誘拐 (その二)

 指定された時刻の十九時に多摩川大橋下の河川敷に到着した。

 河口も近づいている多摩川の幅は広く暗い。日中なら野球で楽しむ人が居るだろう河川敷には誰も居ない。月明りと、遠く離れた街灯や商業看板の灯り。


 俺と同行しているのは、予定の葉風ではなく玖音。

 薄い小豆色の生地に銀の狐が刺繍された和服姿の玖音は俺の背後で冷たい霊気を抑え気味に放っている。

 悌雲からの報告で、この河川敷に芦屋栄が向かっているようだと知った玖音は、「総司には私が同行します」と葉風に反論を許さない強い意志を見せた。

 「姉さんがそう言うのなら」と、この周囲を離れたところから囲む妖狐達をまとめる役に大人しく回った。


 ちなみに、ここまでは妖狐姿の葉風に俺と玖音は乗ってきた。

 そして神渡ビルからここまでの間玖音はずっと無言。背筋が寒くなる雰囲気をかもし出していて、俺と葉風が手を出すような状況はないだろうと感じた。


 土手の階段を降りると、スウッと一人の男の姿が現れた。

 

「藍睨果、あんただったのか」


 崑崙で霊峰の下で修行していた時、何人かの仙人と会った。

 藍睨果はその中の一人。老人風の仙人が多い中、彼は四十代程度の風貌で、特徴ある銀の瞳に笑みを絶やさず、俺にとっては親しみやすかった。


「よう、総司。でかくなったな」


 玖音に気付いているだろうに、俺にだけ視線を向けたままだ。


「そんなことはどうでもいい。まず人質を返せ」

「人質?」

「ああ、うちのビルの仲間と親しい……桜井哲也という男を攫ったはずだ」

「……栄め……」


 ゆっくりと俺に近づく藍睨果の眉間に皺が寄る。

 昼間は暖かい日が続いているが、夜になると少しだけ肌寒い。

 しかし、仙人の俺や藍睨果には気温は関係ない。

 そうは言っても、人中で目立たないように服装は周囲に合せる。


 今日の俺は葉風に乗って移動しているから、動きやすいようにと黒の拳法着で来た。

 藍睨果は紺のシャツに黒のデニム。


「俺は要求通りに来た。人質を返して貰おう」


 もう一度伝えると、藍睨果は辺りをグルッと見回した。

 そして大声で叫ぶ。


「芦屋栄、人質を返してやれ!」


 腰に手を当て首を動かし、もう一度辺りを見回す。


「有利な状況を活かすということを知らないようですね」


 術を使って気配を消していたのか、俺と玖音の背後から声が聞こえた。

 振り向くと土手の上に栄が立っていた。 

 

「まぁ、お気に召さないようですので仕方ありません」


 スマホを耳にあて、誰かに指示している。


「おまえが芦屋栄ですか……」


 そうつぶやき、俺の横に立つ玖音から強い霊気が、物凄い勢いで辺りに広がる。

 その霊気は俺も掴みこんで身動きを許さないものだった。


 腰までの長い銀髪を揺らし、金色の瞳から光りを放つように栄を見据え、玖音はゆっくりと土手を上っていく。


「ははは、恐ろしいですね。あなたが玖音さんですか」


 登ってくる玖音を見下ろす栄は、この状況でも笑っていた。


「そこを動くなよ」

「残念ながら今の私では貴女あなたに太刀打ちできそうにありません。ここから去ることにしますよ。藍睨果と巽総司の戦いを見ていたかったのですがね。ああ、人質かれは返しますよ。JR川崎駅西口のトイレを探しなさい」


 そう言うと、芦屋栄だったモノは小さな白い紙切れの束と変わり、その姿を崩しながらヒラヒラと風に散っていった。


「式神を使った傀儡くぐつか、見事な技だ。だが芦屋栄よ、覚えておくがいい。この玖音をおまえは怒らせた。……近いうちに再びまみえようぞ」


 土手の途中で立ち止まり、紙切れが舞う空に向けて玖音は澄んだ声で伝える。

 もう居ないはずの栄の声が「楽しみにしていますよ」とどこからか聞こえた。

 玖音の霊気が弱まり、動けるようになった俺は振り向く。


「じゃあ、始めようか?」


 気を練り、体内から溢れそうな霊気を制御する。


「いや、その気は失せた」


 軽くため息をついて首を横に振る。


「芦屋栄と約束しているんじゃないのか?」


 俺の知る藍睨果は、性格に軽いところはあるが律儀な面もある男だ。

 旧知の俺と戦うからには、弱みを握られたなどの理由があるはず。

 その上で芦屋栄と取り引きしてここに居るのだと俺は考えている。


「まぁ、あるにはあるがそれはこの際どうでもいい」

「気が変わったとでも?」

「総司がどの程度強くなったか興味はある。だが、もともと気が進まなかったし、人質までとっていたんじゃな。それに、そこの玖音さん……が居るんじゃ、俺に勝ち目はないだろう」


 その場で座り込みそうな疲れを見せて藍睨果は呆れたように玖音を見る


 さっきは確かに凄かった。

 俺と藍睨果を含み、この辺り一帯を覆った濃密な霊気には玖音の強い意志が感じられた。

 包み込まれた俺の身体はピクッとも動かせそうになく、感じられる意思が玖音のものと判らなければ、きっと恐怖を感じただろう。

 藍睨果は、身動きできないのは玖音の意思と感じたから恐れ、そして抵抗を諦めたのだろう。

 俺は仙人としてはヒヨッコの尸解仙だから、神に近しい力を持つ空狐の玖音が放った霊気で包まれて動けなくなるのも判る。

 泰山娘娘から日本での統括のような地位を与えられたのは伊達では無いとつくづく理解した。


 だが、気仙の藍睨果ですら恐れる霊気を発するとまでは想像していなかった。


「さて、あなたをどうするかですが……」


 俺の横に戻ってきた玖音が、藍睨果に近づいていく。

 その声は落ち着いていて、先ほどまでの怒りは感じられない。


「こうなっては仕方がない。崑崙に戻り、しこたま怒られるさ」


 彼は苦笑している。


「引き渡していいんですね? こちらとしては助かりますが……」

「ああ、このまま現世で遊んで暮らしたいが、あんたや崑崙の神仙達から命を狙われるのは避けたいんでね」

「いいでしょう。無闇に命を奪いたくはありません」


 そう言った玖音は藍睨果の前まで歩み寄り首に触れる。

 ぼんやりと白い光が首周りを走った。


「念入りだな」

「当然でしょう。これで崑崙から迎えが来るまで大人しくしているしかありません」

「怪しい動きをするなら首を落とすってか?」

「ええ、お判りでしょ? 私が付けた霊気の鎖はあなたの霊核にも繋がっています。首が落ちて、その後消え去りますよ」

「綺麗なのに怖い姉さんだ」


 玖音は振り向き、やんわりと微笑んだ。


「さぁ、戻りましょう。この人に訊きたいことはありますし、何より風香に安心して欲しいですからね」


 玖音の底が見えない力のおかげで、誰も傷つくことなく桜井を救出できた。

 藍睨果という、崑崙へのおみやげも一緒に。


 ……俺は何もすることなく、拍子抜けした気分。

 だが、芦屋栄との戦いは残っていると、気を引き締めなおした。

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