【ver.2】Parts:015「カノンとジーク」



 骨髄移植まで数日を切り始めた。……ヒグラシの鳴く声と、ざわざわとした木の葉の擦れる音が過ぎていく夏を感じさせていた。今日は胸部にカテーテルを入れて、口に麻酔を掛けてからおかゆを食べた。久し振りの固形物が美味しかった。ずっとポタージュとか、ゼリーだったからなぁ……。お母さんは鼻からの出血を心配していた。無理もない。血小板が少なくなってて、血圧がかなり高くなっていたからだ。身体は相変わらず震えと痛みと、熱っぽさが治まらなかった。


 その時、病室に一人の男性が入って来た。


 「みっ……澪!大丈夫か?」


 「こうちゃん……?」


 「すっかり、変わっちゃったなぁ」


 それはこうちゃんだった。恐らくお母さんは電話口で必死にお願いしてきて、忙しい所を来てもらったんだと思った。しばらく会わなくなってから、かなりの日数が経過していた。私のげっそりとした顔を見て驚いたのだろう。息を切らし、酷く取り乱していた。


 「……体調はどうだ?」


 「大丈夫な訳ないじゃん。……見て分かるでしょ?」


 お母さんは私の顔を見ると、笑顔ですっと部屋から居なくなっていた。私は拗ねたように、こうちゃんに背中を向け、顔を見ずに呟くように言った。こうちゃんはそんな私の細くなった身体を後ろから抱きしめてくれた。




 「会いたかった。ごめんな、寂しい思いさせたよな」


 「ホントだよ。馬鹿じゃないの?最期まで、面倒見なさいよ!彼氏なんでしょ?」


 強がって見せた私の抵抗。正直こうでも言わないと自分を保つことが出来なかったから。恥ずかしくってこうちゃんの顔を見ることが出来ない。無茶苦茶なことを言っているのが分かっていた。でも私の本心はとても嬉しかった。


 「澪、これからはまた来るよ。お前の憎まれ口を聞きに来たいんだ……あっ、それと、滝口教授から預かり物があるんだ。こっち向いてくれるか?」


 こうちゃんは一旦私から離れると、ポケットから小さな桐の箱を取り出した。私は恐る恐る、怯えるようにこうちゃんの方に振り向いた。こうちゃんの手のひらには「オルゴールで動くドイツ人形」が置かれていた。それは海外製のオートマタで、手のひらサイズのオルゴールで動くものだった。


 「澪に元気になって欲しくって、滝口名誉教授がオーダーメイドで作ったんだって。三十万するみたいだぞ」


 「うそっ……!」


 私はその額を聞いて驚いてしまった。




 こうちゃんはゆっくりとゼンマイを巻くと、木で出来た柔らかい表情の女の子の人形が「パッヘルベルのカノン」の曲調に合わせて、くるくると踊っていた。繰り返される柔らかな金属音。どこか懐かしく美しい。切なげでしっとりとした音が、私とこうちゃんしかいないセミクリーンルームの隅々まで響き渡っていく……疲れ切って、荒れていた私の心はすっかり癒され、涙を流していた。強張った顔の筋肉も、笑顔を何となく取り戻していた。本当にわずかだけれど。




 こうちゃんはゼンマイを巻き直すと、一通の預かって来た手紙をポケットから取り出して読み始めた。


 「――虹ヶ崎くん。元気かい?こんなことを聞くのも野暮だろう。手紙の先で笑っている君の顔が見えるようだ。さて、大学では新学期が過ぎ、君は予定では三年生になっている頃だ。……僕の中ではそう思っている。このオルゴールに使われている『パッヘルベルのカノン』。これは『輪唱』と言う意味の、純粋な楽曲だ。コード進行が『大逆循環』と言われていてね、美しい曲を作り出す為によく使われるコード進行なんだ。そして、ドイツの作曲家であるヨハン=パッヘルベルが作った曲でね、もともと『カノンとジーク』と言う曲が編曲されて、様々な場面で使われるようになり、今に至っているんだ。パッヘルベルの生い立ちは、実家がワイン商だった。そして学業を学ぶ為に大学に行くも、辞めてしまった。そして教会のオルガン奏者として自活し始めたんだ。彼はそんな生活の中で少しずつ作曲家としての才能を伸ばしていった。君くらいの年齢……二十四歳くらいに、アイゼナハに移り住み、バッハの家族と交流を持ちながら、音楽活動を続けていったんだ。虹ヶ崎くん。……大学を休学して、およそ半年以上経とうとしているかも知れない。それに今は白血病の闘病生活でとても苦しいだろう。けれど、君が三年前にオープンキャンパスで見せた『あの愛らしい眼差しをして、ゼミに来たあの日』を僕は忘れない。どうか『型に縛られずに生き抜いた』有名作曲家たちのように、与えられた人生を精一杯生きて欲しい。 ……鏑木工業大学 名誉教授 滝口 英彦(たきぐち ひでひこ)より」




 手紙を読んでもらって気が付いた。私はどうしてこんなに卑屈になってしまっていたのかと言うことを。そもそも、まだ諦めてはいけない。そう言い聞かせられているような気がしたのだ。小さな小さなドイツ製のオートマタは、私に向かって微笑みかけ「精一杯生きて!」と言っている気がした。


 「こうちゃん、ありがとう。……私、なんて言ったらいいのか」


 「有難いよね。澪のこと、誰も忘れてない。大丈夫だから」




 少し落ち着いて、こうちゃんは私の目を見た。


 「澪に話しておきたいことがあるんだ」


 「……なあに?」


 こうちゃんは、咳払いをして話し始めた。


 「僕は、大学院に進むことにしたんだ」


 「……凄いなぁ、こうちゃんは。私が休んでいる間に、どんどん先に進んで行っちゃうんだから……わざわざそれを言いに来たの?」


 「いや、そうじゃないんだ。君が寂しくならないように、僕はもっとロボットを研究していきたい。前に滝口教授の前で話したように、医療機器として役立つロボットを造りたいんだ。もちろん澪のお父さんから、前にあんな風に言われてしまったけど……僕は……諦めてないからね!」


 「こんなに……ボロボロの私でも、いいの?最近、痛みが激しくってモルヒネを打つようになって来てるんだよ?……カテーテルの管から血が出て、ドロドロなんだよ?いつ死ぬか分からないのに……」


 あまり喋ると具合が悪くなりそうだった。こうちゃんは、ひやひやしながら私の話を聞いていた。


 「こうちゃん、それとね……もうじき骨髄移植があるの。多分、今まで一番で辛い手術になると思う。全身に放射線掛けて、骨髄壊すんだって」


 「…………」


 「こうちゃん、死にたくないよ!!どうして私は白血病なの?!ねぇ、こうちゃん。お願い!『私がもっと生きられるように』って、神様にお願いしてよ。最近不安で不安で眠れないの。今日も帰っちゃうんじゃないの?」


 私はこうちゃんの胸に拳を何度も打ち付けた。こうちゃんは、私の話を聞いて泣きそうになっていた。しかしぐっと涙を堪えていた。噛み締めた唇から血が滲んでいた。


 「……僕だって、代われるものなら、代わってあげたいよ……どうしてなんだよ。……どうして澪なんだよ」


 こうちゃんは私を抱き締めて、私の背中を擦りながら言った。


 「澪、僕が付いてるから。祈ってるから。……また来るから。だから弱気にならないで欲しい」


 「……ありがとう」


 こうちゃんは、そっと私の手のひらにオートマタの木箱を握らせて、包み込むように手を重ねたのだった。




**


 そして二週間が経過し、九月中旬になった。病院に泊まり、放射線を眠らされている間に、身体に照射された。四日間かけて全身に六回。最後は頭に。少しずつ身体の細胞が壊れているのだろうか。立ち会っている両親が苦しそうな表情で私を見ていた。変な光線を掛けられているようで、不安でいっぱいで胸が苦しかった。




 それから小さな無菌室に入った。無菌室には一人しか入ることが出来なかった。私を思ったのか、両親は気遣って、無菌室にこうちゃんを入れてくれ、二人はガラス越しに見ていた。大学を休んでわざわざ付き添う為に来てくれた、こうちゃんが私を支えてくれていた。


 あれほど真剣に結婚を反対したお父さんも、最後はやっぱりこうちゃんのことを気に掛けてくれていたようだった。




 数日間の治療のせいか、体力もかなり消耗してふらふらで、トイレをするのもやっとだった。トイレは二、三歩の距離なのにとても歩くのが辛かった……。マスクと手袋、専用の白衣を着用したこうちゃんに支えてもらいながら、何とかふらつきながら歩いていた。




 そして、数日間の前治療である抗がん剤(アルケラン)の大量投与が終わると、いよいよ私の体内の骨髄が壊されていった。その影響で高熱が出てうなされて、お腹も下っていた。


 ぐったりとしていたけれど、新しく生まれ変わると思うと不思議と力が湧いてくるような気がしたのだった。私の身体は血液を自力で作り出すことが出来なくなっていた。


 滝口教授から頂いた「オートマタの小さなオルゴール人形」を壊れないように、しっかりと握り締めながら。これから「新しく生まれ変わる為」に。主治医の桑畑先生が、ドナーから頂いた骨髄に思いを馳せた。それは二十七歳の女性のもので、私よりも五歳上の方から頂いたものだった。ここまでやっと来られた……感謝しています。




 不純物が取り除かれた骨髄が、胸のカテーテルの管を通って、二時間掛けて私の身体に染み込んでいく……。お父さんは途中で仕事があり、お母さんとこうちゃんにその場を任せて、森城町まで帰って行った。


 たくさんの友達が、私の携帯電話に「励ましのメール」を送ってくれていた。こうちゃんは、一通一通を丁寧に、朦朧としている私に読み聞かせてくれた。




 九月十三日。それは「私の第二の誕生日」となった。うつらうつらとしながら目を覚ますと、「パッヘルベルのカノンの曲」が聴こえてきた。そして目の前で桑畑先生が私の手を握っていた。


 「……お疲れ様。よく頑張ったね。白血球が少なかったから、口とか肺にカビが生える危険性があったけれど、何とか乗り切ったよ!本当に奇跡だ」




 しかし、移植してからも大変だった。


 それから始まったのはモルヒネの投与と輸血だった。熱を出した身体を、解熱剤で下げた。食事制限が掛かり、モルヒネで舌が回らなかった。一生懸命話しているのに、言葉が伝わらない。とてもイライラした。


 朦朧とする意識の中で誰が手を握ってくれているのかが、全く分からない状況で生きていた。だるかった。……凄く身体が重かった。外に出たかったけれど、身体も動かないし、生きることに必死だった。死にたくなかった。それでも鼻から出血して、血を見てパニックで身体が震えることもあった。




**


 移植の後の二週間は経過を見る為にレントゲンを撮ったりして、身体の異常を見ていた。「早期生着症候群」と言う症状があるらしく、早くドナーの骨髄が身体に馴染むと、身体のどこかがダメージを受けて、高熱が出るらしい……。私の身体は、四十度を超える高熱を出していた。


 しかし、熱と痛みにうなされながらも、九月に入って三週目を迎えることが出来た。インシュリンや血圧を下げる薬を身体に入れたり、大量に抗がん剤を投与したりした、激しくて辛い治療の中で奇跡が起きたようだ。




 私の身体中は排出できない水分が溜まり、足のむくみが酷くなっていた。そして、手首や爪の先は抗がん剤の効果で痺れて黒く変色していたけれど、そんな中で、身体はドナーの骨髄を受け入れていた。


 三本のスタンドと十本の点滴を受けながら、何とか私の身体は一命を取り留めた。


 お母さんとこうちゃんは、嬉し泣きしながら抱き合って喜んでいた。このまま回復してくれるといいんだけど……。


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