第4話 トライアングル

はい。そうです。娘のためでした。娘を傷つけたあの男を許せなかったんです。娘を幸せにしたかったんですよ。それだけだったんです。

 娘にあの男を捕まえたのを見せたら、それはそれは大喜びで。娘も私の余興に参加したいと言ってきたんです。だからたまに一人で行って、おそらくは楽しんでいたんでしょう。はい。

 それではなぜ娘が私を裏切って通報したかって? まあ、当然といえば当然ですよ。

 娘の好きな人を殺そうとしたんですからね。

 どうしたんです? おかしな顔して。今の話を聞いて理解できなかったんですか? すいませんね。きちんと説明しますよ。



























 目が覚めたら、見覚えのない真っ白な天井が俺を無言で出迎えた。ゆっくりと首を動かす。ベッド横にある机には俺の部屋のノートパソコンと一瞬何が起きたのか理解できずに、記憶をゆっくりと辿る。

 俺は、バスの中で海と心中を図ろうとした。そこに、あの男。真犯人は雨口真理亜じゃなく、全く無関係のあの男だった。結局あの男は何者なのか。動機は何なのか。そして、一番の謎は、雨口真理亜がなぜ通報できたかということだ。

 指を所持していた時点で雨口も関係者なことは明確だ。じゃあ、通報の方法も疑問だが、通報する意図もわからない。知っているならもっと早い段階で通報しているはずだ。なぜ最初の時点で通報しなかった?

 そして今一番の疑問は。細瀬川海がどこにいるかだ。

 疑問は尽きないまま、個室のスライド式ドアが開き、看護師がツカツカと入ってきた。

「あ、鈴谷君ですね。目が覚めましたか」

 明るい声で看護師は微笑む。

「は、はい」

「どうですか? 体調のほうは」

「なんとか、大丈夫そうです」

 見たところ怪我はなさそうだし、頭もはっきりしている。

「そう。よかったわ。体の怪我はないみたいだし、たぶん明日には退院ね」

 看護師の明るい言葉は耳に全く入ってこなかった。

「あの、海……細瀬川海は、どこですか?」

「ああ、細瀬川君ね。今は別の個室で眠っているわ。ちょうどこの真上の階の部屋ね」

 何とか命があることに安堵する。あのまま殺されていたら、何も報われない。俺だけ生き残るなんて。自殺するしかなくなる。

「あのね。鈴谷君。もしよかったらなんだけど。今警察の人が外で待っているの。もし大丈夫なら。お話、してあげてくれる?」

 警察。現実的で権力的なその単語に悪寒が走る。どこまで話していいものか。実害は加えていないが、すぐに通報しなかったのは罪だろうし。

「……わかりました」

 看護師はうなずくと部屋を後にし、そこからノソノソと、無精ひげを生やした中年男性が笑みを浮かべて入室してきた。

「どうも。鈴谷くんだね? 刑事の宮田です。少しお話いいかな?」

「はい。いいですよ」

 質問内容は単純極まりなかった。警察二人は、俺があの日、たまたま細瀬川海を発見しているところを雨口幸雄こと雨口真理亜の父親に見つかった前提で話を進めていた。だから俺自身を責めるどころか、親友を傷つけられたことを気遣ってくれさえいた。

 雨口真理亜のほうは、父親の強い言葉と意志で通報する勇気がなかなか出なかった、ということになっている。そして勇気を出して通報し、結果的に俺を救ったということも。

「彼女の事情聴取はもうとっくに終わっている。いずれ君のところにお見舞いに来るだろう。どうか、彼女を責めないでやってくれ」

「……そうですか。あの、その父親のほうは」

 警察は顎に指を当て、目を閉じた。

「実はあれから一言も何も話さない。言い訳も何もだ。だから、娘の片思いの相手の細瀬川君を誘拐し、痛めつけた。それが結論になりそうだ」

 警察はそう言い残すと病室から出ていった。

 言われてみれば、俺は雨口が直接海に手を出しているところを見ていないし、監禁した犯人である決定的証拠を持っていない。……本当に俺の勘違いか?

 結果的に俺は海の命を救ったかもしれない。けれどそれは偶然の産物でしかない。勝手に欲望のままに動いて、勝手に勘違いして、勝手に心中を決意していた。

 自分はなんてことを考えていたんだろう。

 自分の愛が人とずれた、まともではないことはわかっていた。けれども人としての良識を完全に捨てていた。

 一人になったとたん布団にうずくまり、今すぐ誰かに殺してほしいと思った。けれどそれは責任の放棄であると同時に、償いの放棄に近い。

 今、俺にできることは何だろう。

 海に謝ることか? いや、謝ったところで海に何の得があるというんだ。俺の罪悪感を消すために、あいつを傷つけていいのか?

 自分の罪の意識と戦っている最中に、病室のドアが再び開く。その姿は看護師でも、警察でもない。

 おかっぱで小柄な容姿の同い年の女の子。雨口真理亜がそこにいた。

「鈴谷君、体は大丈夫?」

 両手には黄色に白と色とりどりの花束がそっと抱えられている。小柄な雨口が持っていると、ただでさえボリュームのある花束がより大きく見えた。

「ああ、そんなに怪我はないし。明日にはたぶん帰れると思う」

海はもうしばらくかかるかもしれないが。

「そうなんだ。あのね、鈴谷君。いろいろ、聞きたいことがあると思うの。今度、私の家に来てくれる? 全部話すから。細瀬川君のことも。お父さんのことも」

 雨口はそう言いながら花束をそっと俺のベッド横の机に置いた。

「それは、今じゃダメなのか?」

 後日に回す理由がわからず、そう尋ねる。

「うん。家で少し見せなきゃいけないものがあるんだ。それがないと、全部説明できないの」

 雨口はうつむきながらそう囁く。その様子はクラスメイトを監禁した人間の態度には見えなかった。

「……わかった。雨口。俺はお前を疑っていた。でも、事情があることも警察の人から聞いた。だから、そんなにおびえる必要はない」

 それに、俺のほうも雨口に伝えなければいけない。自分がなぜ、あんなところにいたのかを。

「ありがとう。鈴谷君。やっぱり鈴谷君はやさしいね」

 やさしい人間は好きな人が監禁されているのに心中を図ろうとはしない。

「ねえ。細瀬川君の部屋ってどこ? 一応細瀬川君もお見舞いしておかないと」

「ああ、あいつならここの真上だって」

 そうだ。どうせ使う気分でもない。隣にあるノートパソコンを退屈しのぎにでも貸してやろう。パスワードは確か知っていたはずだ。

「雨口。あいつも退屈してるだろうし、俺のパソコン持ってってやってくれないか?」

 雨口はにこりと頷き、パソコンを受け取った。

「あ! そうだ鈴谷君。忘れてた。これこれ」

 ごそごそとカバンを探り出す雨口。中から取り出したのは、俺が以前忍び込ませていた音楽プレイヤーだ。

「ああ、」

 慌てて口を紡ぐ。危うく自白するところだった。「どうして雨口が?」とりあえず無難な質問をする。

「わからないの。カバンに入ってたから。クラスの人も違うって言ってたし、これ鈴谷君が使ってたの前に見てたから」

 雨口は音楽プレイヤーを手渡す。

「ああ、ありがとう」

 立ち上がろうとベッドから起き上がるも、それを起こす腕の力が想像以上に低下しているのか、力が抜け、ベッドに再び倒れ込んだ。

「……すまん。上着のポケットに入れといて」

 情けない話だった。

 その日は簡単な運動をリハビリの先生に指導され、眠りについた。海に会いたいという思いと、会ってはいけないという二つの気持ちが両立している。けれど体を言い訳に、結局会いに行くことなく、退院した。

 その日の深夜のことだ。携帯に雨口からのメッセージが届いていた。

『今すぐ出られる?』

 窓の外を見ると、雨口が白いワンピース姿で小さく手を振っていた。

 足音を立てないよう爪先で慎重に階段を降り、静かに玄関を開ける。雨口は今までに見たことがないような眩しい笑顔を浮かべていた。目元や唇を見ると化粧を薄くしているようにも見える。

「ありがとう鈴谷君。こんな遅くに」

「いや、大丈夫だよ」

 もし真実があるのなら、知りたい。不可解な点がすべて明らかになったところで、何も変わらないのはわかっている。

 それでも、知りたい。起こってしまった事実を、きちんとした裏付けをもとに消化したい

「歩こうか」

 そういうと雨口はごみ山がある住宅地に歩き出す。

 歩いている間、俺たちは一言も会話を交わすことはなかった。夜中の田舎町に人通りは皆無で、世界に俺と雨口だけがいるみたいだった。雨口の歩く姿はまるで、遊園地に行く子供みたいに、軽やかだ。

 油断したら置いていかれそうだった。

 数十分後、今となっては懐かしい住宅街にやってきた。道が仄かに街灯によって照らされている。雨口と書かれた表札が置かれた家の前で、彼女は立ち止った。

「冷えるね」

 雨口がそう呟いた。

「真冬だからな」

 そう返すと雨口は鍵穴に鍵を差し込み、家の中に足を踏み入れた。

「ただいま」

 彼女のその声に返事をする者は誰もいなかった。彼女の父親は今頃刑務所だろうか。結局何か証言をしたのだろうか。

「入ってよ。尋人君」

 初めて下の名前で呼ばれ、ぴくっと体が反応する。首をかしげながらも家の中に俺も入る。玄関の電気をつけられ、見通しが良くなりほっと息を吐く。靴を脱ぎ、雨口の後を着いていくと、広々としたリビングに出た。

「座って」

 雨口はリビングのソファを指示した。おとなしくそこに浅く腰掛ける。深く腰掛けられるほど心は穏やかではない。俺が座ると雨口も、どさりとソファに深く座り込む。

「私ね」

 唐突に雨口が口を開いた。

「尋人君のことが好きだったの」

 突然の言葉にすべての時間が止まったような気がした。真冬のはずなのに、冷汗が背中にじっとりと滲む。人に好意を告白されたのは初めてだった。けれど、初めてがこんな場所で、しかも海のことが好きなものだと思っていたのに、雨口の思い人が、まさか俺だとは……

「びっくり、したよね」

「……少し、な」

 動揺が隠せず、体が少し震える。信じていた事実が真逆だった。それが自分の中にあった概念が崩れ去る。

「それと、もう一つ。伝えなきゃいけないことがあるの」

 今度は何だ? そう聞こうと思ったときだった。それより先に雨口の言葉は紡がれた。

「私ね、……のことが死ぬほど嫌いだったの」

 一瞬、雨口が何を言ったかわからなかった。外から車が通る音もせず、まるで今自分が夢を見ている気分になる。

「雨口?」

 聞こえているのに、聞き返す。

「今、なんて言ったんだ?」

「聞こえなかった? 私ね」

 雨口はぐっと体を乗り出し、俺をソファに押し倒すような体制をとる。雨口の甘い吐息が首筋にかかり、心臓が高鳴る。それはときめきとは程遠い鼓動の早まりだった。

 雨口真理亜は人間だ。それなのに、今はそうは思えない。

「私ね、細瀬川のことが死ぬほど嫌いだったの」

 自分の信じていた概念がもう一つ、崩れ去った。

 雨口はさらに距離を詰める。

「それともう一つだけ。あなたが、細瀬川のことを好きなことは知っていたの」

 衝撃の嵐が頭を真っ白にする。次の言葉も、ふさわしい表情もわからない。

 誰にも打ち明けていないのに。誰にも悟られないようにしていたのに。

「見てたんだよ? 私。あなたが細瀬川がチョコをもらっているのを見ているのを恨めしそうに見ていたところも。こっそり靴箱に紅茶の詰め合わせを入れていたのも。そしてそのついでに靴の臭いを嗅いでいたのも。全部。全部。その時思ったの。ああ、尋人君も私を同じ種類の人間だって。好きな人の臭いなら何でもいいって。好きな人のすべてを手に入れたい人だってことも」

 雨口の口調はどんどん早く、大きくなっていく。暗かった部屋だったが、目が慣れてきて雨口の顔がはっきりとしてきた。

 雨口の目は虚ろに俺を見つめている。その目に光はなかった。

「私もあなたがほしかった。でもね、私は好きな人には幸せになってほしい人なの。だからなんとか尋人君が細瀬川と結ばれる道はないのかなって。でもそれには細瀬川のやつが精神的に受け入れられるかどうかってこと。それが重要だと思ったの。だから、あの日。覚えてる?」

「バレンタインの日か?」

 あの日。あの日がすべての始まりだった。

「そう。察しがいいね。さすがは尋人君。素敵。そうだよ。あの日、細瀬川に軽く聞いてみたの。尋人君のことどう思っているのかって」

 雨口の話は止まらない。その先のことは、本能的に聞きたくないと思った。

「殺してやろうと思ったの。あいつ。あの男ね、尋人君のこと、なんとも思ってなかったどころじゃなかったの。あんなひどいことを言う人に、尋人君の心は奪われてしまったんだって。信じたくなかった。信じられる? あの男、尋人君のこと」

 そこで雨口は言葉を一度切る。真剣だった表情の口元は緩み、にんまりと笑った。

「あなたのこと、気持ち悪いって言ってたの」

 それは、どういう意味なのか。

 どういう冗談なのか。

 そして、どう受け止めればよかったのか。

 俺には何もわからなかった。

「精神的な受け入れは無理だと思ったの。だから、肉体的な支配しかないと思った。そのことをお父さんに泣きながら相談したの。細瀬川を監禁したいって。私の大切な人を傷つけるあいつを、めちゃめちゃにしてやりたいってね。快く了承してくれたんだ。ほんと、最高のお父さん。指を切り落としてわかりやすく持ち歩いたら、見事に、あなたが釣れたの。あなたなら来てくれると信じていた。お父さんは細瀬川のことを殺すのに時間がかかりそうだったから、あなたが彼を好き勝手する時間は十分あると思ったの。少しの間だけでも、夢を見させてあげようかなって」

 雨口はポケットから何かを取り出す。それは料理の時に使うピーラーによく似ていた。

「あんな男でも尋人君が好きだったなら、その方があなたは幸せだと思ったの。でもね、もう限界。今度は私の番。私が、あれだけ我慢したんだから、今度は、私の番」

 電流の走るような、何かがはじけた音が聞こえた

「あんな男のこと忘れなよ。私があなたを幸せにしてあげる」

 首筋に猛烈な激痛が走るとともに。全身の力が抜け、やがて意識は消え去った。

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