【The last one drop】Rousing Days:one「紫色の繭(まゆ)」


 エルダーニュの薫る丘。それは、ベレンセのかつての根城であり、魔法の精油「エルダーニュ・オイル」を作り続けてきた場所。心理学を独学で学んできた場所。エルノとニナとずっと過ごしてきた思い入れの多い場所である。

 こうして自分の祖国が大変な状況になっている中、宿主の帰りを待つように、研究所だけは安全な場所として守られていたのも、何かの不思議を感じ得ない。

 ベレンセは、怪しい噂で国外に追い出されて数ヶ月。持ち前の知識で難問をいくつも突破してきたが、こうして自分がまた戻ってくるとは思わなかった。それも、劣等感を感じ得ない妹の声によってである。

 

 「……兄よ。やっときたか」

 ――アメリア=ハウジンハ。「Ⅷ(セイシャ)の国」王都ケハーにある最大級の図書館の文献管理を行う、権力者。ベレンセの妹。氷の魔術の天才であり、堅物な性格であり、そして戦乙女カジワラのかつての仲間である――。

 銀髪で碧眼の彼女は腕を組んで真紅の外套に身を包んでいた。そして錫杖を持つリザードマンの男性と共に椅子に座ってベレンセを睨んでいた。

 「おい、そこは僕の席だ。どけよ」

 「嫌だ。兄よ、部屋が埃まみれで、足の踏み場もなかったぞ。せめて家を出るときは掃除して出るべきだ。可愛い妹が急に訪れるとは思わなかったのか!」

 「お前を可愛いと思ったことは一度も無い」

 兄と妹の馴れ合い。微笑ましい会話にセシリアは、和んでいた。

 「そこにいるのは、ケーテルの娘か。勉学に励んでいるらしいな。お前の父、アルベルトから噂を聞いているぞ」

 「恥ずかしい限りです」

 「……兄よ。まさかとは思うが、ケーテルの娘に手を出してはいまいな?アルベルトはセシリアのことをいつも思っていてな、結婚相手を探してやろうかと必死なんだが、兄よ、寝た気を起こすなよ」

 アメリアは、キッとベレンセを睨んだ。ベレンセは冷や汗を掻きながらそっぽを向いた。


 「馬鹿言え。お前が思う以上に、僕と彼女は健全だよ。その目は節穴か?」

 「ならいい。兄は腰抜けだからな。襲って喰うくらい、気概のある男でなければ、彼女の父にも勝てまい。安心したわ」

 そろりそろりと、ニナとエルノとフィオナが戸を開いて入ってきた。

 「セシリアの父、アルベルトは奥の部屋にいる。兄の著書が気になるらしい。……聞かれたら話してくれ」

 「おい、そんな恥ずかしい物を見せるな!!まだ手つかずの研究もたくさんあるんだぞ!!」

 奥の部屋に入っていこうとするベレンセの裾をアメリアは掴んだ。そして椅子に強引に座らせると、足下を氷の魔術で張り付けにした。ベレンセは靴を脱いで行こうとしたが、アメリアに睨まれた。

 「慌てるな。これでも……私は兄のことを誇りに思っているのだぞ。さっさと本題に入ろうではないか。役者もそろったことだしな。ハビエル、お前の口から話してくれ」

 「はい。不躾ながら語らせていただきます」

 「ハビィさん、随分変わったんですね……」

 アメリアに扱(しご)かれてハビエルもすっかり変わってしまったようだった。


**

 ――それはベレンセが「マドレーヌ医師団」を結成し、エルノと再会したあたり。

 ベレンセが出て行った「Ⅶ(セファ)の国」では異変が起き始めていた。

 アメリアは酒場で「血を吐いて変死しているエルフの死体」が出たと言うことを部下から知らされた。どうやら「顆粒状の煙の出るお香」が巷で出回っているらしく、神経を高ぶらせ、ハイになるらしい。それを吸っていたそうだ。

 男性は女性を魅了するために、酒場の席で使えそうな曲芸を身につけていたようだった。もともと臆病者だったのだが、驚くことに「お香を吸うと」肝が据わり、アイスピックで自分の指の股を突き刺したり、アルコールを霧状に拭きだして火を付け、火を噴いているように見せる曲芸。額で岩石を割る曲芸等の行為に及んだそうだ。性格を真逆にする怪しさがあった。どこかで不信感を持っていた。


 ――王都ケハー・大図書館

 調査団を派遣し、一回目の調査を終えたアメリアは、会議室の上座に座って腕を組んでいた。

 「ディサイアか。原料はなんだ?」

 「恐らく、媚薬効果のある香草、幻覚作用のあるキノコ。それらの類いを混ぜ物にしたんでしょう。それも、……最も効きやすい比率で。エルフやノームは、もともと感受性が強いので、かなり蔓延したんでしょう。嫌なことを忘れる為にもね」

 「酒の代わりに回ったのか。クラブハウスがないこの敷居の高い種族に、遊び心が入ったのか。嫌な話だ。そして、肝心なときに……兄がいないとは」

 アメリアは頭を抱えて悩んだ。これらの類いの事柄にやはり「エルダーニュ・オイル」の研究をしてきて、多少なりとも「植物の知識を持つ」ベレンセの力を借りたかったようだ。

 「ハビエル、お前はどう見る。……この見解を。アウフスタ女王が死んで三十年。メタヘルがなりを潜(ひそ)めたと言うが、私はどうも不可解でな。つい先日、兄が出て行った矢先『薬物汚染があるのではないか』と聞いて、人員を総動員して調べたじゃないか。やはり……この国の頭脳を根城にして、誰かが世界を覆そうとしているとしか、思えぬのだよ」

 「しかし、肝心な手がかりが……見つからない。毎日のように『ドラッグの死者』が続出する。流入ルートも割れない。霧のような話ですね」

 アメリアは酷く悩んでいた。左にいたアルベルトは、歴史上の書物を手掛かりに口を開いた。

 「アメリア司書官長。かつて、革命を起こした者達は人心掌握(じんしんしょうあく)の奥義に『心の隙間を埋める』と言う王道手法があったそうです。『怒りの矛先を向けるために、王を悪者にして殺せと命じる』『娯楽や酔狂に興じる施設を建設する確約をする』。それらのことを頭の切れる指導者が、巧みな弁舌によって権力を握ってきたようです。私の見解では、近いうちに大きな動きが起こるのではないかと……」


**

 ――アルベルトの読みは当たった。

 「創造主信仰」が主流のリザードマンの騎士。その分派としてエルフやノームも少なからず信仰を持っては生きてきた。日々の糧、あらゆる学問の知識の恩恵。そして命は頂き物であると言う教え。戦乙女カジワラがこの世界に来て「創造主信仰」を人々にはっきりと示した。

 しかし、三十年経って文化も風化する中「アスモデウス」と名乗る「謎の悪魔」の新興宗教が、エルフやノームの界隈で流行り始めたのだ。

 マインドコントロール。そして、ドラッグ中毒に続き、カルト宗教による支配。ピラミッドの頂点は、霧が掛かったように……見えない。


 そうこうしないうちに、この国は深い眠りに落ち、まどろみの世界に墜ちていった。商売する者はそろばんをはじく手を止め、漁をする者は網を引く手を止めて、その場で倒れるように眠り込んだ。それぞれの場所で紫色の繭に包まれるように、頭からつま先に至るまで糸に包まれて見えなくなった。身体から分泌物のように出た謎の紫の糸。そして、上空には「ディサイア」の煙に似た紫色の雲が濃く覆っていた。空は見えず、光も差さず――。


**

 「いてもたってもいられない。ハビエル、王宮に行こう!」

 「今行っては危険です。アメリア司書官長!」

 「だが、国中の全員が繭に包まれているのだぞ。アスモデウスとはなんだ。……メフィストフェレスの間違いではないのか?」

 「戦乙女カジワラが滅ぼした悪魔ですか。……懐かしいですけど、今はもう居ませんね。ここに居るのは、僕とアメリア司書官長、アルベルトさんだけです。確かに旦那様のティンさんが深い眠りの中にいるのは心苦しいかと思うのですが、僕は行くことをお勧めしません」

 アメリアの強情。ハビエルの冷静な判断。そしてアルベルトの熟練の知恵。三人の図書館職員を残し、「Ⅷ(セイシャ)の国」の国域は殆どと言っていいほど呑まれてしまった。「アウフスタ女王の王座には今、誰が座っているのか?」アメリアはすっかり冷静さを欠いていた。

 「アメリア司書官長、私の娘が世話になっている、いや、あなたのお兄様の研究所だけ何故か分からないのですが、安全な場所になっているようです。聡明なお兄様だと仰ってましたし、……一度力をお借りしてはどうでしょうか」

 アルベルトも「妻を眠らせた身」としては心が痛んだだろう。しかし、ここで無作為に動くことは「道連れ」になるであろうことを薄々感じていた。

 「気が進まぬが……仕方ない。そうさせて貰おう」


 それから、アメリアはベレンセに手紙を書いた。彼が気付くまで。彼が牢に入っても、何通も何通も。帰りを待っていた。泣きそうになる思いで。


**

 「兄よ。これが真実だ。私をこれ以上……待たせないでくれ」

 アメリアはハビエルの語りを聞いて、「想像を絶すること」を思い出したのか、涙を堪(こら)えていた。どれほど我慢してきたのだろう。それを考えるとベレンセは苦しくなった。

 「これからは……一人で抱え込むな」

 ベレンセは柄にもなく、アメリアを抱きしめた。そっと頭を撫でると、数年ぶりに、いや数十年ぶりに、こうして「兄と妹としてスキンシップをしている」ことが頭に浮かんでホッとした表情になった。

 「アメリアさんも妹でしたね……」

 「セシリー、今は余計なことを言わないの」

 ニナがセシリアを窘(たしな)めた。

 

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