第213.5話 短冊


 七月七日。

 期末テストが明日から始まる。


 爽太が太陽の強い日差しに照らされ、汗が伝う顔を拭いながら家に辿り着くと、妹のひなたが「お兄ちゃん、おかえり!」と手にアイスキャンディーを携えながら出迎えてくれた。


「ただいま、ひな」

「お兄ちゃんの分もアイスあるよ!」

 夏らしい、マンゴー味のコンビニのアイスキャンディー。


 この時期になると、ひなたはよくそれを母にねだって、買ってもらっていた。


「お母さんは?仕事?」

「うん、締め切り近いから晩御飯準備ギリギリまで作業するって」

「そっか……」

 爽太の母、唯の職業はイラストレーターだ。


 爽太を生む前までは、兼業として漫画の連載もしていたようだが、爽太の育児と看病に追われ、続けることが難しくなり、一度は仕事から離れたものの、爽太の根治手術を終えてから、再び活動するようになった。


 今は、ソシャゲやカードゲームのイラストの依頼を中心に受けているようだが、その数も次第に増えてきて、最近は忙しそうな日も増えた。


 父の晴太郎は、自営業ということもあり、スケジュールを相談し合って家事の協力をしてくれているが、食事の用意に関しては、大食漢の彼がとんでもない量を作ってしまうため、なるべくお父さんを台所に立たせたくないと、唯は苦言していた。


 夕方六時。


 爽太が、明日の試験に向けて部屋で勉強をしていると、下の階から唯の「疲れた~!」という声が聞こえてきた。


 ちょうど喉が渇いていたので、母の顔を見るついでに麦茶でも飲みに行こうとリビングに向かうと、目の下にうっすらとクマを作った唯が、エプロンをつけていた。


「あ、爽太。ごめんね、出迎えできなくて」

 唯が仕事部屋に籠ったままで、顔を見に行けなかったことを詫びると、「いいよ、お疲れ様」と、爽太は自分の分と唯の分の麦茶をグラスに注いだ。


「どう?仕事終わりそう?」

「一件は無事終わったけど、まだあと数件残っててね~……。ご飯食べ終わったらまた続きしなきゃ……あ、お茶ありがとね!」

 唯がお礼を言って麦茶を飲むと、「私も~!」と、ひなたが飼い猫のジャックを抱っこしながら、自分のグラスを爽太の前に置く。


「お父さんも、今日は八時くらいまで仕事してくるってメッセージが来たわ。あっちも最近忙しいみたいだけど、ご飯は家で食べるって」

「お母さん、今日のご飯はなぁに?」

 麦茶を一気に飲み干したひなたが聞くと、「今日はオムライスでーす!」と、唯が言った。


「オムライス~!!よかったね、お兄ちゃん!」

「うん、嬉しい!」

 オムライスは、爽太の好きな食べ物の中の一つだ。


 他に好きな食べ物はたまごのサンドウィッチで、丼物なら親子丼。


 本人もあまり意識はしていないが、爽太はたまご料理が好物だった。


 ただし、オムライスはカロリーが高いため、ぽっちゃり気味のひなたの体型を気にして、あまり日下家の食卓に出てこないメニューだった。


「ご飯はもう炒めるの面倒だから、炊飯器に材料全部ぶち込んじゃって、炊き込みチキンライスにしちゃえば簡単だし……それに、お兄ちゃん明日からテストだもんね!大好きなオムライス食べて、目指せ一番!」

「頑張れ、お兄ちゃん!!」

 唯とひなたが「おーっ!」と拳を上に向かって伸ばすと、「頑張るぞー!」と爽太も応援してくれる二人に合わせて腕を伸ばした。


 中学生になって、爽太はまだ一度も学年一位を取れておらず、二位のままだ。


 もちろん、両親はそれでもすごいと喜んでくれるし、「一番になれ」と強要したことはない。


 だが、負けず嫌いの息子の性格を、よく知っている。


 しかも、その不動の一位を維持し続けているのが、友人の一人であることも聞き、悔しさもひとしおだろうと理解し、励ましてくれていた。


「……さて、タマネギとお肉と~……あれ?」

「どうしたの、お母さん?」

 冷蔵庫を開けた唯が、ピタッと固まってしまい、ひなたが聞く。


「えっ、ちょっと待って……嘘でしょ?たまご……買い忘れてた……?」

 唯がサッと顔を青ざめさせて呟くと、「えぇ~っ!!」とひなたが叫ぶ。


「オムライスなのに、たまご無いの~!?」

「ごめ~ん!!買ったと思い込んでたけど、よくよく思い出せば、最後にカゴに入れようとしてそのままレジに行って忘れてたみたい~っ!!」

 ひなたは両手でモチモチのほっぺを覆いながら驚愕し、唯は頭を抱えながら子供達に謝った。


「どうするのお母さ~ん!お兄ちゃんこれじゃあ元気出ないよ!?」

「いや、別に……たまご乗せずにチキンライスでも良くない?」

 本音としては残念だが、仕事で疲れた母を責めるつもりは爽太に無い。


「え~っ、やだ~っ!もうお口の中がチキンライスじゃなくてオムライスだもん!」

 爽太以上に、ひなたの方がオムライスの気分になっていたようで、「私たまご買ってきてあげる!」と言い出す。


「だめよ、お外もう暗くなって来たもん……。お母さんが車でスーパーに行ってくるから……」

 そう言って、唯はエプロンを外し始めるが、すでに仕事でヘトヘトの母に無理させてまで作ってもらうのは、爽太もひなたも気が引ける。


「僕が行く!」

 爽太が言った。


「え、いいわよ……明日からテストなんだから、勉強したいでしょ?」

「大丈夫だよ。たまご買ったらすぐに帰って勉強する!……じゃ、行ってくるね」

 母の返事を待たずに、爽太は部屋から財布とスマホを取ってきてポケットに突っ込むと、家を出てスーパーへと向かった。


 *


 薄暗くなっても、まだ昼間の日差しの名残を纏う空気はぬるくて湿っぽく、歩いているとだんだん暑くなってくる。


 しかし、夏の夕暮れは、しんと物悲しさを感じる冬の夕暮れよりも、どこかワクワクした雰囲気を感じられて、爽太は結構好きだったりする。


 ぼんやりとした空に浮かぶ星を時々見上げ、スーパーに着く頃にはその数もどんどん増えてきていた。


 スーパーの中は、涼しい――というよりむしろ寒くて、爽太は一瞬身を縮めるが、入り口のすぐ横にある笹の葉が目に留まり、冷えを忘れることができた。


「そうか、今日は七夕だっけ……」

 小学生の頃は、七夕の日になると給食がイベントにちなんだメニューだったり、お昼の校内放送で知ることができたが、中学生になってからはめっきり、そういったイベントを忘れがちだ。


 背の高い笹の枝に、色とりどりの短冊と、そこに書かれた願い事。


 どうやら施設側が、来店した客を楽しませるため、笹の葉と共に短冊とボールペンを設置したらしく、ここに吊るされているのは、買い物ついでに書いていった人々の願いのようだ。


 いくつか見てみると、【あたらしいゲームがほしい!! ゆうき】【プイキュアになりたい まなみ】など、小さな子供達の拙い文字で、でもきっと本気の想いが綴られている。


 そして、その周囲には【母のガンがよくなりますように】【おじいちゃんの病気が治りますように】など、家族の病気治癒を願うものもあった。


 それを目にした瞬間、爽太に幼い頃の記憶が蘇る。


 小学二年生の七月、冬丘街に住んでいた時のことだ。


 こことは違うスーパーマーケットで、母の唯が七夕コーナーを指差しながら、「爽太もお願い書いてみない?」と言ったので、短冊を手に取り、何を願おうかと考えていた。


 すると、隣にやってきた小学生くらいの兄弟の弟の方が、【ミルクがげんきになりますように】と書いていた。


 ミルク?牛乳?と、爽太が首を傾げていると、「そんなこと書いたって無駄だろ」と、兄の方が言った。


「叶わない願いなんて書いたって意味無いだろ!」

「そんなことないもん!きっと叶うよ!ここに書いて、織姫と彦星にいっぱい、いっぱいお祈りしたら、きっと――!」

「治らないって、お医者さんが言ってたじゃないか!」

 兄が声を荒げると、弟は「うぅ……」と下を向き、泣きだしてしまった。


 兄も、目に涙を溜め始め、「仕方ないんだよ……だったらせめて、天国行ったら美味しいご飯食べて、たくさん走り回れるようにって書いた方がいいよ……」と言い、ペンを持つ。


 恐らく、犬とか猫とか、飼っているペットのことなのだろう。


 爽太は最初、自分の病気が早く治るように祈ろうと考えていた。


 だが、『叶わない願いは書いたって意味が無い』という言葉を聞いて、躊躇ってしまう。


 叶わないかな。無駄なことかな。

 最近、前より体がしんどい日が少し増えてきた気がする。


 元気な日もたくさんあるし、この間は直希といっぱい遊んでも疲れなかったけど、一昨日は学校に行く途中で苦しくなって、着いてすぐお母さんに迎えに来てもらった。


 書いても治らなかったら、もっと悲しくなっちゃうかな……。


 爽太が悩んでいると、「何か欲しい物とかお願いしたら?」と、唯が言った。


「欲しいもの、か……」

 母に言われるがまま、その日は【新しい図かんがほしいです】と書いた。


 だが、家に帰ってから、爽太は自分が一番願っていることを書かなかったことの方が心地悪くて、そう書いてしまったことを後悔した。


 一番欲しい物は、直希や他の友人と同じような、『元気な体』だ。


 病気が治って、みんなと一緒に走り回っても心臓への負担を気にしなくていい、心配されることも無い、迷惑を掛けない、健康な体が欲しい。


 そして、七夕の日の夜――。


 爽太は、家族がテレビに夢中になっている間に、そっと部屋に戻り、机の中にあった紙を縦長の短冊の形にハサミで切って、そこに本当の願いを書いた。


【病気が治って、みんなとずっといっしょにいられますように】


 真ん中に願いを、左端には名前も書いた。


 学校で、直希が「短冊には名前も書かないと、織姫達が誰の願いかわからなくなっちゃうだろ」と、言っていたからだ。


 ちなみに野球好きの彼は、大リーガーになりたいと書いたらしい。


 笹の葉が家に無い代わりに、鞄を掛けるためのフックに吊るすということになってしまったけど、窓から夜空を見上げて、心の中で唱えた。



 *


 あれから六年。

 爽太は病を克服し、こうして今を生きている。


 大病を乗り越えることができたのは、あの日織姫と彦星が叶えてくれたのか、それとも別の日に天の神様に祈ったからなのかなんて、わからないけど、いろんな人達のおかげで、今日も元気に過ごせている。


 買い物を済ませた爽太は、もう一度笹の葉の前に立ち、その横のスペースに置いてある短冊を一枚とり、ペンを握る。


 今、自分が一番願うこと――。


 それは、東京の病院でリハビリに励む亜梨明が、一日でも早く回復して、夏城に戻って来ることだ。


【亜梨明が早く元気になれますように 日下爽太】


 短冊を空いてる場所に吊るして、家に帰ると、部屋に戻ったタイミングで亜梨明から電話が来た。


「……もしもし」

「あ、爽ちゃん!こんばんは!……ごめんね、テスト前に電話しちゃって」

「ううん、大丈夫だよ。どうしたの?」

「えへへ……今日、七夕でしょ?織姫と彦星は会えるのに、私達は会えないな~って思ったら、ちょっと寂しくなっちゃった……」

 その言葉通り、最後の方の亜梨明の声は少し元気が無く、爽太に会いたい気持ちがとてもよく伝わる。


「……画面、切り替えていい?」

「えっ、あ……ちょっと待って!髪整えて~……うん、いいよ!」

 爽太がビデオ通話に切り替えると、亜梨明も同じく切り替えたようで、お互いの顔が画面に映る。


「今日も顔色いいね!」

「うん、リハビリも絶好調!でも勉強は絶不調だから……帰ったら教えてもらえると助かるな」

「ははっ、いいよ!僕でわかるとこなら教える……」

 爽太がチラリと窓の外を見ると、残念ながらここからじゃ天の川も織姫と彦星を表す二つの星も見えない。


「……ねぇ、亜梨明」

「なぁに?」

「僕らは今、画面越しじゃないと会えないけど……亜梨明が元気になって、夏城に戻ってくれば、毎日会えるようになるよ」

「うん……?」

「織姫と彦星より、ずっと良くない?」

 爽太がそう言うと、亜梨明はクスッと声を漏らし、「確かにそうかも!」と笑顔になった。


「私ね、今日病院に飾ってあった笹の葉に【早く夏城に帰れますように】って書いた短冊飾ったの!」

「あはっ、僕もさっき久しぶりに短冊にお願い書いたよ!亜梨明が早く戻ってこられるようにって!」

「ホント!」

「うん!」

 二人が嬉しい気持ちになりながら見つめ合っていると、「おにいちゃーん!オムライスできたって!!」と、ひなたがドアの外から呼ぶ声が聞こえた。


「あ、ごめん……呼ばれたから」

「ううん、元気出たから大丈夫!明日テスト頑張ってね!」

「うん、頑張る……!頑張れる……!」

 爽太が名残惜しい気持ちで通話を終え、部屋を出ると、話し声を聞いて誰と喋っていたのか察したひなたは、「お姉ちゃんとでしょ?」と、ニマニマしながら兄を見上げる。


「盗み聞きは良くないぞ~」

 爽太がツンっとひなたのほっぺを突くと、「聞こえちゃったんだも~ん!」とひなたは言って、階段を駆け下りていった。


 夕食のオムライスには、星型にくり抜かれたニンジンのグラッセと塩ゆでしたジャガイモが添えられている。


「せっかくなので、七夕スペシャル!」と、唯は言い、爽太はその二つの星を織姫と彦星のようだと思った。


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