第187.5話 一日遅れのマザーズデイ
五月十一日、月曜日。
いつもの通り、緑依風と共に学校へ登校し、教室に鞄を置いた風麻は、爽太と話でもしようかと一組に赴き、彼を呼び出す。
「昨日、やっと相楽姉の見舞い行ってきた」
そう報告すると、爽太は「うん、亜梨明喜んでたよ」と、にこやかに言った。
ついこの間までは、親友でもあり
結局恋の行方は、風麻が身を引く形で決着がつき、爽太は亜梨明のために時間の許す限り、毎日のように彼女が入院する病室に足を運んでいた。
「――そうだ、話変わるけどさ」
「?」
亜梨明の話をしていた爽太が、ふと何かを思い出したように話題を切り替える。
「昨日の母の日、風麻はお母さんに何をあげた?」
「へっ?」
突然の質問内容――しかも、『母の日』?
「いや、特に何にも……ってか、母の日って昨日だったのか?」
「うん、今年は五月十日。母の日は毎年五月の第二日曜日でしょ?」
「そうだったのか……」
『母の日』なんて、もう風麻は何年も何もやっていない。
末弟の冬麻は、ゴールデンウィーク明けに幼稚園で描いたという伊織の似顔絵をプレゼントしていたが、当日ではないために風麻も次弟の秋麻も無関心だった。
「……ま、母の日に何もしないのはいつものことだし、母さんも何にも言わないしな」
「そう……」
爽太が少し残念そうな顔になると、「爽太は自分の母ちゃんに何かしたのか?」と、風麻が聞く。
「うん、毎年してるよ」
「ま、毎年っ⁉︎」
勝手に自分と同年代の男はもう、そういったものに関心がないと思い込んでいた風麻は、彼の発言に驚きを隠せない。
「亜梨明のお見舞いに行く前にコーヒーとカーネーションを買った。あと、晩御飯は毎年妹とカレーを作るよ。普段は料理なんてしないから時間はかかっちゃうけど、喜んでくれるし」
「……し、しっかりしてんなぁ……お前」
「まぁ、僕はほら……多分他の人より親の手を焼いたでしょ?小さい頃は入院の付き添いとか、常に看病介護ばかりで……それに、今は復帰してるけど、お母さん僕のために一回好きな仕事辞めたこともあるし。だから、こんな時くらいはね」
「でもそれは……仕方ないことじゃん」
風麻が口を窄めるようにして言うと「仕方なくても、してくれたことに僕が恩返ししたいんだ」と爽太は語る。
「まぁ、できることなんて限られてるけどね。……あ、チャイム鳴ったし、そろそろ教室に戻ろう。じゃ」
キーンコーンカーンコーン――と、予鈴が校内に鳴り響くと、爽太は教室に戻り、風麻も三組の教室へと帰ることにした。
*
昼休み。
「(母の日ねぇ……)」
朝の話題が胸に引っかかったままの風麻は、弁当を食べ終えて水筒のお茶を飲む直希に、彼はどうしていたのか聞いてみることにした。
「なぁ、直希」
「ん?」
「母の日ってなんかした?」
「ん〜……俺はしてねぇけど、父ちゃんが晩飯母ちゃんに作らせないためにって、回転寿司連れてってくれたなぁ。姉ちゃんはなんかあげてたけど、それはバイトしてるからで、うちの母ちゃん「自分で稼ぐようになってからでいい」って言うから、俺は何もしてねぇよ」
「なるほど……」
直希の話を聞いて、風麻も昔、伊織に似たようなことを言われたことを思い出した。
「お父さんとお母さんには、お小遣いで何かしようとかしなくていいよ。大きくなって、風麻が自分で稼げるようになったら、その時は楽しみにしてるからね」
友人の誕生日プレゼントなどなら、今あるお小遣いで無理のない金額で。
親には親からもらったお金で何かしようとしなくていい。
お金の大切さ、稼ぐことの大変さをよくわかるようになってから。
それが母、伊織の教育方針だった。
「(そうだよな……別に母さんに「プレゼントくれ」なんて言われたこともねぇし)」
爽太のように自分もしなくてはいけないなんて、思わなくていいと気が楽になった時だった。
「三橋〜、大倉が呼んでるよ〜」と、三組に遊びにきていた星華が言った。
「おっ、サンキュー」と、直希は同じ野球部員の大倉の元へ行き、星華は空いた直希の席に彼の許可もなく勝手に座って「どしたの?」と風麻の顔を覗き込む。
「ん〜?別に〜……もう解決した」
風麻が答えると、自分達の所に戻って来ない星華の元に、緑依風と奏音がやって来る。
「二人とも何話してるの?」
緑依風が少し気になる様子で尋ねる。
「なんにも。……あ、そうだそうだ!聞いてよ〜!昨日ママにめっちゃ美味いステーキ食べさせてもらった〜!みんな知ってる?春ヶ崎と
星華が自慢げに語ると、肉料理が大好きな風麻は「肉いいなぁ〜」と、羨ましい気持ちで言った。
「んふふ♡昨日母の日だったじゃん?だから、ママにプレゼント贈ったら、お礼に好きなとこ食べに連れて行ってくれるって言ってくれたからさぁ〜!んじゃ、最近口コミで美味しいってとこのステーキ食べたいって頼んだんだよね〜!」
星華の口から出てきた『母の日』という単語に、風麻は一瞬ピタリと思考を止める。
「……空上も母の日したのか?」
風麻が聞くと「あったりまえじゃーん!」と、星華はさも当然の如く答えた。
「ママに感謝の気持ちを込めて、ちゃーんとカーネーション一本あげたよ?……ま、半分はその後のお礼目当てだけどね〜!」
清々しいほど正直に真の目的を答える星華に、奏音は「やはりか……」と呟き、目をジトッとさせた。
「なぁに〜?坂下はもしかして自分の親にプレゼントなんにもあげてないの〜⁉︎ダメだよ〜!こういう時くらいしてあげなきゃ〜!」
「ぐっ……」
「見返り目当てのくせに、なーにいってんの!」
奏音が風麻の言葉を代弁するように、腕を組みながら星華に言う。
「うちだって、私も亜梨明も母の日のプレゼントなんて数年に一回しかあげないよ?」
「だ、だよなぁ~!!」
風麻が安心しながら奏音に言うと、「それよりも、何か家の仕事手伝ってくれると嬉しいって言うから。去年は玄関掃除、亜梨明は食器洗いしてたかな?」と、彼女は語り、風麻はまた面食らったように目を丸くした。
「何かあげるだけが母の日じゃないって。めんどくさいって思うことを全部一人でこなすお母さんに感謝するために、普段はやらないことをして、そのありがたみを実感するのも母の日でしょ?」
奏音の言葉が、心だけじゃなく全身にグサグサと突き刺さったような気分になった風麻は、一旦その場から離れるためにトイレへと向かった。
*
部活を終え、爽太と別れた後。
風麻はまだ、母の日に何もしなかった自分への罪悪感に苛まれていた。
「別にぃ~?もう終わっちゃったし?来年こそって思えばいいんだけども……」
ブツブツと独り言を言いながら夕暮れの道を歩いていると、「あっ、風麻!」と、背後から緑依風の声がした。
「あれ?お前こんな時間に買い物?」
「うん、優菜の好きなふりかけが無かったこと思い出して。明日のお弁当にコレが入ってないと、すごくがっかりして帰って来るだろうから」
緑依風はそう言って風麻の横に並び、「あと、安かったから牛乳とハムも……」とエコバックの中を覗く。
同い年だというのに、やたらと母親スキルの高い緑依風を横目で見ながら、風麻は「緑依風はおばさんに母の日何した?」と聞いた。
「ん?まだ母の日の話?」
緑依風は、昼休みの話題を今になってまた繰り出す風麻を変に思いながら「一応、カーネーションとハンドクリームをあげた」と答えた。
「はぁ~あ、なんでみんなきっちりしてんだよ。特に緑依風なんて、いつもおばさんの代わりにメシ作って、洗濯取り込んで、自分の弁当と一緒に優菜の分まで作って……逆に感謝される側じゃんか……」
不貞腐れたような口調の風麻。
緑依風は、そんな様子の彼の横顔を見て、困ったような笑みを浮かべて息を吐く。
「母の日、何もしなかったこと気にしてるの?」
「…………」
改めて人に指摘された途端、なんだか咎人のような気持ちになり、風麻は顔をしかめたまま俯いてしまう。
「……俺はさ、緑依風や爽太みたいに母の日にプレゼントを準備して、料理を作ったり、相楽達みたいに母の日に手伝いを名乗り出たりしたことはないけど……。でも、母さんに全く感謝してないわけじゃねぇよ……」
「…………」
「普段は細けぇことばっか言ってくるし、ちょっとしたことで怒るし、うっとおしいって感じる部分、いっぱいあるけどさ……。でも、ふとした時に思うんだよ。俺の母さんが、この母さんでよかったって。たまーに熱出して寝込んだ時とかにさ、熱を確かめるのに置いた手で、そのまま頭撫でてきたりとかすんの、正直めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど……でも、安心する。友達とケンカして帰ってきた次の日とか、朝からハンバーグ出してきたりして、何にも言ってないのに俺が元気無いってわかってくれてるのとかさ。照れくさくて声にできないけど、「ありがとう」って思うことも、いっぱいあるよ……」
語りながらに何故だか目の奥が熱くなってきた風麻は、これ以上は本当に泣いてしまいそうだと予感し、堪えるようにグッと唇を結んで、涙が引いてくれるよう意識を集中させる。
緑依風は、まるで母親のような面持ちでゆっくり頷き、風麻の気持ちが落ち着くのを数秒待ってから口を開く――。
「それをおばさんに言えばいいじゃない」
「は……?」
風麻が振り向くと、緑依風は優しく笑みを湛えたまま、更に言葉を続けた。
「普段言わない「ありがとう」をさ。「母さん、いつもありがとう」って、おばさんに言ってあげなよ。多分、それだけでおばさんは全然嬉しいよ」
「そ、そうかぁ……?」
言葉だけなんて、一番残らないし空しい気がして、風麻は乗り気になれない。
「例えば私はさ、千草や優菜にね?毎日「ありがとう」なんて言われないよ?それどころか、作ったご飯に「おいしかった」って言われるのも時々なんだ。多分ね、まずかったわけじゃないの。でも、そんなのいちいち言うことないでしょって思うから、だから言わない。でも、たまーに気付いた時でいい。何か感謝の一言を言ってもらった瞬間、嬉しくなるの!」
「…………!」
緑依風に言われた通りだった。
毎日食べる母のご飯を美味しいと思っても、それを口に出すなんて、一年に何回だろう?
部活で汚れた練習着を綺麗に洗って畳んでくれても、その都度お礼の言葉なんて別に必要ないって、どうして思っていたのだろう?
もしかしたら母は、その言葉をずっと待っていたかもしれないのに。
その一言すらももらえないことに、傷付いているかもしれないのに――。
「風麻が昼休みのことでずっと気にしてたのは、本音ではおばさんにすっごく感謝してるからでしょ?だったら、一日遅れでもさ……おばさんに感謝の言葉は言うべき!!これ逃したら、多分またずっと言えないよ?」
緑依風がそう言ったところで、自宅の灯りが見えてくる。
家の前まで近付くと、自分の家の窓の方から何かを炒める香ばしい匂いが漂ってきて、母が家族のために晩御飯を作っていることがわかった。
「……そうだな。言うよ、母さんに。ありがとってな」
「うん、そうしなさい!……じゃあね!」
緑依風が軽く風麻に手を振り、ドアを開けると「お姉ちゃんおっそーい!腹ペコ!!」と千草の声が聞こえ、緑依風は「はいはい、すぐ鍋あっためるから食器ぐらい出して……」と呆れながらドアを閉めた。
風麻は、「あいつホントに母ちゃんだよな……」と苦笑いしながら、自分の家のドアを開け、「ただいまー」と言った。
「おかえりー!お風呂沸いてるから、先に汗流しちゃいなさい」
台所から、母の伊織がフライパンに醤油を垂らしながら風麻に言う。
「かっ、母さん!その前にさ……」
「なぁに、何かやらかした?」
「ちっ、ちげぇし!!」
肩に掛けていたスポーツバッグを床に置いた風麻は、改まった顔の息子に首を傾げている母の前に立ち、軽い深呼吸を二、三回繰り返す。
「母さん、いっ……」
「い?」
「いっ、つもっ!!あ、あぁぁ、ありがと……な!!」
「えっ?」
照れくささに上ずった声でも、頑張って言ったつもりなのに、母の伊織はキョトンとしながら、「どうしたのよ……?」と更に首を横に向けた。
「あ、ぁぁぁぁ~もう!と、とりあえずそういうことだから!!風呂っ、行くっ!!」
精一杯の気持ちがいまいち伝わっていないようで、ますます恥ずかしくなってしまった風麻は、顔を真っ赤にしながら踵を返して洗面所へ向かおうとする――が。
「……風麻」
伊織が振り向きもしないまま、息子を呼び止める。
「……なに?」
「こっちこそ……ありがとね……!」
「……うん!」
伝わっていた。
そうわかった瞬間、恥ずかしい気持ち以上に嬉しくなった風麻は、上機嫌で洗面所に行き、入浴の準備をする。
伊織は、野菜炒めの味見をしながら「あ~あ、年を取ると本当に涙腺って弱くなるのね……」と呟き、濡れた目元をキッチンペーパーでこっそりと拭くのだった。
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