【ver.2】Parts:012「命短し、恋せよ乙女」

 冷え込みの厳しい冬の真っただ中に差し掛かり始めた。私はぼーっと窓の外を眺めながら、この一ヶ月の闘病のことを思い返していた。


 治療開始当初は、投薬が三時間程だった。オンコビンとアドリアシン、エンドキサンの三種類の抗がん剤を二時間投与してから、ソリタT3(水分補給剤)とアスコルビン酸(膀胱炎予防剤)を常に三時間点滴した。抗がん剤の一種のエンドキサンが排尿障害を起こす為に、体内に残さないようにとラシックス(利尿剤)で、薬の体外排出を促した。そして、抗がん剤による食欲減退を回復する為に、プレドニゾロン錠(副腎皮質ホルモン)をひと月服用した。ホルモン剤の作用で、顔がムーンフェイス状態(むくみ)になった。




 私自身、抗がん剤の副作用でかなり吐き気を催すことをお医者さんから聞いていたのだけれど、そんな心配もなかった。ただ、白血病由来でときどき来るひどいめまいやだるさが辛く、お母さんやこうちゃんに助けて貰うことも多かった。


 しばらくして身体に抗がん剤の副作用が出始める。私の髪の毛は脱毛し、丸坊主になってしまった。足元に散らばる髪の毛を見ていると、少し悲しい気持ちになった。お母さんは直ぐに手編みの白いニット帽を私の頭に被せてくれた。冬の静電気と毛糸のチクチクする感触が少し肌に痛かった。




**


 冬の寒さが落ち着き、雪もじんわりと春先の日差しで溶けた頃、私は桑畑先生から、三日ほどの一時外出の許可を貰った。こうちゃんは私の顔を見ながら、車を運転し、鏑木工業大学に連れて来てくれた。ちょっと歩行が難しかったので車椅子を使うことにした。こうちゃんは、そんな私の車椅子を押してくれた。白いニット帽と顔に覆われた大きなマスク。厚めの服装だけど、入院生活で選んでる暇なんてない。それにお化粧も出来ていない。あぁ、久し振りのデートなのに、なんて私はセンスがないんだろうか……。


 


 冬の上旬に行われ、熱気に満ちたワーテックロボコンの試合から二ヶ月。優勝トロフィーと優勝旗が校舎に掲げられていたものの、校内は少し閑散とした空気だった。久し振りに訪れた大学校舎に、私は緊張感が隠せなかった。「誰から話しかけられて、どのように説明しようか」と頭の中が混乱していたのだ。そんな中でもこうちゃんは、私に気遣って優しく話しかけてくれた。


 「……澪、どこに行きたい?」


 「みんなの顔を見たいけれど……その前に、滝口先生に会いに行きたいなぁ……」


 「分かった。ちょっと連絡してから行こっか」




 こうちゃんに優しくゆっくりと車椅子を押されながら進んで行く。すると見上げた目線の先に、穏やかな表情をした白髪の教授が、私とこうちゃんを嬉しそうに待っていてくれた。


 「滝口先生、お久し振りです!」


 「虹ヶ崎くん、久保田くん、待っていたよ。さっそく見せたい物があるんだ。……中に入ってくれ」


 「分かりました!こうちゃん、ありがとう。中に入ろっか」


 ドアを開けると、その先にはアンティーク調の部屋が広がっていた。ランプシェードで照らされた、シックな雰囲気。木目調の壁紙、そして天井から糸で吊るされたからくり人形が揺らり揺れて、楽しげに踊っていた。私は病院の無機質な空間で息が詰まりそうだったので、ほっと肩の荷が下りた気がした。


 


 「滝口先生、またインテリア変えたんですか?」


 「うん。ちょうど虹ヶ崎くんが来ると思っててね。僕の趣味もあるんだけど。あ、そうだ……最近論文をまとめて、本を出した所なんだ。良かったら入院生活で暇だろうから、読んで欲しい」


 「わぁ、嬉しいです!」


 「良かったな、澪。でも、結構いい値段する本ですよ?いいんですか?」


 「あっ、ホントですね。……悪いからお金、出しますよ!」


 「ああ、いいんだ。僕からの労いだと思ってくれ。虹ヶ崎くんには期待してるんだよ」


 滝口教授はそう言ってハードカバーの二冊の本を、私から受け取り直すと、それをがさっと紙袋に入れた。「江戸時代の史学とからくりの関係」を記した、貴重な文献だった。私は読みごたえのありそうな二冊の本に対して、胸が熱くなった。




 それから私とこうちゃんは、滝口教授に「現在の白血病の病状と治療過程」を説明していた。滝口教授は黙って話を聞いてくれた。少し長くなりそうなので、教授は立ち上がると紅茶を淹れてくれた。


 「ちょうど良かった。一番摘みのダージリンティーが昨日届いた所だったんだ。今から淹れてくるから、良かったら飲んで欲しい」


 「そんなお高い紅茶、いいんですか?」


 「いやいや、可愛い私のゼミ生が、せっかく来てくれたんだ。振る舞わせておくれよ」




 滝口教授は、ティーカップとポットを熱湯で温めると、茶葉を缶からたっぷりと取って、ポットに入れた。そして、熱湯を注ぎ入れ、三分間を砂時計で時間を計って、茶葉を蒸らした。


 茶葉を蒸らしている間に、滝口教授は少し話をしてくれた。


 「ダージリンって言うのは、インドの東ヒマラヤ山麓(さんろく)の貴重な紅茶でね、標高二千メートルの斜面と外気の寒暖差、そして昼夜の温度差によって生まれる霧によって出来た高級な茶葉なんだよ。ファーストフラッシュ(一番摘み)の紅茶は、三月から四月の雨季の後の新芽を使ったものなんだよ。生命力が溢れる、素晴らしい紅茶だね」


 「詳しいですね。滝口教授は紅茶もお好きなんですか?」


 こうちゃんが質問をすると、滝口教授は嬉しそうに答えた。


 「こう、学者肌になるといろんな分野を研究したくなる物でね、今まで、ふと飲んでいた飲み物も探求してみたくなったんだよ」


 「流石ですね。僕も研究職に就こうか、就職しようか、ずっと悩んでたんです。澪が白血病にならなければ、医療関係の勉強をしてみたいなんて……思いもしなかったけど」


 「そうなの?こうちゃん」


 「話してなかったね。僕はこの大学に入って、やりたいことをずっと探してたんだけど、なかなか見つからなかったんだ。『医療用ロボット』っていろんな種類があって、……例えば『手術ロボット』とか『介護ロボット』それから『車椅子ロボット』とかがあるんだけれど、『澪みたいな人』が孤独にならないように、僕は『精神ケアが出来るコミュニケーション能力のあるロボット』を作りたいんだ。クリーンルームにも入ることが出来るだろうしね」




 私は、その言葉を聞いて驚きを隠せなかった。黙って俯いていると、滝口教授は手を叩きながら絶賛してくれた。


 「素晴らしい!素晴らしいよ!久保田くん。医療分野では、メンタルケアがなかなか行き届いていない分野だと僕も思っている。確かに九九パーセント身体の病気が治せたとしても、一パーセントの心の病までは治せないからね。患者にとっても、闘病生活は孤独で過酷なものだ。僕も君の夢を精一杯応援したいよ」


 「あ、ありがとうございます」


 「医療分野ではアニマルセラピーってのがある。けれど、『白血病患者の低下してしまった免疫力』には、動物では限界があるだろうね。悪性腫瘍もメンタル面を回復して、身体の治癒能力を高めることで克服できると思うし、『ロボットセラピー』って分野が出来てもいいと思う。……うん、夢があっていいじゃないか……あ、すまない。出来上がったみたいだ」




 教授が紅茶をカップに注ぎ分けると、辺りからほんのりとかぐわしい香りが広がった。こうちゃんはティーカップを受け取って、香りを楽しんだ後、一口を含んだ。


 「マスカットフレーバーですね。うん。美味しい」


 「そうだろう。そうだろう。……僕はね、実は海外旅行も趣味なんだけれど、西洋に『オートマタ』ってオルゴールを動力源にしたからくり人形があるんだ。例えば、一九八〇年に作られた『ギターを弾くピエロ』とか、一九〇〇年代にルヌー工房で作られた『クラウン・マジシャン』とか。外国にもっと日本の文化を知って欲しいけれど、外国には外国の良さがある。紅茶だって、現地から取り寄せたんだ。やっぱりその土地柄を知り、文化に触れ、息遣いを知ることに意味があるよね!」


 「全くそう思います!!」


 熱く語らうこうちゃんと滝口教授。私はその会話に入っていくことが出来なくって、黙って頷いて聞いていた。そして、紅茶を冷まして、一口飲もうと口に入れた瞬間だった。




「……いたっ!」


ずきんと口の中の口内炎に少し冷ました紅茶が染み、そして激しく咳き込んでしまった。こうちゃんは私の姿を見て血相を変え、背中を擦ってくれた。私は急いでマスクを口に付け、咳が治まるまで呼吸を整えていた。


「澪、大丈夫か?!」


「あ、ありがとう……ちょっと油断しちゃって」


滝口教授が心配そうに私を見ていた。こうちゃんは少し難しそうな顔をし、そして一言言った。


「滝口教授、すみません。澪を帰らせます。……ちょっと心配なので」


「ええっ、こ、こうちゃん、わ、私は大丈夫だよっ!!」


「澪、無理するな。顔色が悪いぞ」


私は、とてももどかしい気持ちだった。私だって、本当は滝口教授といっぱい話したかった。けれど、外出時間が長引いたのか、疲れが少し出始めているような気がした。こうちゃんのことを責めることが出来なかった。


「…………」


無言で車椅子を押され、そして私の代わりにこうちゃんが言った。


「滝口教授、またメールします。澪が元気な時に連れてきますので」


「分かったよ。虹ヶ崎くん、今は辛いかも知れないけれど、君のこと応援してるからね!僕もいずれは引退する前に、からくり人形を君と作りたいんだから」


私の頬から涙が流れ落ちた。マスクは涙でしっとりと濡れ、外気がひんやりとして頬に冷たかった。ねぇ、どうして私の身体は言うことを聞かないの?悔しいよ。ねぇ、……どうしてなの?




**


 ベッドで私が横になり、こうちゃんがポツリと言った。


 「……今日はすまなかった」


 私は疲れてまどろみながら、こうちゃんに言った。


 「……気にしなくていいよ。私、こうちゃんが居なかったら、どこにも行かれないもの」


 「……あのさ、友達からメール来てるけど、読み上げてやろうか?」


 「寂しくなるから、……今はいいや」


 「そっか。ごめんな。また外出許可が出たら……もう少し遠くに行こっか」


 私は黙っていた。少し気が滅入って、こうちゃんの励ましが胸に痛かった。元気になる保証なんて、一体どこにあるんだろうか――。


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