【ver.2】Parts:016「すべてを忘れてしまう前に」



 それは十月に入った時のことだった。晩秋を迎え始め、夜の月が綺麗に映える涼しい季節に変わって来たのだけれど、私の脳みそは「大事なこと」を片っ端から失い始めていった……。


 


 「澪……調子はどうだ」


 「あれ?こうちゃん、……昨日来たよね?私、テレビはなに見たっけ?……今日は何曜日?」


 「落ち着け。大丈夫だから。無理に思い出すな!!」


 「頭がおかしいんだよ!!昔のことが思い出せないの!!……私、今大学行ってるんだよね?何年生?」


 激しい息切れと貧血の症状。極めつけは何となくイライラが治まらない。桑畑先生は「モルヒネの禁断症状」が出ていると言っていた。それが、さっぱり何のことか理解できなかった。


 「ねぇ、どうして枕元にオルゴールがあるの?……誰から貰ったんだっけ?えっ、……手紙?」


 


 こうちゃんはそんな私の取り乱す様子を見て、いたたまれない表情だった。


……「こうちゃんが付けていた闘病記録」によると、私の脳はMRIを使って撮った時には、異常がなかったが、神経が傷ついて記憶障害を起こしてしまい、てんかんの可能性もあるとのことだった。免疫抑制剤の効果で、脳が正常に働けずに、記憶の後遺症が残ってしまうかも知れない。とのことだった。


 すっかり毎日がぼんやりしてきて、感覚が麻痺して。昼と夜の境目すら分からなくなっていた。




 どうやら、この間に私はトイレで倒れていたらしい。看護師さんが介抱してくれてベッドに戻ったんだけれど、血圧は二百を突破して、目は充血し、口から泡を吹いていたそうだ。




**



 「こうちゃん……一緒に日記書いて。全て忘れちゃいそう」


 こうちゃんは大学を休んで付きっきりで、こんなダメな私の面倒を見てくれていたんだと思う。一日に食べたもの。見たテレビ。……感動したこと。逆に辛かったこと。……会った人。それから呟いた言葉。一緒に書いては、こうちゃんは私と一緒に口に出して復唱してくれた。


 不安で考えると、冷や汗をびっしょり掻いて、血圧も百八十からなかなか下がらず、睡眠薬を三回飲んでもぐっすり眠れなかった。……顔も麻痺で強張って表情が作れない。……あれ?ここはどこだっけ。


 「ゆっくりでいい。……着実に、一つ一つクリアしていこう」


 こうちゃんはそう言いながら、私の背中を優しく擦ってくれた。




**




 輸血とセミクリーンルーム、友人との面会を繰り返したけれど、……私は何一つ覚えていなかった。


桑畑先生の診察によると「GVHD(移植片対宿主病)と言う、移植された血液細胞が、正常な患者の細胞組織を攻撃する症状がやっと身体に出てきて、身体が赤みを帯びてきた」とのことだった。ドナーの骨髄が身体の中で頑張ってくれているらしい。


 身体がズキズキする感じがして、吐き気と気持ちの悪さがあって。本を読んでもすぐ忘れてしまう。霧の中を歩いてるみたいで、自分が起きているのか寝ているのかも分からない。一人でいるのがとても怖かった。徐々にご飯が食べられなくなってきた。水を飲むだけでお腹いっぱいになってしまう。皮膚も過敏になってるのか、布団が擦れただけで悲鳴を上げる程に痛かった。


 私の不安をよそに、白血球は激増していた。お母さん達は青くなっていたけれど、私には黙っていたようだった。身体の発熱も徐々に繰り返し、熱が三十八度から下がることは無かった……。




**



 「これはかなり厳しいですね……」


 「娘は、娘はどうなるんですか?」


 カーテン越しに桑畑先生とお母さんが口論する様子が聞こえた。


 「もしかしたら……助からないかも知れません」


 「う、嘘でしょ?先生、……何とか言ってください。一ヶ月なんですか?それとも……一週間なんですか?」


 「……明日が、限界かも知れませんね。骨髄移植の後にも、がん細胞が生き残ってしまった。澪さんの身体にこれ以上、放射線を浴びせるのは無理です……最善を尽くすしかありません」




**




 それは夕方のことだった。私はこうちゃんに身体の痛むところを擦られながら介抱して貰っていた。看護師さんとお母さんも立ち会っていたと思う。お父さんは車を急がせて病院に向かう最中だった。看護師さんは、私に心電図を付けながら、話しかけていた。


 「こうちゃん……身体が凄く……だるいの」


 こうちゃんは私の手を握りながら励ましてくれた。お母さんは「カノンのオルゴール」のゼンマイをいっぱいに巻き、私の枕元に置いてくれた。


 「こうちゃん……もうだめかも……しれない」


 「しっかりしろ!澪」


 そして、少しずつ呼吸が乱れ始めた。こうちゃんは泣きながら、必死に私の手を握って励ましていた。


 「興造さん、お母さん、……脈が低下してます」


 「澪!!しっかりしろ!僕はここだぞ!!」


 「澪、お父さんが来るまで頑張って!!お母さんが付いてるから!!」


 桑畑先生は無言で心電図を見ていた。こうちゃんはベッドの上で抱きしめて、必死に話しかけていた。




 その時、私は「一つの言葉」を言い残して、この世を去った。


 「ばいばい……こうちゃん……愛してる」




 「澪、しっかりしろ!起きてくれ!澪!!」


 こうちゃんは、私の身体を必死に揺さぶっていた。しかし、目を覚ますことは無かった。私はこうちゃんに抱きしめられる形で、息を引き取った。




**


 お父さんとか友人達が見る中で、私の身体から医療機器が外されていった。夕方になり、夜になって人が去って行った。私との別れを惜しみながら、すすり泣く声が、病室から入り口に掛けて響いていた。


 「……興造くん。今までありがとう。本当に感謝している」


 「本当に……澪は幸せでした。私、なんて言ったらいいか……」




 二人の両親は呆然としていたこうちゃんを、帰らせようとしていた。しかしこうちゃんは受け入れられず、「中身の無くなった私の身体」にしがみ付いて、ボロボロと涙を流し、両親が帰って深夜になるまで別れを惜しんでいた。


 こうちゃんは我に返り、窓を見て外が暗くなっていたことに気が付いた。


 「澪、ありがとう……さよなら」




 しかし、こうちゃんはかなり荒れていた。病室を出ると、自動販売機の横にあったプラスチックのゴミ箱を激しく蹴り飛ばした。プラスチックのゴミ箱は、深夜の廊下で跳ね、激しい音が隅々まで響き渡った――。


 「くっそ、ただ単にタンパク質と無機質と脂肪とリンと、炭素と鉄と水分で構成された『肉の塊』じゃないか!!!!」


 お願い、これ以上荒れないで。私のことはもういいから……誰かいい人を見つけて、幸せになってよ。


 「……人ってどうして脆いんだよ」




**


 それから、こうちゃんは「居なくなった私の隙間」を埋めるように「Qualia(クオリア)」を作ったのだった――。こうちゃんは二十年の間、「たった一人の女性を失ったトラウマ」にしがみ付いて、前に歩みだせないでいる。痛々しくって見てられないよ。……お願いだから「Qualia」じゃなくて、……誰かいい人を見つけて。お願いだから――。




――【ver.3】に続く。

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