【First drop】Funny Days:five「エレクトラ・コンプレックス」

 ――夜が更けていく。既にかなりの時間が過ぎていた。外は風が強く吹いていた。ベレンセとセシリアは、交代交代で仮眠を摂り、エルノとイシアルの体調の細かい変化を見逃さないように必死に眠気を堪えて、ふたりを介抱していた。




 「エルノの汗が凄いね。セシリー、彼の汗を拭いてあげて」


 「はい。分かりました」


 セシリアは精油(エルダーニュ・オイル)を数滴落とした熱めのお湯に、タオルを浸して硬く絞った。そして、夢の中でうなされているエルノの額を丁寧に拭いてあげた。


 「君は看護師向きだね。腕がいいじゃないか。薬学の知識もそれなりにあるし、何よりも面倒見がいい」


 「そんなこと、ないです……私、結構人見知りがあるので」


 ベレンセの言葉にそっぽを向いて答えるセシリア。お湯の湯気からは樟脳(しょうのう)のような、独特の薬草の薫りが立っていた。その薫りは不思議と不安な気持ちを抑え、自信を湧き立たせてくれた。


 「いい香りですね。……なんですか?」


 「『メシェバ・カモミール【カモミール・ジャーマン】』。メシェバ原野の雪解けの時期。冬から春に変わる短い季節の間だけに咲く、綺麗な花なんだ。雪に埋もれて、白い花はなかなか見えないことが多いけれど、昔の人はこれで春の訪れを知ったらしいよ。『Ⅹ(ムーズ)の国のメシェバ原野』は、リザードマンの生息域だし、クライアントの彼女にもピッタリのオイルだね」


 落ち着いた表情でイシアルを眺めるベレンセ。峠は越しようで穏やかに息をしていた。ニナはエルダーニュ・オイルの香りが苦手らしく、部屋の片隅で片づけをしていた。


「ニナ!来ないの?」


 「行かないわよ!!私、鼻が良すぎて……ただでさえ辛いんだから!」




**


 ――コツンコツン。エルノは「深層心理の世界の迷宮」をランタンを頼りに歩いていた。ランタンの炎が濃く燃え上がり、緑色に燃えていた煙が白くなった。


 「え?!どういうこと?!」


 ランタンの炎に手をかざし、テラピノツルギを手にしてみると、先程まで心の中でくすぶっていた胸の中の恐怖感がすっと消えた。呼吸も心なしか穏やかになった。


「そうか……この匂い。嗅ぎ覚えのあるものだと思ったら『メシェバ・カモミール(カモミール・ジャーマン)』だったのか!」


 剣を上空に突き上げるように掲げ、そのまま階段の中央に向かって振りかざした。すると、周囲が一気に明るくなり、円形階段の底まで明るくなった。エルノはそのまま胸を高鳴らせて、階段を下っていった。




**


 ベレンセは眠気を取る為に、顔を熱い蒸しタオルで拭った。そして、熱めのコーヒーとニナの焼いたドーナツを食しながら語り始めた。


 「セシリーは『超自我(ちょうじが)』って知ってるかい?」


 「聞いたことないですね。心理学の言葉ですか?」


 「そう。……人の心を三つに分けると、大まかに『超自我』、『自我』、『エス』と分けられることが『外典』に書かれているんだ。幼少期に親や周囲の影響で身に付いた道徳観、社会性などを『超自我』と呼び、理性的な行動規範をつかさどり、知性を持った行動が出来るように行動を決めている『自我』と呼ぶ。そして、本能的な行動をしたがり、欲情したり、攻撃衝動(こうげきしょうどう)に駆られる動物的な本能の『エス』と呼ぶんだ。この三つが拮抗して、人は心の中でバランスを取っているんだね」


 「面白いですね。じゃあ、戦争や喧嘩が好きな人は『エス』が優位な傾向にあるんですか?」


セシリアは、顎に手を当てながら言った。


 「そう言うことだね。イシアルは、恐らく母親からの支配が強くて『超自我』が心を支配しているのだろう。格式高いリザードマン。本来好戦的な種族が倫理観を重視しているなんて珍しいだろう」


 「初めて会った時、礼儀正しくてびっくりしました。私が見習うべきだって思いましたし……」


 「彼女は、宗教的にも、倫理的にも、高い道徳観を持っていて、かなり知的。そして淑やかな女性だ。エルフの一般女性と変わらないくらいにね。しかし、それが彼女の価値観を強く支配しすぎて、『自我』と『エス』が圧迫され過ぎてしまい、精神病に罹(かか)ってしまったんだ」


 「同じ女性として何となく分かる気がします。嗜(たしな)みって難しいですもの。でも、どちらかと言えば、私の場合小さい頃に泥だらけになって遊んでも、厳しく叱られることはなかったかな」


 「でもね、彼女は違ったんだ。厳しすぎる母親の教育が『エレクトラ・コンプレックス』となって、彼女に現れてしまったんだよ」


 「ちょっと待ってください。……少し整理します」




**


 「エレクトラ・コンプレックス」とは、心理学用語であり、「エディプス・コンプレックス」の対義語である。ギリシア神話に出て来る「エディプス(オディプス)」が王を実の父と知らずに殺し、実の母と結婚してしまったことから由来している。生まれ持って男児は母親に対する憧れを持っているが、健全な成長が出来ずに、就学期を抜けても、エディプス・コンプレックスが抜けないと、「マザコン」になってしまう。また「エレクトラ・コンプレックス」は、ユングが女性に当てはめた用語であり、父を謀殺した母と愛人の仇を討った王女「エレクトラ」から来ている。




**


 「あ、ちょっと難しい言葉を出し過ぎた。要は、母親の支配が強く影響しすぎたせいで『父子依存』と言う形の偏愛が生まれてしまったんだよ。……ここまでは分かるかい?」




 セシリアは呼吸を整えて、羊皮紙に言葉を整理した。そして理解出来たようで、落ち着いた表情になった。


 「あ、そういうことですか。でも……彼女、私から見たらそうは見えなかったんですが」


 「好きな男性像が父親に似通ったパターンだったんだよ。まぁ、女性にはよくあることなんだけれど、彼女の父親に対する依存傾向は、カウンセリング中でも類を見なかったよ。多分、君には分からなかったかも知れないね」


 「隠し事は誰でもありますもんね」


 「そうだね。こういう風に何かに依存をして、『心を快楽や刺激のある物に向けようとすること』を『アディクション(嗜癖)』と呼ぶんだ。分かりやすい言葉で言うと、よく『ハマる』『のめり込む』と聞くだろう。彼女は『物質嗜癖』『プロセス嗜癖』『人間関係嗜癖』の三つのうち、なかなか厄介な『人間関係嗜癖(にんげんかんけいしへき)』なんだよ……」


 「薬物依存もアディクションの一つなんでしょうか?何でも忘れたり、気を紛らわしたい一心で、健全な物でストレスを解消出来ないことって、よくありますもんね」




**


 エルノが一番下の階層まで階段を降り切った時、堅く閉ざされた鍵の掛かった扉が目の前に立っていた。ドアノブには硬く鎖が幾重にも掛けられ、南京錠がしっかりと掛かっていた。


 「……どうしろって言うんだよ」


 「……落ち着いて。少ししたら、道が拓けます!」


揺らぐランタンの炎。すると、「ふんわりとしたバニラのような暖かみのある甘い薫り」が、ランタンの炎から薫って来た。


 「『ジルゾイン【ベンゾイン・安息香】』の樹液は、心の扉を開ける効果があるのです……。彼女はとげとげしい気分で、一人になりたかったのでしょう。エルノ、ランタンを扉に当ててごらんなさい」


 するとエルノの身体が透き通って、壁をすり抜ける感覚を感じた。


 「優しい声で話しかけて。いいですか?怒ってはダメ。あなたはいい子なのだから……」




 扉を抜けると、ファンシーな部屋の中央で何人もの可愛らしいドールがベッドやソファーに置かれていた。そしてじゅうたんの真ん中で、小さなリザードマンの少女が顔を覆って泣いていた。


 「お父さん……一人にしないでよ!お父さん……」


 エルノはその少女に話しかけようとするも、相応しい言葉が見つからず、少女の側に座って、頬を掻いていた。


 「……あなたはだれ?」


 「い、や、やぁ」


 苦笑いするエルノ。少女は首を傾げた。




 エルノは、少女と少し遊ぶことにした。小さな少女は、お気に入りの人形でエルノとおままごとをした。少しずつ心がほぐれて来たのか、彼女は自分のことを話し始めた。


 「……そっか、君はお母さんが厳しくて、お父さんが優しいから、べったり甘えてるんだね」


 「そうなの!みーんな、ここのお人形はお父さんが買ってくれたの!お父さん大好き!!」


 エルノはどこか違和感を覚えていた。この子の父親に対する執着心。普通の子どものような健全さじゃない。表情が少しぎこちないのだ。作り笑いのような違和感があった。


 「なぁ、君には友達はいるのかい?」


 「ううん。あなただけよ。私と遊んでくれるのは」


 「そっかぁ……」


 しかし、少女は少しずつ表情が穏やかになり始め、エルノに心を赦し始めていた。


 「私、なんかずっとつまらない生活だったの。いい子でいないとお母さんが怒って……でも、今日は本当に楽しかったわ。また来てくれる?」


 「あ、ああ……また来れたらいいなぁ」


 エルノがランタンを片手に、部屋を出ようとした。その時、背筋にぞわっとする感覚を覚えた。誘惑されるような不健康な、甘いような薫りがして、後ろを振り向くと少女が床に倒れていた。




 「イシアル!!起きろ!!イシアル!!」


 エルノが小さなイシアルを揺すぶった。すると彼女の近くにあった人形が少しずつ陰り、「ピンク色のもや」がエルノの顔を覆った。エルノは喉元を抑えて膝を着いた。


 「息が……苦しい……」


 「……邪魔をしないで!『創造主の子・エルノ』。私達はあの素晴らしいお方に、世界を支配して欲しいのだから……!」


 「お前は誰だっ!名前を……言えっ!!」


 「うふふ。私?私は『淫欲のフェロリア』。若い女性は、夢を見て生きるの。だからとってもとっても誘惑しやすいのよ……」


 「出てけ!!イシアルの中から出ていけ!!」


 「……いやだわ!なんでこんなに居心地がいいのに。あなたも酔いなさい。ふふっ」


 意識が遠のく。エルノは「イシアルの深層心理の世界」で「廃人」になろうとしていた。その時、ランタンが力強く光った。震える手で炎を握り込む。スパイシーな力強い薫りがした。そう、それは「カディナジンジャー【ジンジャー・生姜】」の薫りだった。




 「熱いっ!身体が焼けそう!!」


 エルノの血流が滾(たぎ)り、肉体が熱く燃え上がった。それと同時に「淫欲のフェロリア」は、エルノの喉から離れた。エルノはそのまま怯んだ、フェロリアに力いっぱい剣を振り下ろした。しかしエルノの剣は芯を捕らえていなかった。フェロリアは身体の一部を失っただけだった。


 「厄介ね……惜しいのだけれど……ここは撤退するわ……」


 「あっ!待ちやがれ!!」


 フェロリアは、そのまま蒸発するようにその場から姿を消した。エルノもそれと同時に疲れと強い眠気が襲ってきて、床に倒れ伏した――。




**


 「あっ!気が付いたわ」


 エルノが目を覚ますと、揺らぐロウソクからは「カディナジンジャーの薫り」が漂っていた。セシリアはエルノの手を握り、涙を零した。


 「良かったぁ……戻ってきてくれた……私、不安で不安で……」


 「……二時間半か。長い闘いだったな。お疲れ様」


 ベレンセは時計を見てホッとすると、エルノの頭を撫でた。隣で眠るイシアルの表情は穏やかになっていた。


 「なぁ……いや、何でもない」


 エルノは「淫欲のフェロリア」や「テラピノツルギ」のことを話そうとしたが、取りあえず黙っていた。それから、エルノは眠気がすっかり覚めてしまい、セシリアの作った「ジャガイモのポタージュ」をゆっくりと飲みながら、夜を明かしたのだった――。


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