子猫との遭遇

 神の子池は周囲二百二十メートルの小さな池だ。

 壮大な景観を眺めたときのようなある種のプレッシャーは感じない。

 だが、透き通ったコバルトブルーの水と、腐らずに水底で横たわる倒木が与える神秘的な空気は、葉風が話していたように神々しい力を感じさせる。


水の神ワッカ・ワシ・カムイよ、樹木の神シランパカムイよ、我らがこの地で殺生石を回収することをお許し下さい」


 池の前で跪き、頭を垂れて葉風は祈っている。

 俺は彼女の背後でその様子を静かに見守っていた。

 数分の沈黙のあと、身体を起こして葉風は振り返る。


「さぁ、池の周りを歩きましょう」


 立ち上がった俺に腕を組んで動き出す。

 まだ草木の匂いが微かに香る中、柔らかな日射しで輝く水面を眺めながら俺達はゆっくりと歩いた。


 道らしい道がなく、足下が悪いとしても、二百二十メートルなどすぐに歩き終える。十分じゅっぷんもかからずに周り終えてしまう。

 短い時間だが、自然の清々しさを感じつつ葉風の温かさを堪能でき、俺は幸せだった。

 特に何も語らなくても、二人とも同じ気持ちでいると、しっかと掴まれた葉風の腕から伝わる。


 ささやかな幸せを堪能し、そろそろ旅館への帰路につこうかとしていたその時、カサカサという音が聞こえる。何かの動物が落ち葉の上を歩いているかのようだった。

 摩周湖周辺には、エゾシカ、ヒグマ、キタキツネやエゾリスなども生息している。たとえヒグマと出遭ってしまったとしても、俺と葉風が恐れるような相手ではない。

 俺達にとってはどうということもないとしても、もしヒグマだったなら、他の観光客には恐ろしい獣だ。


 駐車場から神の子池への途中にある木道もくどうのあたりで聞こえる。

 俺達は顔を見合わせた後、その音がする方へ向かった。


 神の子池へ続く道に出て音のする側の林を見ながら歩いていると、ガサッという音と共に一匹の子猫が現れた。現れたというより、這いだしてきたという方が正しいかもしれない。

 何故なら道に出たところで、地面に身体を横たえてしまったんだ。その様子は今にも死にそうで、葉風が急いで近寄ったのも当たり前だった。


 その子猫の身体は、全体的に白く、ところどころに黒のブチがある。およそ生後二ヶ月程度の小さな身体を葉風は抱きかかえて手をかざした。


「通力が効かない! 総司、診てあげてください」


 かざした手を子猫の背にあてて、持ち上げるように俺の前に差し出した。


「通力が効かない? どうして……」


 子猫を受け取って、胸に抱きかかえて俺も手を当てる。

 気の流れを確かめると、生気はまったく感じられない。

 だが、霊気は弱々しいながらも感じる。


「死んでいる? 遅かったか」


 しかし、弱いとはいえ霊気の流れは正常。

 魂を残したまま肉体が先に滅ぶなどというのは考えられない。


 「みゃぁう」と子猫は小さな声で鳴いたと同時に、頭の中に声が響く。


『霊気を使える者よ。我を助けてくれんか』


 その声は葉風にも聞こえたようで、視線を俺から子猫へと移した。


「助けるといっても……。そもそも肉体はもう死んでいるのに……憑依か……」

『その通りだ。訳あってこの猫に憑依したのだが、離れられなくなってしまったのだ』


 子猫の身体はまだ温かい。つい今し方までは生きていたのだろう。

 だが、子猫の命が失われた以上、もうじき硬直が始まる。このままでは憑依した霊体が何であれここから動けなくなるのは間違いない。そして本来の状態でなければ霊気を補充することもできないだろう。

 つまり憑依体も死ぬ。


「助けるのはいいが、お前は何者だ?」


 子猫を抱えたまま霊気を子猫に流し込んでいく。俺からの霊気が続く間は、憑依体は子猫の中で生き続けられる。


『私はナラの木の精。ニセウという』


 樹齢数百年の木には精霊が宿ることがある。

 幽のあやかしの一種だが、樹木の精なら危険はない。 


 本体の樹木から離れた精霊は極度に弱体化するので、早く対処しないと消えてしまう。

 詳しい事情を聞いておきたいところだが、もたもたしている余裕はない。


「葉風、一旦、神渡ビルへ戻るぞ。俺の霊気を与え続けるのにも限界があるからな」


 「わかりました」と答えた葉風は九尾の白狐の姿に戻る。

 ……俺は子猫ニセウを抱えたままその背に乗った。


・・・・・

・・・


 神渡ビルまで三時間かからずに到着した俺達は、いつものように自室で瞑想にふけっていた玖音に子猫ニセウを預けて再び摩周湖まで戻った。旅館で支払いを済ませないといけなかったからな。


 俺が残るという選択もあった。

 だけど、観光客も少ない時期に近くには大きな街もないところで、チェックアウトの際にペアの片方が居ないというのは怪しまれるのではないか?

 旅館の方へ変に不安を残すのも嫌だったし、玖音に任せておけば心配はないからと二人で摩周湖までを往復することとした。


 五時間後、摩周湖そばの旅館でチェックアウトを済ませ神渡ビルに戻った。

 玖音の部屋へ行くと、瞑想状態の彼女の横で黒ブチの子猫ニセウが身体を丸めている。

 俺と葉風が部屋の入り口あたりに座ると、気付いて身体を起こして近寄ってきた。


 「みゃぁう」と鳴声をあげ、まず俺の膝に身体をすり寄せ、そして正座している葉風の膝上に乗って身体をすり付けてた。葉風はその背を柔らかく撫でている。


「もう大丈夫だ。連れていくがいい」


 こちらに背を向けている玖音から声が聞こえた。葉風はニセウを抱きかかえる。俺達は立ち上がって一礼して部屋を出た。

 まだ引っ越ししていないから、元の俺の部屋へ入る。


『助かった。感謝する』


 俺達が並んでソファに座ると、葉風に抱かれたニセウからの声が頭に伝わってきた。


「助かって何よりだけど、事情を教えてくれ」


 ニセウは静かに説明を始めた。

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