第131.5話 バーナデット


「歌が聴こえる……」

 十一月の土曜、昼下がり。


 亜梨明の見舞いに訪れた爽太は、家の前で誰かの歌声に耳を傾けた。


 声の主はおそらく亜梨明だろうと、爽太は予測した。

 高くて甘い、柔らかな声質を持つ亜梨明の声を、爽太は聞き間違えたりしなかった。


 爽太が相楽家を見上げると、窓を背にして壁にもたれている亜梨明が見えた。


「歌ってるってことは、今は楽になってるのかな?」

 一昨日の昼休み、亜梨明は真っ青な顔で爽太に体調不良を訴えた。


 保健室に連れて行った後、すぐに彼女の母が学校に迎えに来て連れ帰ったが、亜梨明の体調は翌日になっても優れなかったようで、二日間学校を休んでいたのだ。


 爽太は、亜梨明が休んでいる間のノートをコピーしたものと、彼女の好きな紅茶の焼き菓子を手に持ちながらインターホンのベルを押す。


 相楽姉妹の母親の明日香は、爽太にお礼を言って部屋に案内した。


「亜梨明、日下くんがお見舞いに来てくれたよ」

 明日香がドアをコンコンとノックすると同時に、亜梨明の歌は止まり、代わりに「えっ⁉」と驚く声が部屋の内側から響く。


「どうしよう、髪ボサボサで……五秒――あぁ~じゃなくて、二十秒待って!!」

「うん、待ってるから、入っても大丈夫なら合図して」

 爽太はそう返事をしつつ、亜梨明の歌が終わってしまったことを残念に感じていた。


「(聴いたこと無い歌だったな……でも)」

 なんの歌かは知らないが、作曲が好きな彼女なら、きっとオリジナルの歌なのかもしれないと思ったところで、亜梨明から「いいよ」と言う許可が下り、そっとドアを開ける。


「爽ちゃん!」

 やや青白い顔をしているが、亜梨明は元気そうな笑顔で爽太の名を呼んだ。


 ベッドの上で座っていた亜梨明の周りには、書きかけの楽譜や、音楽の本などが置かれている。


「ノートのコピーと、お見舞いに木の葉の紅茶のクッキーとか、ドーナツ持って来たよ」

「わぁ、嬉しいっ!ありがとう!」

 亜梨明はベッドから降りると、爽太からノートとお菓子の入った袋を受け取った。


「あ、ごめんね!ベッドに座ってもらおうと思ったけど散らかってるし、座布団とあと……」

「あ、いいよ!床に座るし、あまり動かないで」

 爽太はピンク色のカーペットが敷かれた床に座ると、「気分はどう?」と彼女に聞く。


「今はかなりいいよ。朝は……まだだるくて動けなかったんだけど、月曜日には学校に行けたらいいなって思ってる」

「そっか。まだ顔色悪いし、無理しないで」

 爽太が体調を気遣うと、亜梨明は「ありがとう」とお礼を言った。


「さっき歌ってた歌って、亜梨明の作った曲?」

「えっ!歌聴こえてた⁉︎」

 亜梨明の頬が少し赤らみ始めた。


「うん。亜梨明の家の前に着いたら聴こえてきた」

「えぇ〜っ……恥ずかしい……。外にまで聴こえてたなんて……」

 亜梨明はそう言って、顔を隠すように両手で覆う。


「どうして?歌上手いじゃない。綺麗な歌だって思ったよ?」

「そんなことないよ!晶子ちゃんの方が上手いじゃない!」

「沖さんのはまた別次元だよ。でも、僕は亜梨明の歌も好きだよ」

 爽太が素直な感想を伝えると、亜梨明ははにかむような笑みを湛えて、モジモジとした。


「――で、今の歌は?」

「あ、今のは私のじゃなくて……誰かの歌」

「誰かの?」

「うん、曲名も誰が歌ったのかも、ちゃんとした歌詞も知らないの」

「じゃあ、なんで歌えるの?」

 爽太が聞くと、亜梨明は「ずっと聴いてたから」と答えた。


「昔ね、同じ病室のお姉さんがよく歌ってたんだ。この歌が聴こえる時は、お姉さんの体調がいい時で、隣のベッドからカーテン越しに聴こえてくるのがいつも楽しみだったの。そしたら自然に覚えて、勝手に口ずさんじゃうようになって……。多分英語の歌詞だと思うから、その歌の意味もわからないんだけど……なんか、すごく癒されたんだよね」

 亜梨明は窓の外に目をやると、秋晴れの空を見上げた。


早苗さなえちゃんっていう、中学生くらいのお姉さんでね。あ、その時私は小学生だったんだけど、折り紙教えてくれたり、絵本を読んでくれたりして、その病室みんなのお姉さんだったの!」

「優しい人だったんだね」

「うん!」

 亜梨明が頷くと、爽太も同じように、彼女が見つめる空を眺めた。


 だが、亜梨明は「でも……」と言って視線を落とすと、窓枠に置いている手を軽く握った。


「早苗ちゃんは、元気になれなかった……」

「…………!」

 爽太が短く息を呑むと、亜梨明はまた窓に背を向けて、爽太と正面で向かい合わせになるよう座り直した。


「ある日突然、違う部屋に移動して……それからしばらくしたら、早苗ちゃんの両親が泣きながら、早苗ちゃんが使っていた部屋を片付けてた……」

「…………」

「――前に、置いてかれるのが嫌で、病室を一人にして欲しいって、お母さん達に頼んだ話したでしょ?……でも、それだけじゃないの。同じ部屋の子が……退院じゃなくて、空に旅立っちゃったことも……。そんな別れ方もしたくなくて……それを頼んだのも、早苗ちゃんがいなくなったことがきっかけだった……。一人部屋になってからも、今も……ずっと忘れられない。早苗ちゃんだけじゃない……他の子のことも……。「バイバイ」すら言えずに、二度と会えなくなった友達のこと……」

 そう言ったところで、亜梨明は膝を抱え、瞬きをして涙をこぼす。

 爽太はそっと立ち上がり、彼女のそばに寄り添うように隣に座った。


「ごめんね……。前向きになろうって、普段なら考えられるようになれたけど……。でもっ、発作が出たりとか、しんどい時に……時々その子達のこと思い出して、つい考えちゃうの……。最期、苦しかったのかなぁ?それとも、やっと病気の苦しさから解放されて、安心したのかなぁとか……。わたしも……っ、私もその時が来たらどんな感じなのかなって……っ」

 亜梨明は膝に顔を埋めると静かになり、時折鼻をすするようにして肩を震わせた。


「…………」

 爽太はしばらくの間、何も言わずに亜梨明の背を優しく撫で続けた。

 亜梨明が落ち着くように、安心させるようにゆっくり、ゆっくりと。


 窓から秋風がふわりと入ってくる。

 遠い空から差し込む陽光が、室内のカーペットの上を照らした。


「ねぇ、さっきの歌……もう一回歌って?」

「……さっきの?」

 亜梨明はようやく顔を上げた。


「うん、聴きたい」

「えっ……は、恥ずかしいから……」

 亜梨明は顔に張り付いた長い髪を指で取りながら言ったが、爽太は「笑わないから」と優しく微笑みながら言った。


 亜梨明は、膝上を見つめて悩んだ後、軽く息を吸って歌い始めた。

 涙声に混ぜた、高く透き通る亜梨明の歌は、部屋を抜けて、窓の外へも響いていく。


 爽太は隣で目を閉じて、その声を聴き入った。


 最初は照れくさそうに歌っていた亜梨明だったが、だんだんと恥ずかしい気持ちは無くなったのか、声のボリュームを少し上げ始めた。


 亜梨明は歌いながら、早苗の歌声を思い出していた。

 亜梨明は今まで、早苗がこの歌を歌う時は、元気な時だと思っていたが、本当はそうではなかったのではと気付き始める。


 歌う前の早苗はいつも、普段よりも一際明るい声と表情で、小さな子供達のお姉さんをしていた。


 自分なら、そう振る舞う時は、自分の具合の悪さを隠したい時や、どうしようもない不安に襲われた時だ。


 きっと、早苗も同じだとすれば、歌うのはその不安を振り払いたい、あるいは心を落ち着かせたい時だったのかもしれない。


 それを理解した途端、いつも悲しい思い出ばかり蘇っていた他の子達と、楽しく過ごしていたこともたくさん思い出した。


 テレビを見たり、お絵かきやおままごとなど、共に遊んで笑いあったこと――。


 楽しい日々の方が多かったはずなのに、自分はどうして悲しみばかりに結び付けていたんだろうと振り返ると、一度止まったはずの涙が再び溢れた。


 歌い終わると、悲しみや不安な気持ちは全て涙と共に流れ、代わりに胸の奥に温かいものが残った。


 亜梨明がパジャマの袖で涙を拭いて微笑むと、爽太も安心したように笑った。


「歌ったら……すっきりした。爽ちゃん、ありがとう」

「僕はただ、亜梨明の歌をもう一度聴きたかっただけだよ」

「それでも、歌わせてくれたのは爽ちゃんだから……」

 亜梨明は後ろを振り返り、もう一度空を見上げる。


「風が冷たくなってきたね。冷えると良くないから、そろそろ閉めたほうが……」

「うん……でも、もう少しだけ……」

 亜梨明が目を閉じて風を感じていると、爽太が自分の着ていたパーカーをそっと亜梨明の肩にかけた。


「あったかい……ありがとう」

「うん……」

 爽太の上着に残る温もりと、彼自身のお日さまのような微笑みが、秋風の冷たさを和らげてくれた。


 爽太が帰った後も、亜梨明は小さな声で歌を歌った。

 それは不安だからでも、具合が悪いからでもなく、心が安らぐからだった。


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