?嘘つくな。どうせ見かけたから助けようとしてるんだろ?うまくやろうったって、そうはいかないぜ」


 私は「誰でもいいから助けて欲しい」と思っていた。ドクロのマスクをしている方は喧嘩に自信があったのだろうか。ジェットモヒカンの男性を、喫茶店の横にある路地裏へ連れ込もうとしているのがすぐに分かった。悪漢は二人で「現れた男をぼこぼこにしてしまおう」と思っていた根端がすぐに分かった。


 「まあまあ、話し合いは路地裏でやろうじゃないの。真っ昼間、色んな人が見ているんだし」


 そう言ってもう片方の連れ、獣の牙のマスクの方が、親指で喫茶店の横にある狭い路地裏を指さした。


 「分かった。じゃあ俺が話し合っている間はこの女の子に手を出さないでいてくれよな」


 ジェットモヒカンの男性は、なぜか自信満々に、不敵な笑みを浮かべた。グラサンをしていたから分からなかったけれど。そしてブラウンジャケットの内ポケットからペンを出すと胸ポケットにしまい直した。


 「しばらくお嬢さんはそこで待ってな」


 私は頭を撫でられた。このまま逃げることも出来たんだけれど、ジェットモヒカンの男性に興味が湧いていたのだろうか。しばらくそこで待つことにした。




**


 「こっちから行かせて貰うぜ」


 「ああ、構わないさ」


 ジェットモヒカンの男性は、二人の悪漢にされるがままにされていた。頬を殴られ、目を殴られて腫れて。顎を殴られてまともに立てなくなった。そして、腹を殴られてすっかり気絶しそうになっていた。


 「こいつ、弱いな。マゾなのか?」


 「そうだな、まったく手を出さないぞ」


 あまりにもあっけない悲惨な結末。しかし二人の悪漢は違和感を薄々感じていた。ちらりと男性を見ると苦しみながらも勝算を感じていて、勝気になってにやりと笑っているのを見たからだ。


 「お前、なんか企んでるだろ」


 「いやー別に。お前ら、なんか弱いやつを虐めててみっともないなぁ。って思っただけだ」


 ジェットモヒカンの男性は立ち上がって、服の埃(ほこり)を払った。そして次の瞬間驚くべきことを言った。


 「実はな、今、俺はこっそりと胸に仕込んでおいた小型カメラで、お前らの顔をばっちりと収めていたんだ。これを『然るべき場所』に出したらきっと偉いことになると思うぜ?」


 二人の悪漢はその言葉を聞いてとても不快になった。そして、「そのカメラ」を奪おうとして、ジェットモヒカンの男性に同時に襲い掛かってきた。しかしジェットモヒカンの男性は私の方を見ると、私の上の方向に向かって「一本のペン」を投げ、そのペンはそのまま私の手元に落ちた。そのペンを私が拾うと、そのまま男性は「逃げろ!」と大きな声で言った。私は戸惑いながら、そして言われるまま宛てもなく走って逃げた。不意をつかれた二人の悪漢は、どちらを襲おうかと一瞬戸惑い、二手に分かれて、獣の牙のマスクの方が私を追って来た。しかし、ジェットモヒカンの男性は引き続きドクロのマスクの方と交戦をしていた。




 一時間ほどして、私は獣の牙のマスクの方を撒いてから、喧嘩も落ち着いたかと思う頃に、私は先ほどの、喫茶店の横にある路地裏へ様子を見に行った。そこには傷だらけの状態で、ジェットモヒカンの男性が横たわっていた。どうやら「このまま喧嘩をしてても、無意味だし面白くない」と悪漢は思ったのだろうか。ことが終わって、ジェットモヒカンの男性は、横になりながら苦しそうに息をしながら私に言った。


 「……ああ、お前か。このままどっかに行けばよかったのに」


 「行けるないじゃないですかっ!……ねぇ、なんで私なんかの為に殴られたんですか?見る限り、強そうに見えないのに!」


 私は、その男性のあざだらけになった顔を見ながら涙ぐんでいた。男性は少しなにかを言いかけたが、黙った。そしてまた痛がりながら話してくれた。


 「おまえが……いや、今は言えないな。……俺が『殴られ損なんて安っぽい仕事』するわけねーだろ。ちょっと貰い過ぎたけど。いてて」


 「わけ分かんないよ!ホントに!ちょっと待ってて下さい!」


 私は喫茶店に入ると氷を貰ってきた。そして持っていたハンカチを、蛇口の水で濡らして、横たわっている男性の、顔の腫れている所に押し当てた。男性は痛みに苦い顔をする。男性の顔はそこかしこ傷だらけだった。青あざや擦り傷が、顔にはたくさんあった。私は持っていた絆創膏を、一枚ずつ剥がしながら、男性の顔の傷に貼っていった。


 「……この怪我の支払いはだいたい五十万ってとこか」


 ぼそっと打算的な言葉が聞こえる。気のせいかな。そして男性は私に忠告をした。


 「あそこの港は、昼夜問わずに『カラーギャング』がたむろしているから気を付けろ。お前、見るからにどうせ家出したんだろ?」


 「へ?なんで分かるんですか?」


 「いや、なんとなくだよ。あと色々こっちも知ってることがあるんだよ!あまり自分の身を危険に晒すな!」


 私は見ず知らずの男性にお説教された。でもなぜだろう。悪い気はしなかった。男性には色々と聞きたいことがまだまだあったのだけれど、私はまず男性に「言うべきことがあるだろう!」と自分に言い聞かせた。


 「……助けてくれてありがとうございます」


 「……どういたしまして」


 私は走り回っていて、そしてひと段落して。身体も心も落ち着いたのか、とてもお腹が空いた。気が付くと二時を過ぎていた。男性は私の表情を見たのだろうか。男性は言った。


 「お前、腹減ったろ?そこの店でメシにしようぜ」




**


 私は「驕(おご)るから」と言って、男性が聞かないのでその言葉に甘えて喫茶店で食事を取っていた。


 私は当たり障りのない範囲で、男性に身の上の話をしてみた。


 「そんな事情があったのか。俺も小さいときも辛い目に遭ったからなぁ」


 男性は痛めた頬を擦りながら頷いた。そして、私に続けて言った。


 「考え方も、人それぞれだが、自分の気持ちが落ち着くまで考えろ。だが俺にとって、今の状況に身を置くことが最善とは思えないけどな。やっぱり家に戻って状況を受け入れることがいいんじゃないか?親元に居るのが一番安全なんだよ」


 私は残してきた母親と妹の顔が浮かび、ずきんと胸が痛んだ。そして男性は、メニューとして頼んでいたオムライスの中央にスプーンを突き立てると言った。


 「『策士、決断にして成らず』。これは俺が読んでいる本の一節だ。どんな作戦にも、行動にも。迷ったとしても、最後は意を決した決断が大切なんだぜ」


 そう言うと男性は刺していたスプーンでオムライスを口に運んだ。私はその本はどんな本だろうかと思いつつ、その言葉を真摯に受け止めていた。そして運ばれてきたベーグルサンドを咀嚼しながらと五分間たっぷりと考えていた。


 「決断か。……それが出来たらどんなに気持ちの良いことか」


 「なにごとにも堂々として、ゆるぎない信念を持っている。そうして生きている人って本当に強いんだろうな」と私は思った。そう思うと、そんな人を私は、羨ましく思ったのだった。


 「まぁ、俺が思う以上に相当重いな。ただ、黙ってても答えは見つかんねぇぞ」


 男性はブラウンジャケットの胸ポケットから、煙草とライターを取り出した。そして煙草を咥えて火を点けた。


 「まあ、ガキの頃は悩むもんさ。俺ももう三十くらいになるけど、お前くらいの時に散々悩んだのを思い出すよ」


 「おにいさんは、どうしてそんなに堂々としているんですか?」


 私は一番疑問に思っていたことを聞いてみた。この人は私と似ている。けれどなにか他人を寄せ付けないオーラと堂々とした気迫がある。そう思ったからだ。


 「言ったじゃねえか。うだうだ考えてて悩んでても損だって。楽しいことは単純に得して、悲しかったことは損する。けどそんなに負の感情をまとってても、どんどん気持ちが滅入って腐るだけさ」


 男性は「うだうだ悩まずに単純に考えろ」と私に言い聞かせた。そして口から白い煙を吐き出した。私は煙草の煙にむせた。男性は「悪い悪い」と言ってそっぽを向いた。


 「どうせ家に帰りたくないんだろ?だったらうちに来るか?二、三日過ごしてさっさと家に帰れ」


 男性のその言葉に私は驚いてしまった。私は少し不信感はあったものの、身を挺して自分を守ってくれたことと、一時間足らずの言葉にすっかり信頼してしまい、そのまま男性の身元に身を寄せることにしたのだった。


 「……いいんですか?私が行って迷惑しませんか?」


 「いいんだよ。訳あって使いきれないお金があってな。お前の親父の代わりにでも、慕ってくれればいいし」


 「そうだ、名前を聞いてなかった。おにいさんの名前は……」


 私がその一言を言った瞬間、男性は明らかに表情を曇らした。気分を害したのだろうか。


 「会って二三日、過ごすだけだし、名乗る程のもんでもないよ。お前だってそうだろ」


 「そうですか……」


 そう言って私は残念に思った。私も名前を名乗れば彼は言ってくれるだろうか。そう口を開こうとした……。


 「いいや。俺は仮にも、お前の父親代わりだから『トーさん』とでも名乗っとこうか」


 「『トーさん』……」


 私はその名前にしっくり来た気がした。呼びやすい、暖かい名前だと思った。そして「トーさん」は言った。


 「いいよ。お前も。俺なんかに名前を教えなくてもいい。俺とお前が最低限『深入りしない境界線』それが名前だと思っていればいい。俺が誰でどんなやつであるか。そんなことは分かんねぇんだろ。まあ俺は取って食いはしないがな」


 そう言ってトーさんは笑った。なぜか分からないが、私は彼に少なからず魅了されていた。危ういその魅力に惑わされつつ、私はトーさんに行く自分の行く末を委ねることにしたのだった……。

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