【Fifth drop】Sorrowful Days:seven「常夜の陰に潜む者」
そこは暗黒の世界だった。性的な衝動に駆られた女性の世界だと思っていたが、これもまた違うもので。以前「イシアルのドールハウス」に入ったエルノにとって、「淫欲のフィロリア」と対峙したのは二度目のことだった。
右も左も、後ろも前もただひたすら地平線のように広がる世界。その一点に、陽炎のような姿をした女性が座っていた。
「久しぶりね、……創造主の子。分かっているわ。私を殺しに来たのでしょう。あなたが以前、私の身体に太刀を入れてから、もう手負いの状態なの。殺すなら殺しなさい」
エルノはやや疑問に思った。
「……何が目的なんだ?」
「何にも。ここは以前、それはもう『酒池肉林』と言う言葉が相応しいくらいの部屋だったの。裸の男女が酔い潰れて『愛し合って』いる。しかし、互いの心臓を食い合うように永遠に分かり合うことの無い世界。ベレンセだっけ?あなたのお付きの心理学者。彼がね、暴いてしまったの。アタリーの心の闇を。『寂しい』『切ない』『虚しい』そんな、一つ一つの心理状態が、心の闇を暴いたの。だから、残念だけれど、あなたの知る世界はもう存在しない。言うなれば……アスモデウス様の為の時間稼ぎ。私は噛ませ犬。共倒れになって死にましょう。エルノ……いや、創造主の子」
椅子に座る陽炎はくゆる。不敵な笑みを浮かべてエルノを包み込んだ。
「気持ちいいでしょう?ここ?あそこ?それとも……どこを触って欲しいの?」
エルノの四肢を舐め回すように触って、フィロリアは誘惑を仕掛けた。エルノは自制心を抑えることが出来ず、荒く息を吐いてその場に倒れ込んだ。
「身体が火照る……息が出来ない……」
「あら、そうなのね。でも、ここからは出さないわ。あなたの理性を、私が支配して、脳みその裏側まで『テンプテーション』を仕掛けるのだから」
「……やめろ」
「あら、あなたは『フィオナ』って女の子が好きなのね。じゃあ、私がその姿になってあげる」
エルノの前に、フィオナが姿を現した。怒りに震えるエルノ。偽物のフィオナは息が掛かるくらいの距離に来ると、笑って言った。
「好きにしていいわよ。……あなたのしたいことを何でもしてあげる。ここには、うるさいケットシーも、くそ真面目なハーフエルフも、腰抜けな心理学者もいない。あなたと私だけの世界なのだからね」
「……」
この怒りの混じった感情はなんなのか。そもそも、自分はどうして馬乗りになられているのだろうか。肌をさらけ出そうとしている偽物は、一体誰なのか。頭がふわふわして、何も考えられない。
――エルノ!騙されないで。私はここに居るよ!!――。
上空から呼び起こすような声がした。耳障りな偽物と違って、耳に心地よい。
「やかましい奴だな。男は情欲には勝てない。誘惑にも負ける。それは元々お前が入ってきた時から分かってたじゃないか。創造主の子。お前は私には勝てない。……いいものを見せてやろう」
フィロリアは、エルノの脳内に直接語りかけた。
――欲しいのか?何でも手に入る金か?金銀財宝か?それとも、酒か?酔って忘れるのか?女か。寂しいのが分かるぞ。何でもくれてやる。私を拝め――。
フィロリアの甘い息が掛かる。首筋が舐められた。すると、エルノは痺れたように動けなくなった。
「俺の脳味噌に入ってくるな。……殺してやる」
「憎しみか。だったら何度も私を殺せばいい。気が済むまでな」
エルノは震える身体を打ち叩いて立ち上がった。神経毒のような物が身体に流し込まれたのか。視力も気力も搾り取られて、動くのにいっぱいいっぱいだった。
テラピノツルギを振るが、フィロリアの芯を捉えず、虚しく空を斬った。
「ははっ、所詮創造主の子など、恐るるに足らないな。アスモデウス様の身体から頂いた力でお前を滅ぼしてやろう。好きな女に殺される。……いいシュチュエーションじゃないか」
フィロリアは意識が遠のくエルノの頭を踏みつけた。
「溶けて無くなってしまいそうだ……」
「創造主の子。お前にいいことを教えてやろう。宿主のこの女はな、嫌なことを忘れる為に、男と身体を重ねているそうだ。だがな、忘れようとしても、一瞬だけで。どっと胸を締め付けられるような、罪悪感が襲ってくるんだそうだ。そうだ。こんな感じになぁ!!」
エルノの周囲の床が軋み、ねじれて歪み始めた。
「俺だって、なんの為に闘っているかを聞かれたら、わかんねーよ。お前みたいな気持ち悪い奴に会いたくない。けどな、心の闇に傷ついて死んでく奴らをみている方がもっとやなんだよ!!」
エルノは苦しみながら叫んだ。
**
エルノが深層心理の世界で闘っている最中。アタリーの精神疾患についてベレンセは語り始めた――。
「アタリーは孤独だ。言うなれば、彼女の中で性交渉をしている時。ドーパミンが出て孤独感を忘れることが出来る。けれども、本来の目的を忘れた愛のない性交渉は、性欲を満たす為に過ぎない。穴の開いたバケツに水を入れるような物だ」
ベレンセはきっぱりと言った。
「でも、俺のことを熱い視線でみていたぞ」
「誰だって自分を大事にしてくれる人を辛辣にはしないさ。『返報性の原理』って心理学上の言葉があってね、好意を向けられると相手を大事にしたくなる。対等な関係で相手に尽くすと、相手もサービス精神を尽くして好意を向けてくれる。言っておくが、君だけが特別な訳じゃない。彼女の闇を取り払わなければ、彼女は本当に幸せになれないんだよ」
「俺が抱いてた感情も、彼女の抱いていた好意も、全て無意味だって言うのかよ!!だったら、俺はそれに納得出来ない。何が心理学だ!くそ食らえ」
「……現実をみろ。アタリーと同じく君たち、男性陣のやっていることは『恋愛で負う、痛みや傷から』逃げているだけだ。……僕だって卑屈な人間だし、自分がカッコいいとは言えない。だけどな、疑似恋愛に墜ちて生温(なまぬる)い感情を弄(もてあそば)れるようなそんな関係は築きたくない。君らだって、薄々感じているんじゃないのか?……自分は幸せなんだろうかと。自分は、本当に好きになるべき相手がいるんじゃないだろうかと」
男性達は心を刺され、怒りに燃えてベレンセを一斉に殺そうとした。しかし、リザードマンの騎士が彼を庇(かば)った。
「この男を殺して、お前達の心が晴れるなら好きにしろ。だがな、誰も救われないぞ」
魅惑されていた男性陣達は、一斉に武器を捨てて、家に帰り始めた。興ざめしたようだった。
**
外での喧噪(けんそう)が、アタリーの心に響いたのだろうか。フィロリアは「自身のアイデンティティ」を保つことが出来ずに苦しみ始めた。
「誘惑に負けた男どもが逃げていくだと……ふざけるな。ふざけるなぁ……!!」
フィオナは身体が保てずに激しく歪んだ。エルノは立ち上がると、テラピノツルギを構え直した。
「フィオナ、力を貸してくれ。『エルダーニュ・オイル』を焚いてくれ」
――分かったわ――。
響き渡る月影の調べ。柔らかい曲調と共に、スパイシーな力強さを持つ、カディナジンジャーの薫りがした。エルノは心が燃えたぎるのを感じ、胸を押さえ込んだ。
「ありがとう。勇気が出た。……愛してる」
誰にも聞こえないように呟くと、エルノは叫び声を上げて、飛び上がりフィロリアの身体を粉みじんに切り刻んだ。もともと手負いの状態にあった化け物は、霧のように散って四散した。
「あっけない結末だった。もう二度と会うことはないだろう」
そして空間が歪み、エルノは「元の世界」に戻っていった――。
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