第3話 夢

 勇気のいる決断なことはわかっていました。

 まともなことではないのは理解していたし、人として許されることでないことくらいわかっていました。彼を幸せにするための手段として歪んでいるのはわかっています。

 それでも選ぶことにしたんです。私と同じ彼なら、きっとわかってくれると。

 まあ、私自身も気持ちいいし、それはそれでありかなって。

 ここからどうやって行こうか。悩みながら彼の写真を眺め、キスをすることにしました。

 何から始めようかと考えたとき、爪がほしいと思ったんです。

 わかるでしょ? だって、私、あの男のこと。




























 細瀬川海に思いを寄せていた事実は、一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、苦しくなった。家に泊まりに来た日なんて、キスをしたい衝動を抑えるのにどれほど苦労したことか。そんなたまりにたまった数年来の欲望欲望を発散するのに、雨口真理亜には心から感謝しなければならない。指の断面には粗末に包帯が巻かれていて、先端が朱色に滲んでいた。包帯を外し、断端部にキスをしたいところだったけれど、傷口が化膿してしまう恐れもあるため、また後日包帯を持って巻き替えてやる際にすることにしよう。

 立ち上がり、細瀬川の口元に巻かれた猿轡をのける。

「……はあ、はあ」

 息切れと共に細瀬川の声が聞こえる。その呼吸音が妙に色気があって、込み上げてくる胸の高鳴りは限界値に達した。

自分の唇を細瀬川に押し付けた。初めての細瀬川の唇の感触は熱っぽく、全身がとろけてしまいそうだった。

その感覚が癖になってしまい、何度も何度も押し付ける。啄む。吸う。その過程を繰り返しているうちに物足りなくなり、いつの間にか自分の舌を入れていた。細瀬川は抵抗の意志を示すかとも思ったけれど、何もかもを諦めているのか、何の反応を示さず、歯を食いしばることもしなかった。

 今細瀬川に自分の意志は存在するのか。雨口真理亜に何をされたのか。何を目的でこんなところに閉じ込められているのか。雨口が細瀬川のことが好きで残虐的な趣味を持っていて、それで指を切り落としたと考えるのが一番自然だけれど。

 うれしい反面複雑でもあった。人間としての細瀬川が、どこか遠くに行ってしまったのではないかという。小一時間細瀬川と絡み続けていると、辺りはすっかり闇に包まれていた。

 そこからごみ山を後にし、家に帰った。

 細瀬川を開放することも考えた。けれども、この機会を逃すのは勿体ない気もしたし、何よりもこのままの状態であれば、細瀬川が引っ越すことはなくなるのだ。

 細瀬川と俺をつなぎとめるための唯一の糸だった。

 次の日も、同じように、同じ時間にバスへと向かう。細瀬川の捜索は他市にまで及んでいるようで、逆に近辺の捜索は手薄になっているという話だった。これでより一層細瀬川が今の状況から脱却することがなくなった。

 喜びと共に細瀬川の目の前に行く。指の包帯を巻き治す途中、断面部分にキスをした。その時だった。右手の親指を見てみると、爪がなくなっていた。爪の下にはかさぶたができていて、赤く染まっている。

 雨口がやったのか。何のために。そう思いながら爪の跡にキスをした。今日は細瀬川の服の下に手を伸ばした。今までに触れたことがない部分に触れ、舐め、汚す。そのたまらない背徳感に胸が躍った。

 次の日も。次の日も。細瀬川との絡みを続けた。

 雨口は俺の介入に気が付いているのだろうか。包帯のまき直しはさすがに怪しまれるかと思ったが、特別彼女からの介入はない。

 ただし、細瀬川には明らかな変化が増えていった。

 爪が、毎日一枚ずつはがされていた。

 右親指。中指。薬指。小指。次に左手だった。左手の親指。人差し指。中指。薬指。小指。その次は足だった。もともと靴も靴下も脱がされていたため、足のつめの変化も視認できた。最初のほうにはがされたの跡は黄色に毒々しく化膿しており、新しい生き物が誕生しているような不気味さを覚える。

 細瀬川がその痛みを感じているのかどうかはわからない。たまにうめき声をあげることはあっても、それが何らかの言語には聞き取れない。

 今彼はどんな感情なんだろう。

 最後の爪が剥がされるとき、雨口は何をする気だろう。

 目玉をえぐり出すつもりだろうか。局部を切断するつもりだろうか。耳をそぎ落とすつもりだろうか。それとも鼻か? 唇か?

 今の状況を幸せには思っているけれど、これ以上彼の一部を奪われるわけにはいかない。どうせなら俺もほしいところなのに。

 そんな時だった。

 近くの座席に見覚えのない新しい物が増えていることに今更気が付く。細瀬川に密着していた体を離し、その物に近づく。

 座席の上には赤いポリタンクが置いてあった。キャップをくるくると回し、中を見る。

 鼻を刺すような強烈な臭いがバス内に広がる。

 それは嗅いだことのある懐かしい臭い。ガソリンの臭いだった。

 咄嗟に爪を剥がしていた理由を理解する。

 二十枚ある爪を。毎日毎日一枚ずつ。一枚ずつ剥いでいく。それが、もし細瀬川を殺すカウントダウンを意味していたのだとしたら? 残りはあと、1枚。今日が最後の日ということは明日、雨口が細瀬川の爪を剥ぐと共に、このバスを焼き払うつもりだ。

 雨口が今までしたいたことが歪んだ愛情の裏返しなのだとすれば、雨口のその後の行動は理解できる。

 雨口は、細瀬川と一緒に死ぬつもりだ。

 なら、どうする?

 細瀬川を助けるか? 助けたら俺は彼の中でヒーローだろう。でも、それは、距離が離れてしまうことで終わってしまう。細瀬川が永遠の存在でなくなってしまう。

 ならば、こうするしかない。

 細瀬川と、雨口より先に一緒に死んでやる。

「なあ、そうだろ? 細……いや。海」

 そう下の名前で囁く。

 海はピクリと顔を動かしたように感じたが、結局何も言葉を発しなかった。

 今すぐ死んでもいいところだけれど、それでは面白くない。雨口が来る直前くらいに火をつける。それで完了だ。雨口は驚くだろう。自分が死ぬつもりだったバスに先に火がついて、違う男が死んでいるんだ。こんな喜劇はないだろう。 明日は学校を休もう。そして、雨口が来るのを見計らって、火をつけるんだ。

 次の日。学校には行かず、直行で例のごみ山に向かう。ごみ山に向かう場面をあまり人に見られないようにするのがポイントだ。ここで計画が断念しては困る。

 バス内にはいつも通り海が両手を縛られ、目隠しをし、ぐったりとしている。一体どうやって生きているんだろう。雨口が簡易的に食事でも与えているのだろうか。

「あんな女より、俺と死にたいだろ?」

今思えば明確に心中の意を言葉にしたのは初めてだった気がする。何らかの意志を示すかと思ったが、特に何の動きもなかった。

それにしても何の飾りもなしに死ぬのも味気ない。花束を一輪くらい買って飾っておいても罰は当たらないだろう。海に背を向け、バスの中を後にする。ごみ山の外に置いてあった自転車に飛び乗り、近所の花屋までペダルを動かした。向かっている途中、ごみ山近くの住宅地の中の表札にたまたま雨口の名前があった。近所だから犯行がしやすかったのだろうか。まあ今更犯行の経緯を考えたところでなんだという話だが。

 花屋で適当に花が生けられている花束を二千円程度で購入し、ついでにコンビニでマッチを購入した。花束とマッチを携帯する男子中学生はおそらくこの町で俺だけだろう。

 ごみ山に戻るのにそんなに時間はかからなかった。何度も来ている道なだけあって慣れもあるだろうが。

 バスの中に戻ると、そこにはさっきと変わらず海がつながれている。当たり前の事実なのにどこかホッとした。

 ガソリンのタンクを手に持ち、バス内にトポトポと音を立てながらまいていく。まるで規模の大きな床掃除をしている気分だった。けれども、まかれているのは水ではなくガソリン。鼻を刺すような臭いがバス中に充満し、思わず頭がくらくらした。自分にも、海にも念入りにまき、ギトギトとした感触は気持ちいいとは言い難かった。全ての中身を消費し終えたあと、タンクを乱雑に床へと投げ捨て、海の横に座り込んだ、

 とてつもない脱力感に襲われ、動く気は完全に失せた。聞こえるのは細瀬川の苦しそうな吐息だけだ。その状況が妙に心地よくて、しばらくはこのままでいたいと思った。

 けれども、その状況は、わずか五分で終わりを告げた。

 始まりは重い鉄の音だった。その音がバスのドアが開く音だと気が付くのに少しだけ時間がかかった。

 冷静に考えるべきだった。

 雨口に、同い年の男子生徒を拉致監禁する力なんてないことを。

「誰だい? 君は」

 身長百八十はあるであろう白髪の男はそう言った。

「え……」

「なんだい、この臭い。私はまだ、まいちゃいないよ?」

 男は無表情のまま詰め寄ってくる。怒りをあらわにしてくれた方がどれだけましだろう。そんなことを考えている暇もなく、男は距離を縮めていく。

「まだこの子の爪しかはがしていないんだ。まだまだあるんだよ。目も。鼻も。耳も。歯も。足の指も。手の指も。あそこも。足首も。手首も。右腕も。左腕も。右足も。左足も。髪の毛も。まだなんだよ。最後の最後に首を落とすまで、終われないんだよ。殺せないんだよ。なのに何だい君は。誰だい君は。娘の知り合いか? いや、違うなあ。その顔。どこかで見たぞ。思いだした。思い出したぞ」

 男との距離がわずか数センチにまで近づいた。そのまま男の両手がそっと俺の首に、何かにすがるように寄ってくる。唐突な出来事が続き、何も言葉を発することができないまま、男の両手は、きゅっと、俺の首を絞め上げる。

 徐々に閉まっていく男の手に対し、何の抵抗もできないまま、かはっかはっと声が漏れる。

怖い。怖い。怖い。

胸の底から湧き出る恐怖心に、体は支配されていた。

「そうだ。そうだ。君もこうするべきだったんだ。この男だけでなく、君も」

 この男が何を言っているか理解できないが、一つわかったことがある。

雨口真理亜は、犯人ではない。犯人はこの男だ。

「君もこのろくでなしと、同じ目に合わせてやる」

 とうとう意識が遠のきつつあったとき、パトカーのサイレンの音が聞こえた。

「細瀬川海君を開放しろ! いるのはわかっているんだ!」

 そのまま俺の視界は闇に落ちた。


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