トライアングル

ろくなみの

第1話 指

 透き通るような青空に向かって一本の太い木が生えている。その存在感を放つ木の幹に親友は茶色く丈夫そうな縄で縛られている。目には目隠しをされ、口にはタオルが猿轡のように巻かれ、「んーんー!」という声しか聞こえない。両足首は切断され、最早そこからの移動は望めない。

 そんな彼の前にひざまずく。息は荒くなり、心臓は破裂しそうなほどに高鳴る。彼のたくましい肩に腕を回し、自分の体を摺り寄せる。

「カイ」

そう彼の名を耳元で囁く。短く切りそろえた髪からはシャンプーの甘い香りに交じって、汗のにおいが混じり、それが興奮を引き立てる。

 体を一度離し、猿轡を上にずらす。

「い、やだ」

 かすれた声がそう僕の耳に入ってくる。やはり彼の声は落ち着く。たくましくもあり、どこか切ない彼の声は胸を余計に締め付けるようで、たまらなく愛おしい。

 だらしなく垂れ下がった彼の手を握る。右手の人差し指がおもちゃのように抜け落ち、芝生の上に無造作に転がった。

 そんな彼の唇に僕の唇を重ねた。

 何の味もしない彼の唇を、何度も何度も捕食するようにハムハムと優しく咥え続けた。




















 まどろみからゆっくりと目が覚める。何かいい夢を見ていた気もするが今一つ思い出せない。よだれが口元についていたため慌てて寝巻の袖でふき取る。思い出せないのがもどかしく、ため息を吐いた。

「尋人―、細瀬川くん来てるわよ!」

「え! まじで! すぐ行く!」

 母親の声で一気に意識が覚醒し、ベッドから降りるもバランスを崩して、頭がベッドから床へと落ちる。鈍い痛みが頭頂部に広がり、干された布団のような形でしばらく動く気をなくすも、渋々体制を立て直し、慌てて寝巻から学ランに着替えた。

 ドタドタと階段を駆け下り、キッチンに入る。

「なんでもっと早く起こしてくれなかったの!」

「起こしたわよ、何度も」

 母のあきれ交じりのため息を無視し、冷蔵庫を開く。五秒以内に胃に流し込むことのできる小さなヨーグルトを取り出し、蓋を開く。ヨーグルトの白いシミが少し飛び散ったが、そのまま気にとどめることなく、冷蔵庫の向かい側にある引き出しから銀のスプーンを取り出した。

 ヨーグルトを口の中に一気にかきこむ。一秒でも早く彼に会いたかった。

「そんなに焦って食べなくても。まだ間に合うでしょ?」

「細瀬川を待たせるわけにはいかないよ」

「ほんと、あんたたち仲いいわね。兄弟みたい」

 兄弟、か。まあ男同士の仲の良さを表現するには妥当な語群だろう。俺自身もそれ以上の関係に見られたら困るし、そうならないように一線は置いているつもりだ。

 ヨーグルトのカップをゴミ箱に投げ捨て、洗面所に向かう。ビデオの早回しのように高速で顔を洗い、歯を磨く。口の中へ乱暴に水をコップで注ぎ、中身を洗面台へと吐き出す。水道でそれを洗い流した後、タオルで目と口元をごしごしとふき取った。玄関にセッティングしていたカバンを持ち、いそいそと靴を履く。

 行ってきますを言う間もなく、思い切りドアを開けた。

「よ、鈴谷。相変わらずバタバタしてんなあ」

 外には太陽のような笑みを浮かべる細瀬川海が学ランのポケットに手を突っ込んでいた。

「すまんすまん、つい昨日深夜バラエティに見入っちゃって」

 頭を掻きながらそう返す。朝から見えたこいつの笑顔のせいで、抱きしめたい衝動を抑えるため、頭皮に思い切り爪を立て、耐えた。

「あはは! 確かにあれ面白いしな。早く学校行こうぜ」

 細瀬川はそういうと俺に背を向け、カバンを軽々と肩の上にかついだ。

「おい、置いてくなよ」

 小走りで彼の後ろについていく。そこからはいつもの他愛のない会話が続く。

 昨日のテレビのこととか。引退した部活のこととか。みんなが地元の高校に行くのが羨ましいこととか。

「家の都合とはいえさ、ど田舎の遠いところの高校に行くなんて、めんどくさいよ」

 その話題については、あまり話してほしくなかった。彼と一緒にいられる時間が刻々と少なくなっていることは忘れたかった。

「まあ、仕方ないだろ」

 そんな本心を悟られるわけにも行かず、ぶっきらぼうにそう返す。

「なんだよ冷たいな」

 バシっと乱暴に背中をたたかれる。いつもより心なしか叩き方が強い。

「そんなことよりさ、今日は何の日か知ってるか?」

 暗い話を避けるために、明るい話を持ち出すことにした。

「ああ、バレンタインだろ?」

「たくさん靴箱に入ってるんじゃねえか? チョコレート」

「ああ、うれしいんだけどなあ。俺どうにもチョコ苦手なんだよ」

「正直に言えばいいのに」

「せっかくくれるのに申し訳ないだろ? それに誰かそれを知ってるのか知らないけど、紅茶のティーパックを入れてくれてるんだ。そいつのやさしさに感謝しなきゃな」

 そう言いながらもこいつは家で苦手なチョコを一つ残らず食べているのを俺は知っている。だから俺はそんな細瀬川の甘い口をいやすために、バレンタインはこっそり靴箱に紅茶のティーパックを忍ばせていた。(そのついでに彼の上履きを舐めているのは誰にも見られていないと信じたい)どうやら効果はあったようだ。

 そのまま学校に到着すると、予想通り細瀬川の靴箱には大量のチョコがごろごろと出てきていた。

「……はあ、ニキビできそう」

「贅沢なこと言うなよ」

 チョコの箱は大小さまざまで、どれもこれも甘いメッセージが描かれている。

「俺も手伝おうか?」

「いや、いい」

 どうせなら捨ててやりたいところだったが。まあいい。細瀬川は上履きに履き替え、廊下をずんずんと進んでいく。そんな彼の背中を追いかけようとした時、靴箱の陰に隠れた小さな影が見えた。

 身を乗り出し、姿を確認しようとしたところ、そこにいたのはクラスメイトの雨口だった。手元には小さなチョコの箱を大事そうに抱えている。

「雨口、それ」

 俺の発言が終わる前に雨口はびくっと体を痙攣したみたいに震わせ、そのまま俺の隣を駆け抜け、廊下を走り抜けていった。

 直接渡したかったのだろうか。彼が卒業後遠くに行くことは学校中の噂だったし、泣いた女子生徒がいたという話も聞いた。

 それなら手渡ししたい気持ちもわかる。

 俺だってそうだ。それでも実行できない。手が届きそうで届かない人というのはそれだけ切ない。

 廊下を大分歩いている細瀬川は、すれ違う後輩全員に挨拶している。

「よお、どうだ、こないだ言ってたことは」

 遠目から細瀬川が後輩にそう話しかける声が聞こえた。

「はい! 先輩のおかげで解決しました! いつも気にかけてくれてありがとうございます!」

 細瀬川はにこやかに笑いながら後輩の背中をばしばしと叩いた。

 俺が細瀬川に惹かれたのは、こういうところだったのかもしれない。小学校のころいじめられそうになっていた俺を無条件でかばってくれたあいつには。それが恋に発展するのは異常であることはわかっている。そのことには散々苦しんでいるし、今後も苦しみ続けることだろう。

 だけど、それでいい。あいつのために苦しむことができるなら、本望だ。

 本当に? 頭の中でもう一人の自分がそう囁いた。

 授業が始まり、先生の話を聞きながらも、その声はずっと俺の頭の中を駆け巡っている。

 細瀬川をこの腕で抱きしめた。キスしたい。ずっと一緒にいたい。思いを伝えたい。

 本音は確かにこうだ。でも、性別という壁は大きく、俺は結局何も行動できずにいる。

「次の時間のこぎり使うんだってよ、楽しみだな」

 細瀬川は何の気兼ねもなくそう俺に話しかける。

「そうだな」

 にこやかにそう肯定する。今のままが一番平和で、この関係を崩すことは何よりも怖かった。

 そんな関係も、あと数か月で、距離という問題が終わりを告げる。それが何よりも不服で、最近は彼と会う喜びと同時に、心臓発作を起こしそうなくらい苦しかった。

 次の技術の時間。ふと雨口を観察してみる。のこぎりをスムーズに動かしながらも(華奢な体格のわりに随分とキレがいい)視線は細瀬川に釘づけだった。

 本能的に悟る。雨口も同じ気持ちだと。

 異性である時点で雨口は俺より遥かに状況は有利だ。その分悔しいけれど、同じ気持ちを持つ者同士、頑張ってほしいという気持ちも膨らんできた。

 その時だった。細瀬川は作業の手を止め、のこぎりを動かしていた細瀬川の手元が狂い、少しだけ人差し指を傷つけてしまっていた。

「おい、雨口」

「ど、どうしたの? 鈴谷君」

 びくっと小動物のように飛び跳ね、恐る恐る雨口は振り返った。

「これ、絆創膏」

 どうせなら、この子にもやれることはやってほしい。俺の分まで。そう思うようになっていた。

 ポケットにたまたま忍ばせていた肌色の絆創膏を一枚手に取り、雨口に渡した。

「これ細瀬川に渡して来いよ」

「え、なんで」「いいから」

 雨口は察したようにうなずき、少しだけ口元を緩ませた。小走りで細瀬川に近づき、絆創膏を渡していた。何を話しているのかはわからないが、どこか細瀬川は嬉しそうにだらしなく笑っていた。

 どうしてだろう。望んでいたことのはずのに、腹の底に鉛のような重さを感じた。涙が出そうになり、慌てて作業に戻る。視界が滲んでのこぎりがうまく動かせなかった。

 

 放課後になり、細瀬川は猛ダッシュでサッカー部に顔を出しに行った。引退しているというのに、情に熱い奴だ。少しはその熱を俺にもかけてほしいくらいだ。

「鈴谷君」

 静かにそう呼びかけられ、慌てて声のほうを向く。そこには雨口がにこにこと笑って俺を見ていた。

「今日はありがとう、私、勇気出たよ」

「いや。たいしたことしてないよ」

 そこから口は、社交辞令も交じってこう勝手に動いていた。

「雨口さ、もしあいつが好きなら悔いのないようにやれよ。後悔したって時間は戻らないんだから」

 柄にもなく臭いセリフを吐いてしまい、顔が熱くなる。そんな俺を雨口はくすくすと笑った。

「わかった。鈴谷君。私、がんばってみる。自分ができることを。できる限り、頑張ってみるね。お父さんにも相談しちゃうくらい悩んでいたの」

「自分の親に相談するって……そういえば雨口は父子家庭だったか」

「うん。家でいろいろお仕事してるんだ」

「なるほどなー」

 まあいろんな家庭があるということだろう。そういうと雨口はとてとてと猫のように教室から出ていった。

 一人になった教室で自分の発言を振り返る。

 悔いのないようにする。自分にかけてやりたい言葉だ。

 どうせなら、俺も雨口と同じように、悔いのないよう行動してみるべきじゃないのか? 好きという思いを伝える。それは幼馴染であり親友である二人の関係にひびを入れるリスクのある行動だ。だけど、あいつとの付き合いも長い。愛の告白程度で、すべてが変わってしまうような信頼関係か?

 もう少し、あいつのことを信じてみてもいいんじゃないだろうか。前向きな返事はもらえなくても、気持ちを受け止めてくれることくらいなら、期待できるんじゃないか?

 根拠のない自信ではあったけれど、この今の自分の前向きな気持ちを失いたくもなかった。

「明日だ」

 そう自分に言い聞かせる。明日、伝える。あいつへの思いを。気持ち悪がられても、引かれても、拒絶されても、それでいい。

 だって、俺は細瀬川海のことが世界で一番好きなのだから。

 しかし、結局の決意も無駄に終わった。

次の日細瀬川が家の前に来なかった。おかしいと思いながら一人で学校に行く。メールにも電話にも応答はなかった。

靴箱にあいつの靴はない。教室に行く。彼の席には誰も座っていなかった。

「なあ、細瀬川知らないか?」

 同じクラスのサッカー部の奴に尋ねる。

「いや、知らねえな。つかお前のほうがよく知ってるだろ」

 そう返され、曖昧に笑みを浮かべる。なんだか胸騒ぎがした。決意をした翌日に休みだなんて、タイミングが悪すぎる。

 それに、確かあいつは小学校六年間と、今まで皆勤だったはずだ。昨日あんなに元気だったのに。まさか事故か何かに? 不安がよぎる中、担任が教室に小走りで入室した。

「みなさん、おはようございます」

 はげた頭をタオルで拭いながら担任は言葉を続ける。心なしか顔色が悪かった。

「今朝細瀬川くんのお母さんから連絡があったんですけれど、夕べから細瀬川君の姿が見えないということでした。警察に捜索願いも出しているということですが、みなさんの中で何か心あたりがある人はいますか? いたら、先生のところまで報告お願いします」

 先生がそう言うと教室中がざわついた。「家出じゃない?」「まさか、あいつの家族仲よかったはずだぜ?」「誘拐?」「この町で?」「不審者とか最近見た人いる?」「俺見たぜー、そいつじゃね? 変態っぽいコート着てたやつ」「あ、あやしい!」「誘拐なのかあ」「やだこわーい」「きもいきもい」

 たくさんの発言の中、沈黙していたのは俺だけだった。誘拐……だとしたらその犯人には心底羨ましさを感じてしまっている自分を呪った。このまま細瀬川が事故、殺害、自殺、どんな形であれ死体があがってしまえば。俺の目的は果たされなくなる。

 絶望感とともに涙がこみ上げる。

「おい、みんなやめろよ。鈴谷が一番つらいんだから」

こんな時に副委員長の福井の一言で周りはシンと静まり返る。彼の発言はありがたくもあったが、事実がより現実味を帯びて俺に襲い掛かる。

「みんな。福井の言う通りだ」

 小学生の言葉に便乗する担任の姿はあまりにも滑稽だった。

「鈴谷は細瀬川の一番の友達だってことは、みんなもよく知ってるだろ。不用意な発言をするもんじゃない」

クラス中がうつむく。誰一人先生の言葉を正論と疑っている人はいなかったようにおもう。

「すまんな、鈴谷。先生の気が回らなくて。まあとにかく、心当たりのある生徒は、すみやかに申し出てくれ」

 同情している人はたくさんいた。けれども、俺が抱いている細瀬川の気持ちを察している人は誰一人いなかっただろう。

そんな中、雨口はどんな顔をしているのか気になったが、一番前の窓際に座る彼女の表情は読み取れない。ただ、小さなお守りのようなポチ袋を大切そうに握りしめているだけだった。あんなもの、普段持ち歩いていただろうか。記憶をさかのぼるが覚えはない。不審に思いながらもその日のHRは終わった。

 次の時間は理科のため移動教室だった。あのもやもやを引きずったまま、肌寒い廊下を歩く。世界で一番寒いところは、生活県内がこの町の学生なら、この学校の廊下と答えるだろう。

 だから中盤で忘れ物に気が付いた時の絶望感は半端じゃない。筆箱を教室に忘れてきた。移動するのも億劫だった。胃だけでなく、靴まで重くなったように感じた。教室に戻る。廊下に貼ってある『廊下を走るな』という紙は見なかったことにした。

 教室には誰もおらず、俺は憂鬱な気持ちを引きずりながら自分の席を探ろうとした時だった。

 雨口の席が目に入る。そこには教科書とノート、筆箱。そして、あのポチ袋があった。

 トイレにでも行ってから向かうつもりだろうか。そう思いながら自分の席に意識を戻そうとした時だった。

 好奇心というのはこういうしょうもないときにだけ活発になる。ふと、そのポチ袋に何が入っているのか気になったのだ。

 何気なくそのポチ袋に触れる。氷のように冷たかった。本当に氷でも入れているのだろうか。次に手で感触を探るとウインナー程度の大きさの細長いものが入っていることがわかった。ビニール状のものでそれは包まれている。何だろう。いけないとはわかりながらも、ポチ袋の紐をほどき、中身を手のひらにぽとりと取り出す。

一瞬それが何なのか分からなかった。

ウインナーか? そうも思ったし、そうであってほしかった。

そこにあったものがあまりにも現実離れしすぎていて、理解するのに数秒を要した。

そこにあったのは、指だ。肌色の絆創膏が巻かれた少しごつごつした指が、小さなビニールに入っていた。

細瀬川海。俺の世界で一番愛している、現在行方不明の男の指で間違いなかった。

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