第2話 発見


 包丁で食材以外を切る体験は初めてだった。

 絆創膏の付着した男の人差し指に、包丁が一往復するたびに肉と骨が削れる感触がした。それが心地よく、全身が熱くなるほどの高揚感を覚える。廃バスの中とはいえ、季節は真冬。隙間風の冷たさは身に染みるはずなのに、少女にとってそれはどうでもいいことだった。

 目の前の男は余裕を見せているのか、それとも強がりなのか、にやりと唇をゆがめ、笑みを浮かべていた。

「痛くないの?」

 少女こと雨口真理亜はやさしくそう問いかける、笑いをこらえるのに必死だった。

「……いたくないと思うか?」

 男こと細瀬川海はかすれた声でそう言う。「だよね。ごめんごめん」軽い口調で少女はそう謝罪をするけれど、もともと悪いだなんて微塵も感じてはいない。

「もうすぐ切れるよ」

 ほぼほぼ切断された細瀬川の指は残すところ二ミリ程度といったところだろうか。指から血は雨漏りのようにしたたり落ち、包丁の刃先は絵の具を垂らしたように真紅に染まる。

 ずっと待っていたこの機会。心のどこかで願っていたこの状況。雨口真理亜は神に感謝した。

 そしてぽとりと、細瀬川海の指がバスの床に落ちる音がした。

 細瀬川海は、息を切らしながらも、一度も笑みを崩すことはなかった。その様子を見た雨口は、自らの頬の内側を軽く噛んだ。















 細瀬川の指が自分の手元にある。その現実があまりにも空想じみていて、思い切り目をつぶり、夢から覚めようとしてみた。

 ぎゅっと閉じた目を再び開く。結果は変わらない。手のひらの指は何も語らず存在感だけを放っていた。

 誰が、やったんだ? その思いの結論は既に出ていた。

 雨口の席にあって。雨口が持っていて。昨日のあの俺のアドバイス。後悔しないようにやれ。

 すべて点を線でつなぐのが恐ろしくて、目を閉じ、思考をとめようとしたその時だった。

 ガラリと教室のドアが開く。驚きのあまり、息が止まる。咄嗟に指を落とし、それを拾おうと体を前に倒すも、そのまま体制を崩し、指に覆いかぶさるような形をとった。

「何してるの? 鈴谷君」

 高く、囁くような声がそう呼びかける。声の主のほうを向くと、雨口が首をかしげていた。

「ああ、ちょっと、ころんじゃってさ」

 無難な言い訳をしながらも、考えることは一つだった。

 雨口にばれたら何をされるかわからない。

 雨口が細瀬川に何をしたかは謎のままだ。少なくともクラスメイトの指を大事そうに持ち歩くのがまともな理由であるわけがない。

 どちらにせよ、雨口が細瀬川に何らかの介入をした可能性は高そうだ。

 なんて、うらやましい話だ。

「じゃあ鈴谷君。起き上がりなよ。もしかしてどこか痛いの?」

 ただでさえ不自然な体制だというのに、それを長時間続けるとなれば、より不自然に見える。だが、このまま体制を起こしてしまえば、指の存在を知ったことがばれてしまう。

 運よく雨口のポチ袋は咄嗟に机の上に戻していたからいいとして、ここからどう逆転すればいいのか。

「ねえ、鈴谷君」

 一歩。雨口の脚が近づいてきた。これ以上の接近を許すわけにはいかない。雨口の接近を止めるだけじゃない。

 視線だ。視線をそらすことができれば完了だ。

 人間の視線を奪う方法。尚かつこの体制で。周りを見渡す。下から見上げる教室の風景はいつもと違うものを見せてくれた。

 誰かの机の横に下げているカバンには、銀色の小さな防犯ブザーが垂れ下がっていた。立ち上がる動作をしながらそのかばんのブザーの紐を、偶然を装いひっぱった。

 ピピピピピピ! よけたたましいブザー音が教室中に響く。その音はおそらく廊下にも響いていることだろう。隣の教室では授業をしているはず。となれば。

「誰だ! 防犯ブザーを鳴らしたやつは!」

 おそらく国語の担当である高木先生だろう。その怒鳴るような声はこの教室に届いた。雨口もその声のほうを、向かざるを得なかった。

 よし、うまくいった。

 その瞬間立ち上がり、抱え込んでいた指をポチ袋に戻し、もとの机の上にビデオの早回しのごとく高速で置くことに成功した。

 それと同時に、学ランのポケットに常備している音楽プレイヤーを雨口のカバンの中に滑り込ませた。

 ドタドタという足音と共に国語の高木が鬼の形相で入室してくる。雨口はその勢いに飲まれ、高木のほうにしか視線が向かなくなった。

「雨口に、鈴谷か。ブザーを鳴らしたのは誰だ?」

 迷うことなく手を挙げる。

「俺です。先生。転んだ拍子にうっかり」

「……お前ら、授業はどうした」

 恐る恐る雨口は口を開く。

「トイレに、行ってました」

「俺は、忘れ物を」

 高木は何か言いたげな視線をじっとりと俺たちに向けて、軽くため息をついた。

「わかった。行っていい」

 俺たちは頭を下げ、荷物を両腕で抱えながら小走りで廊下を駆け抜けた。雨口はポチ袋をいそいそとカバンにしまった。それからお互い一言も言葉は交わさなかったが、雨口の表情はどこか重たげだった。

 ばれてはいない……はずだと思いたい。ポチ袋も元の位置に戻していたはずだし、触れない限り指が無事であるかどうかなんて、見た目からでは見分けにくい。なら、大丈夫なはずだ。

 理科の授業中、先生の話は何一つ耳には入ってこなかった。考えていたことは、細瀬川のことだ。

 殺されているのだろうか。だとしたら、俺は雨口を殺さなければならない。細瀬川の命を奪ったのだから当然の報いだろう。

 ともかく細瀬川の無事を確かめるための方法は、一つだけあった。しかし、確実性は高くない。けれども、何らかの手がかりにはなり得るかもしれないという賭けに出たかった。

 学校が終わるとともに、家に直帰する。ドタドタと二階に上がり、自室のパソコンを立ち上げる。

 俺の音楽プレイヤーにはGPSの機能が付いている。これを見れば雨口の帰り道の詳細を知ることができる。

 ただし、これは雨口が放課後に都合よく細瀬川行方不明関する『何か』をやって居た場合のみ適応することだ。もしそのまままっすぐ家に帰られ、カバンを置かれたら終わりだ。まあ、その時はどうにかして尾行するしか手はなくなるけれど。

 音楽プレイヤーの居場所を突き止めるため、インターネットの無料サービスのサイトを開いた。雨口の場所を検索すると、どうやらちょうど学校を出るところだったみたいだ。そのまま雨口は通学路をまっすぐ歩く。雨口の家がどこにあるかは知らない。けれど、方向は明らかに近くの山のほうだった。山のほうに住宅地はあるけれど、その奥には粗大ごみなどが不法投棄された人が間違っても寄り付かない場所のはずだ。

 最初はその住宅地に自宅があるものかと思っていた。けれどもそこを通りすぎ、その奥のごみ山の方角に雨口を指示するポインターは動き続ける。

 降りる場所はあっただろうか。見たのが大分前だから記憶は薄い。けれども、そんなところに何か用があるのだろうか。しばらく画面を見てはいるけれど、ごみ山の中央部分に行ってから動きはない。二十分ほど経過してようやくポインターは動き始め、住宅街の中にある一軒家に着き、そこで動きを止めた。

 ごみ山に何か手がかりがある。そう判断した俺は自転車を漕ぎ、全速力で山のほうへとペダルをこいだ。

 数十分ほどでゴミの山に到着するが、山と表現するには少しばかり違う。

 まるでそこは巨大な湖があり、底の水が抜けたような巨大な窪みになっている。降りるには人一人がようやく通れる程度の崖に沿った道を歩く必要がある。足を滑らせ谷底に落ちれば無事では済まない。

 だが、行くしかない。ある確信があった。ごみ山の中央にある、マイクロバス。錆びついていて、タイヤは一本抜けている。乗り物としての機能はほとんど失われているだろう。だが不自然な点がいくつかあった。

 車の窓には、段ボールが貼られている。まるで外界の視覚を遮断するように。そしてあのGPSが指示していたのは、ここの空間の中央だった。

 雨口は、あのバスに、何の用があったんだ?

 疑問を解消するには、行くしかない。おぼつかない足取りで不安定な足場を歩き、下へ下へと降りていく。まるで壊れた螺旋階段を降りている気分だった。歩けば歩くほど、どぶを何十倍もきつくしたような臭いが強くなる。

「……臭い」

 思わずそう呟く。鼻をつまみたくなるところだが、この状況で片手がふさがってしまえば、転落する可能性も否めない。臭いはがまんすることにした。

 ごみ山の上にようやく降り立つ。一体誰がこんなにためたんだ。一人がこれくらい、これくらい、と思いながら捨て続けてこうなってしまったのだろうか。口で呼吸をしながらバスの前まで行く。入り口に手をかけた。生半可な重さではなく、両手と全体重を駆使し、ようやく鈍い音がした。

 仮に雨口がここに入ったとしたら、あいつはどんだけ怪力なんだ。確か何か武道をしていたとかいう話は聞いたことがあるけれど。まあいまそれはいい。中はほこりっぽいかと思いきや、中は広々と整頓されていた。

 最も、後ろの席にいる彼の存在に気が付くまでは、心は平静さを保っていた。

 再後部座席の中心に、彼、細瀬川海はいた。

 気持ちが一気に昂り、胸が燃えるように熱くなる。

 細瀬川は両手をしばられ、腰を座席の後ろ側に縄で縛られ、身動きがとれなくなっていた。

 口にはタオルで猿轡をされ、発言はできなさそうだ。

「……ん?」

 タオル越しにそう細瀬川から聞こえた。俺は声を発することができなかった。今細瀬川の視界は遮断されている。身動きはとれないだろうため、抵抗も不可能だ。

 なんという、チャンスだろう。

 息は荒くなり、鼓動は早まっていた。

 今日は二つの幸運があった。

 一つは、細瀬川が生きていたこと。

 もう一つは、細瀬川に今何をしても、俺がやったとわからないことだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る