第10.5話 触れたくて


 ピピピピピピピピ――。


 桜舞い散る日の朝。

 デジタル表示タイプの目覚まし時計が、持ち主を起こそうと音を鳴らす。


「ん……んぅ~……」

 薄暗い部屋の中で、目を閉じながら懸命に手を伸ばし、感覚で目覚まし時計を探し当てた少女、松山緑依風。


 パチッと軽く叩きながら目覚まし時計を止めると、先程まで潜っていた掛布団の中から、髪の毛を爆発させた緑依風がぼんやりとした顔で、時刻を確認する。


「ろく……じ……か。ふぁぁ~~!」

 誰も見ていない自室でも、あくびによって大きく開かれる口に手を添え、口内を隠す。


「さてと……眠いけど間に合わなくなっちゃうし」

 緑依風は毎朝六時に起きている。

 何故なら、朝からやらなければならないことがたくさんあるからだ。


 *


「はぁ……。毎日毎日、このくせっ毛……なんとかならないかなぁ~……」

 制服に着替えた緑依風がまず最初にするのは、髪の毛のセットだった。


 コンプレックスである、ブワッと広がりまくって、ぴょこぴょこ跳ねるこの髪の毛を、真っ直ぐにせねばならない。


 次にやるのは、学校に持っていく自分の弁当の支度だ。

 母の葉子は、父の経営する店の副店長であるため、緑依風は忙しい母の負担を軽減するためにも、毎朝自分の弁当と、朝ご飯の調理を担当していた。


 母は、末妹の幼稚園の送り迎えの時間前まで眠っている。

 日によっては、深夜まで夫婦揃って店にいることもあるため、緑依風はなるべく、そんな母を休ませてあげたかった。


 七時五十分になると、緑依風は家を出て、風麻と家の門の前で待ち合わせしてから学校に向かう。


 緑依風がドアを開けるのと同時に、隣の家から風麻も出てきた。


「はよっ」

「おはよう。風麻すごいね、中学生になってから全然遅刻しないじゃん!」

「まぁな、俺も成長したってことだよ!」

 得意げに言う幼馴染の風麻は、小学生までは自分で起きれず、いつも待ち合わせ時間に五分程遅れるか、もしくは緑依風に先に学校に行ってもらい、自分はチャイムギリギリになって、教室に駆け込むことが多かった。


 緑依風は風麻の隣を歩きながら、彼の頭の上に白い塊があるのを見つけた。


「もぉ〜……またワックスがゴミクズみたいに固まってるし。ちょっと止まって」

「ゴミじゃねぇし、自分でやるからほっとけって!」

 緑依風が、風麻の頭にあるワックスの塊を取りながら髪を整えようとすると、風麻はその手をやんわりと払おうとした。


 風麻は中学生になってから、髪をわざと跳ねさせるようなセットをしていた。

 理由は、少しでも背を高く見せるためだった。


 緑依風と風麻はコンプレックスが正反対で、長身と跳ねるくせ毛に悩む緑依風に対し、風麻は平均よりやや小さい身長と、艶のある柔らかくて真っ直ぐな髪が嫌いだった。


 風麻が遅刻しないようになった理由は、この髪の毛を整えるための早起きだった。


「なんか、上から触られるとますます悔しいんだけど」

 風麻は不満そうな目を向けながら、緑依風に言った。


「上の方で固まってんだから、上から触るしかないでしょ」

「じゃなくて……そうやって、子供扱いばっかされんのが悔しいの!」

「子供なんだからしょうがないでしょ……」

「んだとーっ⁉︎」

「まぁた、朝からケンカしてんの?」

 二人の後ろから、相楽奏音が声を掛けた。


「緑依風ちゃん、坂下くんおはよう!」

「亜梨明ちゃん、奏音、おはよう!」

「おはよーっす」

 朝の挨拶をする亜梨明に、緑依風と風麻も挨拶を返した。


 四人で並びながら歩いていると、亜梨明が緑依風と風麻に、珍しい物でも見るような視線を向けていた。


「どうしたの?」と、緑依風が聞くと、亜梨明はクスッと笑った。


「緑依風ちゃんと坂下くんって、女の子と男の子なのに、すごく仲良しだなぁって思って!」

「え?」

 緑依風がドキリとすると、「そりゃあな」と、風麻が言った。


「俺ら、小さい頃から一緒で、兄妹みたいなもんだからな!」

 緑依風はその言葉を聞いた途端、安堵と同時に落胆した。


「きょうだい?」

「そ、俺らは三歳からの付き合いだし、こいつんとこの妹二人と、俺の弟達もみんな年一緒同士でさ。よく知ってるし、よく遊ぶから、兄妹と一緒。な、緑依風?」

「うん、そんな感じ」

 不本意だが、風麻や亜梨明に真実を知られたくない緑依風は、そう答えるしかなかった。


「そっかぁ〜!大家族みたいでいいね!」

 亜梨明の横で、奏音が少し哀れむような視線を緑依風に向けると、緑依風はそれに気付いて苦笑いした。


 *


 教室に入ってからの風麻は、爽太の他にも新しくできた、別の小学校出身の男友達二人と話をしている。


 緑依風は、そんな風麻の様子をチラチラと横目で見ながら、相楽姉妹と共に星華の話を聞いていた。


「(日下の他にも、新しい友達ちゃんと作れてよかった。まぁ、風麻なら友達すぐできるとも思ってたけど……)」

 幼稚園の頃からリーダーシップを見せる風麻は、いつも仲の良い友達の中心にいた。


「ヒーローごっこするひと、このゆびとーまれっ!」

 緑依風は風麻を好きになった日から、彼の指に一番に触れたくて、必死に手を伸ばしていた。


 残念ながら足が遅いので、なかなか一番に風麻の指に辿り着けず、他の子の手を握ることの方が多かったのだが……。


「(小さかったなぁ、風麻の指……。今も、私より小さい手だ……)」

 自分より小さな少年も、いつか成長したら、背丈だけでなく、手も大きくなるのだろうかと、緑依風が物思いにふけていると、「ちょっと、緑依風!大丈夫〜?」と、星華が緑依風の顔の前で手を振りながら言った。


「えっ?」

「さっきから上の空だよ?……まぁ、視線からなんとなく何を考えてるかわかったけどさ」

 最後の方の言葉を、小声でニヤニヤして言う星華に、緑依風は、口を戦慄わななかせながら頬を赤らめた。


 何も知らない亜梨明だけは、「体調悪いの?」と聞いたが、奏音もどこか微笑ましそうな目線を緑依風に送った。


 *


 昼休みになると、緑依風、亜梨明、星華、奏音は、一箇所に固まって一緒にお弁当を食べていた。


 その少し離れたところで、爽太と一緒にお弁当を食べようとしている風麻が、「あちゃ〜……おかずかなり減ってたな」と言ってる声が聞こえた。


 風麻は、三時間目と四時間目の間の休憩時間中に、お腹が空いたからと早弁をしていた。


「そりゃ、食べたら無くなるよ」

 爽太は「あははっ」と笑いながら風麻に言った。


「僕のおかず一つあげるよ」

「サンキュー!……あとは」

 そう言って風麻が立ち上がって向かってきたのは、緑依風のいる席だった。


「ギブミーおかず!」

 風麻は、自分の弁当箱を差し出しながら、緑依風におねだりした。


「あんたねぇ〜、自分の分食べちゃったんでしょ?人の分まで食べようとするんじゃないの」

 素直になれない緑依風は、一度はプイッと風麻から顔を背ける。


「成長期なのっ!だからたくさん食わないとダメなんだよ〜!」

「しょうがないなぁ〜」

 本心では、自分の弁当を頼ってくれる風麻に嬉しくなっている緑依風は、朝敷き詰めた手作りのおかずの、どれを取るのかドキドキしていた。


「ん〜と、卵焼きと……」

「と、って……何個取る気?」

「とりあえず二個」

 風麻が緑依風の弁当箱の上で迷い箸をしていると、亜梨明は「二個も取ったら緑依風ちゃんのおかず無くなっちゃうよ〜」と風麻に言った。


「いいよ亜梨明ちゃん。……じゃあ、このチキンのピカタはどう?」

「ピカタ?」

 聞いたことないおかず名に風麻が首を傾げると、ナゲットのようなものだと緑依風は説明した。


「ナゲット!俺それ大好き!」

 風麻は早速、そのまま緑依風の弁当箱に箸を突き刺した。


「うめぇ!」

 一口でそのピカタを食べた風麻は、口をモゴモゴさせながら言った。


「何これ美味いな!もう一個……」

「え、ちょっと……!」

 風麻は二つ目のピカタもサッと取って食べてしまった。


「これ気に入った……!これもお前作ったの?」

「そうだけど、私のメイン無くなっちゃったよ……」

 緑依風は、今朝味見した時に上手くできたと思って、楽しみにしていたメインディッシュが無くなってしまったことを残念に思ったが、手が止まらなくなるほど風麻が気に入ってくれたことに、嬉しさで胸がいっぱいになっていた。


「卵焼きも欲しい」

「はいはい……」

 風麻は緑依風の卵焼きも一切れもらって食べると、「幸せの甘みだ……」と満足げな顔をして、自分の席に戻っていった。


 亜梨明は、すっかりおかずが減ってしまった緑依風を心配し、自分の弁当箱からベーコンの野菜巻きを一つ分けてくれた。


 *


 亜梨明が一人でトイレに行くと、奏音と星華がニヤニヤしながら、先程のやり取りについて話し始めた。


「坂下の胃袋掴んじゃってるね〜!」

「緑依風、怒ったふりしてたけど、まんざらでもない様子バレバレだったよ〜?」

「小声で話してよっ!周りに聞こえちゃうじゃない!」

 緑依風がヒヤヒヤしながら周囲を気にする。


「気付いてる人はもう気付いてるんじゃない?まっ、亜梨明はまだ気付いてなかったけどね」

 奏音は、亜梨明が出て行ったドアの方に視線を向けながら言った。


「――でも、掴んでるかどうかなんてわかんないよ……。だって、あの子食べること好きだもん」

 緑依風が自信なさげに言うと、「確かに、あれじゃわからんわ〜」と、星華が爽太とお喋りをする風麻を見た。


 風麻は弁当箱を持ち上げて、残りのご飯などをかっ込むように食べている。


「坂下って、うまけりゃなんでもいいって感じするよね」

 星華に言われた通り、風麻はじっくり味わって食べるのではなく、口に入れた瞬間に、美味しいと思ったものはすぐに飲み込み、不味いと思ったものは、それ以降箸もつけない。


 これでは本当に胃袋を掴めているのかはわからない。


 *


 六時間目の体育の時間。

 男女で体育館を半分にして使用しているため、仕切り用ネットの向こうに、風麻が見える。


 男子は球技大会に向けて、ドッジボールの練習をしており、緑依風の視線の先では、風麻が相手チームの力強いボールを受け止めていた。


「おっしゃー!」

 雄叫びをあげた風麻が、相手コートの選手にボールを当てると、風麻は味方チームの選手とハイタッチを交わした。


 女子はポートボールの練習をしており、緑依風はゴールキーパーとして立っているのだが、風麻の活躍に、つい気を取られてしまう。


 おかげで、せっかくの長身を生かしたポジションにいるにもかかわらず、ボールを受け取る前に、ガードする相手チームの選手に、妨害されてしまった。


 *


「(うぅ……。あれは反省しないと……)」

 体育を終えて、制服に着替えながら、緑依風は余所見していた自分を恥じていた。


 緑依風が亜梨明達と共に更衣室を出ると、爽太と会話をしながら、教室に戻ろうとする風麻が目の前にいた。


 すると、横を向いた風麻の首から、だらりとぶら下がったままのネクタイが見えた。


「――あっ、風麻っ!」

「は?」

 緑依風に呼ばれて振り向いた風麻は、ネクタイを締めていなかった。


「ダメじゃない!男子は校則で、夏服以外の時はネクタイ絶対着用でしょ!」

「だーかーら、着けてんじゃんか。首に下げてる!」

 風麻は堂々と言うが、それは着けてるとは違うと、その場にいる全員が思った。


「だってよ〜……ネクタイの締め方、まだわかんねぇんだもん」

「まだおばさんに、朝付けてもらってんの⁉︎」

 風麻の隣にいる爽太は、きっちりとネクタイを締めており、もう自分で結べるのだろう。


 だが、風麻は入学して一週間経っても、まだ一人ではうまく結べないようで、体育の後などは、団子状に結ぶか、首から下げるだけにしている。


「しょうがないなぁ〜……ほら、首出して!」

「いいって、もう後は部活行くだけだし……」

 風麻はそう言って断るが、緑依風は風麻のネクタイをしっかり掴んで、自分に寄せた。


 体育の後で、風麻の頭からは汗の匂いがする。

 でも、それに混じって、風麻本人の香りもふわりと緑依風の鼻先を掠めていった。


 そばにいないと、わからないくらいの、薄い匂い。

 でも、緑依風はそれが好きだった。


 テキパキとネクタイを締める緑依風を、奏音と星華はニヤニヤと。

 亜梨明と爽太は、ポカンとした様子で見ている。


「――……はい、できたっ!」

「おう、サンキュ……」


 緑依風は「早く覚えなさいよ」と言いながらも、内心は、あともう少しだけこうさせて欲しいと願った。


 風麻がネクタイを結べるようになれば、もうこんなことはできないから……。


「緑依風ちゃんすごいね!ネクタイ結べるんだー!」

 後ろにいた亜梨明は、手を小さくパチパチ鳴らしながら褒めた。


「あ、えっと……そういう服装って、女子にもあるでしょ?テレビでたまたま見たんだ……」

 本当は、きっと風麻ならネクタイを結べないはずと思い、ネットでやり方を調べたのだが、緑依風はそう言って誤魔化した。


 風麻に少しでも触れたいから。

 でも、恋人でもないのに簡単に触れられないから、こうやって、少しでも触れられる機会を探すのだ。


「松山さんってさ……いつも思うけど、風麻にすごく構うよね?」

「えっ⁉︎」

 爽太に指摘された緑依風は、裏返った声を上げた。


 緑依風は、爽太に風麻への好意を気付かれたのではと思い、どうしようどうしようと、焦り始めた。


「なんか、風麻のお母さんみたい!」

 爽太がそう言った途端、緑依風の後ろにいた奏音と星華はがっかりとし、風麻は「えーっ……」と嫌そうにした。


「母さん二人とかマジ勘弁……。それに、こいつは俺の妹みたいなもんだから!俺が兄ちゃんだからな!」

 緑依風より下に見られるのがよほど嫌なのか、風麻はあくまでも『兄』のポジションでいたいらしい。


「……緑依風ちゃんの方が大きいから、緑依風ちゃんがお姉さんじゃないの?」

「な……!」

 亜梨明の悪意の無い言葉が、風麻の心にザックリと突き刺さった。


「くっそ〜っ‼︎絶対絶対ぜぇーったい!俺はお前よりでっかくなるからな‼︎」

 風麻は悔しそうに地団駄を踏みながら、緑依風を指差して言った。


「はいはい……遠いだろうけど、頑張って大きくなりなよ。小さな風麻くん」

 緑依風はまた、天邪鬼な態度でそう返した。


 先を歩く風麻を見て、緑依風はまた、「やってしまった」と言いたげな表情で項垂れた。


「緑依風、この間も言ったけどさ〜、それは嫌いなふりしただけの、大好き丸わかりの態度だからね」

「ま、周りから見たらのハナシだけど!」

 哀れむように、奏音と星華が緑依風の肩に手を置いた。


「うん……。でもさ……風麻にわからないなら、もう少しだけ……」

 緑依風は、二人に聞こえるか聞こえないかギリギリの、小さい声でそう言った。


 これが現在いまの――幼馴染の自分が、一番近くにいられる距離だから。


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